ざり,という畳の擦れる音がやけに大きく響いた。
一護は首を竦めて身体を強張らせていた。
「歯を食いしばれ」そう云われたときのように。
しかし身構えた身体に訪れた衝撃は痛みではなかった。
どちらかと云えばやわらかく,甘い。
触れられたのは額。触れたのは唇だった。
身体が浮き上がるような感覚に動揺して,ぎゅっとつむった目を恐る恐る開く。
顔の両脇に肘をつかれているため逃げ場はどこにもない。
こんなにもいたたまれないのに。こんなにも胸が痛いのに。
浦原が何をしたいのか一護にはわからなかった。
鼻先の触そうな距離にある浦原の瞳は深い深い緑色でそこから汲み取れる思いは何もなかった。
ただ,きれいだと思った。何かに例えたり的確に表す語彙など持ち合わせてなかったが,魅入られたように目が離せなくなっていた。
ほぼ毎日の恒例となりつつある浦原商店でのおやつの時間,一護はテッサイ手製の栗蒸し羊羹を完食し,満足の息を漏らすと浦原の名を呼んだ。
「なぁ」
「……なんです,猫みたいに」
猫ってなんだよ。
一護は鼻の頭に皺を寄せると「たまにはつきあわねぇ?」と主語を省いた台詞を放った。
「つき合うって,何に?」
いつもの煙管を片手にぷかり,輪っかのかたちに煙を吐き出した浦原はそつなく主語を問う。
「地下。アンタも身体なまるだろ?たまにはいいじゃん?」
空腹が満ちたところで身体が動かしたくなったというところか。
一護は生意気にも浦原を挑発する。
普段なら面倒がって「えーいやですよう。どうせなら昼寝がいい」と混ぜっ返す浦原も珍しく「それじゃ,一本手合わせ願いましょっか」とあっさり腰を上げた。
地下の勉強部屋は一護がソウルソサエティに出かける前に特訓を受けたときとなにも変わってはいなかった。
わざとらしいくらい真っ青な空のペイントも,まるで荒野のように剥き出しの岩も,朽ちかけて斜めになった樹々も。
比較的起伏のない場所に,間隔を開けて一護は浦原と対峙していた。
全身を心地よい緊張感が包み込む。
霊圧は浦原のそれに触発されて天井知らずで膨れ上がって行くようだった。
だからといってコントロールを失うわけではない。
自分の力を自分の力として制御し切る。
誰でも当たり前にできそうなことだが,一護ほどの高い霊圧を持つとそれは生半なことではない。
ぞくぞくと鳥肌が立ちそうな快感がそこにはあった。
「さぁて,向き合ったままお見合いじゃぁつまらない。いきますよン?」
帽子を片手で押さえて気構えなく紅姫を抜き去った浦原が低く囁く。
「行くよ,紅姫」
その途端,浦原を包み込む空気が一変した。
一護は更に霊圧を上げ,向かってくる一閃に備えた。
キィィィィン!
浦原は一護との距離を一瞬で詰め,なんのてらいもなく剣を振り下ろす。
その華奢な造りからは想像もできないほど強烈な一撃。
しかし一護も黙って受けてはいない。
うなりを上げて撃ち降ろされたそれを歯を食いしばって凌いだ。
第二撃は即座に訪れた。
右から凪ぎ払うように一閃。
身体を後ろに引き,腰を低く落としてそれを受ける。
浦原はそのまま刀を持つ手を僅かに翻すと下から突き上げるような第三撃を放った。
一護はからくも寸前でそれを避けたが,前髪が一房地に落ちた。
「ちっ…!」
「ほらほら,受けてばっかりだとそのうち丸坊主になっちゃいますよン?」
楽しげな浦原の声に一護の頭に血が上る。
しかしどれほど目を凝らしても浦原に隙等見つけられない。
隙がないなら作るまでよ,と態勢を整えると反撃に転じた。
「つ…かれたぁッ!」
「そりゃこっちの台詞ですよ…。ほんのちょっとのつもりなのに,後一回,後一回て黒崎サンしつこいの。アタシもうへとへと…」
眉尻を下げた情けのない顔でそう云う割に,浦原は身軽な動作で寝そべる一護の手首を取った。
結局あの後二時間ほど特訓を続け,一護のスタミナが切れたところで部屋に戻ってきたのだった。
「何すんだよ」
「治療に決まってるじゃないスか。あちこち擦り傷だらけで,このまま帰ったらお風呂で泣きますよン?」
汗をかいたせいか,浦原は帽子を外し髪を括っていた。
そのせいで露になった眼差しが一護に向けられ鼓動を乱す。
浦原の手はひやりとしていて気持ちがいいが,眼差しは毒だった。
「いいって。ガキじゃねんだから。傷くらい」
「よくないの。アフターケアも万全ですvがうちのモットーなんスから」
一護が手を引こうとするのを遮って,浦原は小さな傷ひとつひとつにまで治療を行った。
手首,肘,その内側。
両手を治療し終わると顎先,頬,喉元。
「ね,服脱いでくださいな」
「へ?」
「脇腹と背中にもあるでしょ,傷」
「ねぇよ!」
「自分で付けたんだからわかりますって。だいたい男の子のくせに恥ずかしがることもないでしょ。ほら早く」
「い,やっ!ヘーキだっつの!」
「ガタガタ云ってると脱がしますよ。そら」
身体を起こし逃げようとした一護の襟首を引っ掴み,浦原はその腹に腕を回して引き寄せると耳元に囁いた。
途端,一護の身体が硬直する。
そして浦原の視線の先でみるみるうちに顔が真っ赤に染まって云った。
「黒崎,サン?」
浦原の不思議そうな声。確かな記憶はそこまでだった。
気がつけば浦原に押し倒され,浦原の月色の髪が頬に降り掛かる距離で,あちこちに口付けを受けていた。
いったい,どうして―――
瞼が震えているのがわかった。
浦原の唇がそれを止めたから。
