目白通りを谷原に向けて走っていると,胸元で携帯電話が震えた。
右手首につけたダイバーズウォッチの文字盤を見て,時間に余裕があることを確認し,バイクを路肩に寄せる。
パチン,と音を立てて電話機を開くと発信者名は「浦原」となっていて,一護はフルフェイスのヘルメットを毟り取るように脱ぐとグローブを外すのももどかしく通話釦を押した。

「もしもし?」
「黒崎サン?」
「ああ。どうした?」
「今,どちらで」
「ええと目白通り。豊玉陸橋の手前」
「この後時間は?」
「…作れっけど」
「じゃ,またお願いしたいんで後でうち回って貰えます?」
「一件片付けてからだから四時くらいになるけど」
「お待ちしてます。じゃ,四時に」

ふわりと笑う気配があって,通話が切れた。
つー,という音を打ち消すように電話を切り,胸のポケットに戻す。
腕時計を確認し,再度イグニッションを回した。

仕事道具のバイクは中古で手に入れたものではあったが,散々手を加えているためかなりよく走る。
機嫌よく始動したエンジンの振動を感じながら,一護は電話の声を思い出していた。

『お待ちしてます。じゃ,四時に』

浦原の声が好きだった。
低めで柔らかくてどこか甘くて。
ふわり,包み込まれるような響き。

友達ではない。
知人ともまた違う。
ただの顧客。
それなのに着信を知らせる携帯電話は個人所有のもので,そうして直通で電話を受ける度必ず諾と答え,家へ向かうのはあの声のせいだった。

ぴん,ぽーん。

16:04
腕時計の文字盤を確認して一護は脱いだヘルメットを抱えなおした。
そして一度押した指をゆっくりと離すやり方で呼び鈴を鳴らす。
それが一護のくせだった。

手を放してしばし耳を済ませていると,「どーぞー」と間延びした声が家の中から微かに聞こえた。
引き戸に手をかけると鍵はかかっていず,からからから,と簡単に開いた。
無用心な,と思わなくもなかったが毎度のことなので敢えて考えないようにして玄関に入る。

「お邪魔します」

聞く者などいなかったが,律儀にそう告げながら靴を脱ぎ,家に上がった。
声のしたのは廊下を突き当りまで行った右側,浦原の仕事部屋だった。

「浦原?」

 ドアをそっと引き開け,様子を窺うように声をかけると机の上に覆いかぶさるようにしてペンを走らせていた背中がひくりと跳ねた。

「あーもう四時なんスね? 早いなあ…」

長い指がくしゃくしゃの月色の髪に差し込まれ,わしわしわしっと掻き毟った。
机に向かった猫背が伸び,背もたれがぎしぎしと悲鳴を上げるほど体重をかけて仰向けに一護を振り返る。

「ごめんなさい。まだ上がらないんスよ」

疲れの滲む顔で申し訳なさそうに云う浦原に一護は首を振って見せた。

「いや,今日の仕事急ぎのはもうねぇからいいけど。どれくらいで終わんの?」
「うーん…後一時間も貰えれば」
「じゃ,待っててやるよ。ソファ,借りていいか」
「どうぞどうぞ。あ,サーバにコーヒー淹れてあるんでそれも飲んで?」

勝手知ったるなんとやら。
一護は部屋の隅のコーヒーテーブルに設えられたサーバからカップにコーヒーを注いで手にし,その手前に置かれたソファに身体を沈めた。

カップを口につけると缶コーヒーにはない深みと苦味,そして微かな甘みが広がった。

「毎日っていうか一日に大量に飲むもんスから,豆だけはいいの選んでるんスよ」

いつだったかそう云った浦原の言葉通り,ここの家で飲むコーヒーは文句なしに旨かった。
秋も深まり,日差しは暖かでも時速六十キロオーバで疾走すれば風は冷たく身に滲みる。
そうして強張っていた身体が熱いコーヒーによって少しずつほどけていくのを感じた。
一護は深く息を吐くと再び机にかじりついた浦原の背中を見つめた。

浦原は小説家だった。
日々仕事に追われゆっくり本を読む時間などない一護には無縁だったが,かなり著名ではあるらしい。
連載なのかなんなのか定期的に一護の勤務するバイク便を利用する上得意。
前任者が事故に遇い,その隣のエリアを受け持っていた一護が急遽立ち寄ることになったのはもうかれこれ一年半も前のことになる。

一番最初に訪ねたとき,玄関先でヘルメットを小脇に抱えた一護を真っ直ぐに見て,浦原はいきなり云った。

「これからずっと,うちの担当キミにお願いしていいっスか?」

何を云ってんだ?
怪訝に思いながらも「うちの店は顧客単位で担当するんじゃなくてエリアごとの担当なんで」と控えめに云った。

しかし浦原は動じることなく,「キミ,アタシが月にいくら払ってるか知ってる?」と一護の目を覗き込むように云い,一歩距離を詰めてきた。
玄関のたたきに裸足で踏み出した浦原は,それでも一護より背が高く,「話すときは相手の目を見て」という子どもの頃に受けた教えを遵守する一護はやや上向かねばならなかった。

浦原の手が伸び,一護の髪に触れた。
こめかみの一房をつまみ,掻き上げるように指をもぐらせる。

「アタシ,こう見えてもお宅の上得意なんスよ。それくらいの融通は利かせてもらっていいはず」

髪の感触を楽しむように幾度となく梳きながら眇めるような目で自分を見下ろす浦原は背骨に糖蜜でも流し込まれたような気になるほど甘ったるい声をしていた。

「ていうか,なんで…」
「んー,この髪」
「髪?」
「橙色,アタシのラッキィ・カラーなんで」

にぃ,と笑った浦原はどこまでが本気かわからない目をしていた。
一護はからかわれている,と断定し,眉間に皺を寄せ顔を背けるように身体を引くと「俺には判断がつかないんで,店に直截云ってくれ」とだけ云って書類を受け取り踵を返した。

変なのに捕まっちまったな。
困惑とからかわれたことに対する苛立ちから,いつもより乱暴にエンジンをスタートさせ,二度だけ空ぶかしさせた。
その音を聴いて,後はエンジンの振動に意識を集中させれば変な客のことなど忘れられる。

どうせ今回限りだ。
そう思った。
しかし,浦原との縁はそれだけでは切れなかった。

自分は上得意だ,と云った浦原の言葉はあながちはずれていなかったらしく,帰社すると支店長に呼ばれ浦原の専属につくように,と厳命された。
それに伴って担当地域にも変更があり,せっかく覚えた裏道の数々が無駄になる,と鎮めたはずの苛立ちを再び感じながらたかがひとりの客に,なんでここまで,と思うことをそのまま表情に出すと,支店長が困ったように眉尻を下げため息を吐いた。

作家というのは締め切りぎりぎりで仕事をすることが多いため,バイク便の利用も多い。
売れっ子な作家で週刊誌への連載などを抱えているとともすると毎日集荷の予約が入る。
その作家が出版社の担当に声をかければ件数は更にそれの倍。
その上浦原は同業の友人知人に「依頼するなら**便がいいっスよ」と触れ回ってまでいたらしい。
そんな風にして「浦原絡み」の顧客が増え,かなりの売り上げになっているらしい。
ことは一護の所属する支店だけに留まらないため,今回の処置になったとのことだった。

そういう経緯を事細かに知らされてしまえば断ることなどできるはずもない。
にしても,なんで俺が…。
舌打ちをしたいような心地のままそう呟いたのも束の間。
電話がかかれば家に回り,書類を受けて指定された場所に届ける。
それが当たり前になるまでそう時間は必要としなかった。

浦原は最初こそ強引な素振りを見せたが,以後は無理も云わず,こちらの事情もきちんと汲む嫌な客ではなかったので一護も特に煩わしく思うことなく通っていたのだった。

「もしもし黒崎サン?」

浦原はいつも営業所ではなく一護の携帯に電話をかけてきた。

「だってどうせ黒埼サン以外に頼まないんだから直通で電話したって一緒でしょ」

最初に電話がかかってきたときに規則だから一度事務所を通してくれ,と云った一護に浦原は飄々と云ってのけた。
番号を教えてもいないのに何で知ってるんだ,という問いには「店長サンが教えてくれましたよ?」とにっこり。

その笑顔をうんざりした面持ちで見つめながらアンタは楽かもしれないけど,俺がいちいち事務所に電話しなきゃなんねんだよ面倒くせぇ,という不服が喉元まで出かかったが,云うだけ無駄だと諦めた。

浦原から電話がかかってくるのは十一時過ぎから十四時前が多かった。
ある日,午前の集配を三件済ませ,事務所に一度戻ろうかと方向転換をしかけたときに胸ポケットにしまってある携帯が振動した。

「どれくらいで来られます?」
「昼くらいには行ける」
「だったら駅前の『結屋』でおにぎり買ってきてもらえません?」
「は?」
「おなかへって死にそうなんスよ…」

今にも倒れん,というような情けのない声でそう云われ,なぜだか否とは云えなかった。
店の位置の詳細を確認すると「あ,買ってくるのは二人分でね」と当たり前のように言われた。

「昼と晩,同じもの食うのかよ」
「違いますよン」
「?」
「ひとりで食べても味気ないし,おつかいお願いするお礼に黒崎サンの分も買ってきて,て話」
「別に…俺は」

客にそんなことさせられないとか断る理由はいくらでもあったのに,言いよどんでいるうちに「お茶くらいは淹れますから,どうぞ食べてって」と云って通話は切られてしまった。

そんなことが二度三度続き,気がつくと一護は浦原の住む街の飲食店にかなり詳しくなっていた。
駅裏のレ・クレシェンドのバケット・サンド。
駅前通の結屋のおにぎりとタージ・マハルのカレー・ランチ。
菊花工房のベーグル・サンド。
浦原の家から程近くにある笑屋の季節の重という弁当など幾度食べたかわからない。

昼代が浮くのは悪いことじゃないし,通りすがりのコンビニやファスト・フードで済ませるよりも断然に旨い。
食い気に弱い一護は断るタイミングを逃したこともあって云われるがままに週に二度から三度のペースで浦原の家へ昼食持参で通っていた。

昼前でなく午後に電話がかかってきたときも配達物を受け取ってそのまま出発,ということにはならなかった。

「コーヒー,飲みません?」
「あ?」
「チョコレート貰ったんスけどアタシ甘いの苦手なんですよ。もしよかったらどうぞ」
「や,コレ運ばないと」
「もう三日もひとと口利いてないの。このままじゃアタシ駄目になる…」

おいおい,一昨日の夕方俺来てるだろうが。
思わず胸のうちで突っ込みを入れながらも袖口を掴まれ「だめ?」と重ねて乞われて靴を脱ぐ。
浦原の仕事部屋のソファに並んで腰を下ろして益体のない話をしながら短くて半時間,長くて一時間ほど過ごす羽目になるのが常だった。

そうして通うようになって半年が過ぎたある日,前日髪を乾かさないまま布団に倒れこむようにして寝入った一護は,風邪気味の身体を引き摺って配達に回っていた。
自分の糊口は自分で凌ぐ。あれこれ事情はあったものの大学を自発的に辞めてしまった引け目もあって実家を頼ることはしたくなかった。
多少の不調は押して仕事に出る。仕事に出ればバイクが自分を運んでくれる。自分はほんの僅かの身体の動きと後は頭で判断を下すだけ。
そう高を括ったのがまずかったのか,夕方遅く浦原の家にたどり着いた頃にはかなりの悪寒が一護を苛んでいた。

「どうしました? 具合悪い?」

青ざめた一護の顔を見て,浦原は開口一番そう云った。
一護は緩く首を振ると「風邪気味なだけ。ここがラストだから平気だ」と呂律の回らない口調で云った。

浦原が近づいてくる。
ふらつく身体を支えるように腰に手を回され,額に手を当てられる。
身体は背骨が氷柱にでもなったかのように寒気がひどいのに,顔は酷く熱く,ひやりとした浦原の掌を心地よいと感じた。

「うちで休んでいきなさい」

硬い声で浦原が云った。
なんで怒ってるんだ?
一護はぼやけた頭でそう思い,先ほど口にした言葉を再度舌に載せる。

「ここが最後だから,平気だ」
「平気じゃないでしょ。いったい何度あるんスか。これだけ熱が出てたら相当キツイはず」

眉間に寄った皺をよく覚えている。
こいつのこんな不機嫌な顔,見るの初めてだなあ。
そう思って「大丈夫だから」と微笑むと,浦原が舌を鳴らした。

ぐらり,視界が傾ぐ。
気がつくと浦原に荷物のように抱え上げられていた。

「なにすんだよ!」
浦原のシャツの背中を掴んで喚くと「煩い」と冷たい声が降りてきた。

「煩いはねーだろ!放せ!」
「病人は黙って」
「病人って! ガキじゃねえんだ,自分の体調くらいわかってる!」
「ふうん…」

連れ込まれた先は浦原の仕事部屋。
ソファにどさりと下ろされると,腕を組んで自分を見下ろす浦原と目が合った。

「な,なんだよ…」
「じゃ,キミの体温が今どれくらいあるか当ててごらんなさい」
「は?」
「ちゃんと当てられたなら好きにするといい」
「なんだよそれ!」
「わかるんでしょ? 自分の体調」

ふふん,と鼻で笑う浦原に頭に血が上った。
売り言葉に買い言葉,「熱なんかねえよ!」と叩きつけるように云ってしまってから後悔した。

熱がないわけがない。
思わず揺らいだ視線を逸らすと,頭の上でふ,と笑う声がした。

「熱,ないんだ…?」
「…う」
「ないんだ?」
「少しは,あるかも」
「少し?」
「三十七度とか,それくらい…」

思わず上目遣いになった一護を浦原はじっと見下ろすと腰を屈め一護の前髪を掻き上げた。
そして額に自分の額を押し当て,「三十七度,ね」とため息のような声で云う。

一護が身体を強張らせ,目を見開いている先で浦原の瞼が落ち,僅かに顔が傾ぐといきなり唇を押し付けられた。

「……ッ!」

仰天してその肩を押し遣ろうと突っ張った両手を握りこまれ,ソファの背に押し付けられる。
浦原は唇を割って舌を差し込んできた。
口内を探るように舌は動き,一護の舌を絡め取って吸い上げた。
自分のものより温度の低い,濡れた柔らかいものによって齎される感触に一護は目の前がちかちかするのを感じた。

キス,されてる。
その事実にまるで頭を殴りつけられたような衝撃を受け動転する。

「そんなわけないでしょ。たぶん四十度近くある」

一護の狼狽をよそに,浦原はあっさり口を放すと口の端をぺろりと舐めながらそう云った。
ソファに沈み込んだまま荒い息を繰り返す一護に背を向け,机の上のペン立てから水銀の体温計を取り出すと軽く振り,一護に差し出した。

「測ってごらんなさい」

差し出されたそれをしばし見つめる。

オマエ,ひとに何しやがった。
つーかなんでそんな普通に…。
纏まりのつかない思考を千々に乱れる感情のままに視線に込めて浦原を睨みつける。
しかし浦原は動じることなく「自分で出来ないの? やってあげましょっか?」と一護の前に膝をついた。

これ以上触られてなるものか,と一護は浦原の手から体温計をひったくると,エアフォース・ジャンパのジッパを引き下げ,フード付のトレーナの襟首から手を突っ込んで体温計を脇に挟んだ。
ひやりとした感触に,背筋を悪寒が駆け上がった。

「……っ」

眉間に皺を寄せ俯いてそれを堪える。
浦原はやれやれ,というように息を吐くと立ち上がり,部屋を出て行った。

一護は緊張を解いて,頭をソファの背もたれに深く預けた。
耳の奥で鼓動がずくずくと鳴っている。
熱は思ったよりも高いのかもしれない。
いや,それよりもさっきのアレは,いったい…。

吐いた息が熱かった。
かちこちかちこち,耳をつくのは右手の壁にかけられた時計の秒針の音。
首を巡らせて時間を見ると16:30を回ったところだった。
左手に視線を飛ばすと,ブラインド・カーテンのかけられた窓から藍と茜の混じった光が差し込んでいて,夜がそこまで来ていることを告げていた。

服に手を突っ込み,体温計を引き抜く。
窓から漏れる明かりを頼りに表示を見ると,黒い線は三十八度を超えて三十九度に及ぼうとしていた。

ため息を吐く。
やっべー…と呟いたのとかちりという音がしてドアが開き,頭上のダウンライトが点ったのが同時だった。

「やばいって何が?」

浦原の手には500mlのペットボトルが二本あった。
後ろ手にドアを閉めると一護に歩み寄り,ソファの開いたスペースに腰を下ろす。

「体温計は?」

一護の手が握りこんだそれを見ながら口を開く。
一護は左右に首を振った。

「見せなくてもいいから。何度だったんスか?」
「35度5分」
「嘘つき」
「……38度7分」

咎める口調で「嘘つき」と云われ,本当のことを云うと浦原の口からは深いため息が漏れた。
「ほら,云わんこっちゃない」と云われたような気がした。

一護が口を噤むと浦原は手にしたペットボトルの蓋をねじ開け,一護に差し出した。

「飲んで。脱水起こすと厄介でしょ」
「……さんきゅ」
「お店には電話しておいたんで,今日はうちで休んで行って下さい」
「いや,迷惑だろ…?」
「迷惑なんて問題じゃないでしょ。これでキミがここを出てどこかで事故にでも遇ってご覧なさいな。その方が寝覚めが悪い」
「でも…」
「ごちゃごちゃ云わない。ここはどうせアタシひとりしかいないし,迷惑云々抜かすヤツもいない。キミはアタシを安心させるためにもここで休んでいくの。いいっスね?」

びし,と言い渡され,返す言葉もなく頷いた。
渡されたペットボトルはスポーツ飲料で,飲み干した端から身体に水分が浸透していくような心地がする。
たちまち一本を飲み干した。

「隣,寝室シーツ変えたんでそこで寝てくださいな」
「え,そしたらアンタは…?」
「何,一緒に寝て欲しいの?」
「ちげえよ!」

噛み付くように云った一護に浦原が笑う。

「それだけ元気があるならすぐよくなるでしょ。喉が渇くといけないんでこっちのは予備。眠くなったらアタシもベッドにお邪魔するかもしれませんが,大丈夫」

そう云いながら立ち上がり,目顔で一護を促す。
立ち上がった一護の背に労わるように手を回し,隣の部屋へと導いた。

廊下に出て数歩。
ドアを開けるとすぐ右側に巨大なベッドがでん,と据えてあった。

部屋の大半をベッドが占めている。
左手の壁は全て中折れ式の扉になっていて,クローゼットか何かであろうと推測された。
そして壁一面の窓。
やっぱりブラインドカーテンがかけられていて,宵の口特有の昼の名残がほんのり残る薄明かりが差し込んでいた。

夕方は夜の気配が濃厚なのに,宵の口には昼の気配が滲むのはなんでだろう。
場違いながらそんな考えがふわりと浮かんだ。

「これだけ広ければアタシが後でこっそりお邪魔しても大丈夫でしょ」

ぼんやりしている一護の背をそっと叩いてそういうと,浦原はくしゃりと一護の髪を撫でる。
そして「じゃ,アタシは仕事に戻りますんで」と言い置いて部屋を出て行った。

ひとり取り残された一護は,ふう,と息を吐くとごそごそと上着を脱いでジーンズにフード付トレーナのままベッドに潜り込んだ。
鼻をくすぐる浦原の匂いに居心地の悪さを覚えたが,身動ぎして安定する姿勢を見つけるとそのまま目を瞑った。

何かを考えることが億劫だった。
甘えてしまえ。
そう思った。

間を置かずして睡魔がやってくる。
身体がベッドに沈みこんでいくような錯覚を覚えながら一護は意識を手放した。

次に目が覚めたのは明け方だった。
夕方とは違う薄明かりの中,額に置かれた冷たいタオルの感触が心地よかった。

「うら,はらさん…?」

掠れた声で名を呼ぶと,「オヤ,起こしちゃいましたか?」と低めた声がした。
浦原は枕元に腰を下ろし,曲げた膝に腕を預け,一護を見下ろしていた。

「悪い,俺…」
「十二時間近く寝ましたかね。少しは楽になりました?」

もそもそと身体を起こす一護に,浦原は新しいスポーツ飲料のペットボトルの蓋を開けて手渡した。
一護はさんきゅ,と小さく礼を云って受け取ると,喉を鳴らしてそれを飲んだ。

「ずっと起きてたんだ」
「んー? でも飽きなかったっスよ」

笑みを含んだ声に,一護はペットボトルに口を付けたまま視線を向ける。
浦原は相変わらず柔らかな笑顔でこちらを見ていた。

「なんで」
「だって一護サン,寝てるときまで眉間に皺」

ふふふふふっと堪えかねたように笑った浦原に,一護は顔を赤らめた。

「眉間に皺って…,いや,それより名前!」
「ベッド貸したお礼に,それくらいの特権くださいな」
「特権…」
「あはは,嫌そうな顔」

浦原の手が伸び,額に触れられた。
一護は肩を竦めるようにしてそれを受ける。

「ん,熱は下がったみたいっスね。このまま朝まで寝ていけば,昼には動けるんじゃないんスか?」
「や,もう帰るよ。明日っつーか今日も十時から仕事だし」

ベッドから降りるべく身体を捩った一護の背中に,浦原の声が当たる。

「お休み」
「へ?」
「店には連絡しちゃいましたよ? 休ませますって」
「え,ちょっと待てよ!なんで!」

がばっと振り返った一護に浦原はにぃ,と笑って見せた。

「あのねぇ,世の企業ってものにはいろいろと突かれたくない箇所がいくつもあるんですよ。今回のことで云えば安全衛生とかそっち絡みのアレコレがね。そういうところちょん,と突くとあちらさんはぐーの音も出ないものなんです」
「じゃなくて!」
「一日くらい休んだって,罰は当たりません。ここで無理して入院騒ぎにでもなったらどうするの?」
「自分の体調くら」
「熱がどれくらいあるかも自覚できないくせに?」
「…………」

ここにくる経緯がアレでは言い返せたものではない。
一護は口を噤むとじっと浦原をにらみつけた。
そして深く息を吐く。

「どっちにしろ帰るよ。迷惑かけて悪かったな」
「誰が迷惑なんて云いました?」
「云ってねえけど…」

普通は迷惑だろう。
目を伏せた一護に,浦原は云う。

「迷惑なんかじゃアリマセン」
「…………」

声は真っ直ぐ一護に響いて,一護は返す言葉を失って目を閉じた。

「一護サン?」
「………寝る」

浦原に背を向け,ごそごそと布団に潜り込む。
ベッドの端を向いて背中を膝を抱くように身体を丸めると,ぎし,とベッドが軋んだ。
自分の背中のすぐ先が沈み込む気配。

え?
一護は背を強張らせた。

「さすがにアタシも眠いんで,お邪魔しますよン」

一護は口を開きかけて閉じた。
よくよく考えればここは浦原の家。
浦原の寝床。
自分に否を唱えられるはずもなく。
しかし次の瞬間,さすがに声を荒げて身を捩った。

「ちょっ! 放せよ!」

浦原の腕が伸び,一護の腹に回されたのだった。
背中に,浦原の体温が密着する。

「一護サン,おやすみなさーい」

一護の非難を黙殺して,浦原は長閑な声でそう云うと,一護の頭に頬を寄せて深い息を吐いた。
首筋がざわりと粟立つような心地を覚えて一護が身を竦める。
その隙を衝くように浦原は一護をすっぽりと抱き込むと間を置かずして寝息を立てだした。
一護はなんとか腕を抜けようと試行錯誤したが,回された腕はどうにも強固で解けなかった。

しばらく奮闘して,諦めた。
宿代。
そうは思ったが,身体で払う謂れはない。

自分の考えに自分で腹を立て,いらいらした後,どっと疲れが押し寄せてきた。
すべての苛立ちをため息に変えて吐き出すと身体から力を抜き,目を閉じる。
耳に響く浦原の寝息が一護の睡魔を導いた。
するすると身体が解けていくような錯覚を覚え,一護は再び眠りの淵へと沈んでいく。
背中から包みこまれる熱が心地よかった。

翌日,すっかり熱が下がって身体が軽くなると浦原の奨めでシャワーを浴び,着替えを借り,挙句に「出前取ったんで食べてきません?」と鶏出汁の利いた中華粥までご馳走になって一護は浦原の家を出た。
前日の浦原の振る舞いに対する戸惑いや居心地の悪さは,浦原があまりにも普通に接してくるので馬鹿馬鹿しくなってしまいそのまま棚上げになっていた。

「いろいろと,サンキューな」
「イイエ。アタシも久々に家に誰かいる,て感じがなかなか心地よかったですし」
「アンタ,ずっと一人暮らしなのか?」
「えぇまぁ。もう二十年方ヒトと暮らしたことはないですねぇ」
「二十年…」
「そ。十六からずっとっスから」
「あ,そうなんだ…」
「……今,何か変な響きがありませんでした?」
「え,いや,別に」
「黒崎サン,正直に云って?アタシのこといくつだと思ってました?」
「違う違う,そうじゃねって」
「じゃあ何」

じゃれるようなやりとりの後,ひとりバイクを走らせながら一護は胸のうちにもやもやとした掴みどころのない思いが満ちるのを感じた。

変な,ヤツだよな。
首筋に触れる風が冷たくて思わず首を竦めると借りたシャツから浦原の匂いがして,一護はそれを深く吸い込んでしまう。
なんだか居た堪れなくて一護はフルフェイスのヘルメットの下で眉間に皺を寄せるとけほけほと咳をした。



*



本当に変なヤツ。
そんな風にしか思っていなかったはずなのに,気がつけば浦原との距離はどんどん縮まっていった。
例によって集荷ついでに昼食を運び,ダイニングのテーブルで向かい合ってそれを食べているときに一護の携帯が鳴った。
営業所から貸し出されているそれではなく,個人所有の方だった。

実家の家族からの連絡で,浦原に目顔で詫びながら通話ボタンを押して用件を聞いた。
パチン,と携帯を閉じてテーブルに戻ると,浦原が頬杖をついて一護のことをじっと見た。

「ねぇ一護サン」
「あ?」

今日のメニュは海老カレーとナンのセットだった。
海老の旨味のたっぷりしみたカレーに香ばしく焼かれたナンを浸して口に運ぶ。
浦原に呼ばれて視線を向けると,浦原は手にしたフォークでちょいちょいとテーブルの端に置かれた携帯電話を指し示した。

「その番号教えて」
「なんで」
「知りたいから」
「会社の携帯知ってるだろ」
「でも一護サン仕事終わると携帯切っちゃうじゃないスか」
「当たり前だろ。仕事用なんだから」

何わけのわかんねーこと云ってんだよ。
視線でそう云いながら再びカレーに浸したナンを口に運ぶ。

そんな一護をじっと見つめた浦原は「まったく,鈍いって云うかなんていうか…」とひとりごちるように呟いた後,不意に腰を上げて一護の方へ顔を寄せた。

「わぁ!」

口の端に,浦原の唇が触れた。
一護は飛び退くように身体を引くと,思わず口許を覆った。
その顔は見事なまでに赤く,それを目にした浦原はくすくすと笑った。

「笑ってんじゃねぇ!」
「だって一護サン真っ赤だ」
「つーかなんでアンタこんなこと…!」

噛み付かんばかりの勢いで喚く一護に浦原はしれっと「カレーがついてたから」と云ってのけた。

「そ,そんなん理由になるかあッ!」

がしがしと手の甲で口の端を拭いながら一喝したが,浦原は動じない。

「えー,だって一護サン意地悪するから」
「あぁ?」
「その携帯の番号,教えてくださいな」
「だからなんで!」
「教えてくれないと,もっと酷いことしちゃいますよン?」

結局一護は携帯の番号を教え,以後,浦原は営業所から支給されている方ではなく,故人所有の方に電話をかけてくるようになった。

一事が万事そんな様子で,一護は浦原に振り回され通しだった。
その都度怒鳴りつけたり時と場合によっては実力行使も辞さなかったが最終的には浦原の思い通りにことが運ぶことが多かった。

浦原はときとしてひどく甘い声で一護の名を呼んだ。
電話でも,相対しているときでも。
何が違うと明確に言葉にすることはできなかったが,その声を聞くと一護は居た堪れなくなった。

一護が困った顔をすると,浦原は苦笑を浮かべる。
まるで利かない子どもを見守るようなその眼差しは,好もしいものではなかったが,あの声に比べればずっとマシだった。

共に過ごす時間が増え,交わした言葉が集積していく。
気がつくと一護の携帯の着信履歴は浦原の名前に占められていた。

そうやって浦原は少しずつ一護との距離を詰めていった。
軽い調子で「一護サン,大好き」などといい,鮮やかな橙色の髪を指で梳いてそのまま抱き締めることすらあった。

  「黒崎サン,起きて? 起きて? 一護サン!」

ゆさゆさ,ゆさゆさ,肩に手の感触を受け,身体が揺さぶられた。
一護は身動ぎして目を擦る。
目の前に,膝立ちになった浦原の顔。

「んぁ…?」
「こんなところで寝てたら風邪引きますって」
「あ,…悪ぃ」

ソファに座って一休みするつもりが,いつの間にか寝入っていたらしい。
何か長い夢を見ていたような気がする。
一護は身体を起こすと,思い切り伸びをした。

「よく眠れた?」

浦原が一護が身体を起こして空いたスペースに腰を下ろす。
首の後ろに手をやり,ぐるぐると回しながら「ああ,よく寝た。つーか終わったのか?」と浦原を見る。

「終わりましたよン。梱包してあるんで,明日朝一でお願いします」
「明日? 今日行くぞ?」
「だーめ。一護サンはこれからアタシと出かけるんスから」
「……は?」
「夜ごはん,つきあってくださいねって云ったらイイって云ったじゃないスか」
「いつ」
「さっき」
「誰が返事した? 俺が?」
「しましたよン?」

アタシは聞きました。
にっこり笑う浦原を一護は胡散臭げに見つめた。

浦原はたぶん嘘を吐いている。
しかしここまで厚顔に云い切れるヤツも珍しい。
それともアレか。
寝入りばなにでも云われて俺がうんって頷いたのか。どっちにしろずる…。

むに。
唐突に頬を,しかも両方とも抓まれた。

「にゃにひやがる」

口を横に引っ張られたまま一護は浦原を睨み付けた。

「何一人の世界に入ってるんスか」
「原因はオマエだ馬鹿野郎」

持ち上げた手で頬を抓む手の甲をぎゅっと抓った。

「痛い!」
「天罰」
「天罰って一護サンがしたんじゃないスか」
「俺の手を借りて神が下した天罰だ」
「そんなあ…」

手の甲をさすりながら上目遣いで見つめる浦原を一護は笑った。

「メシ,どこで食う?」
「中華が食べたいって思ってるんスけど。一護サンは?」
「中華上等。ちっきしょ,腹減ったなあ…」
「どうして『ちっきしょ』なの」
「オマエのせいで自覚させられたから」
「空腹を?」
「空腹も,かな…」

空腹も?
窺うように首を傾げた浦原に一護はなんでもね,と笑うと身体を起こした。

浦原は起き上がりかけたその肩をとん,と突くとソファの傍らに膝をつき,一護の顎を指で捕らえた。

「何すんだよ」
「天罰」
「は?」

重ねられた唇。
これのどこが天罰なんだ。
一護は瞬間身体を強張らせたがすぐに力を抜いた。
悔しいから首に手を回したりはしないけれども,浦原から与えられる感覚は全てが快いものだった。

触れる指も掌も唇も。
懐柔されてる,と思うけれどもそれは存外心地悪いものでもなくて。

唇を薄く開いて差し込まれた浦原の舌を受け入れながら,目が曇ってやがる,と一護は苦笑いを浮かべた。










拍手ありがとうございました。


とうとう拍手までド・パラレルでスミマセン…。
少しでも楽しんで頂けたら幸いです。


西條 葎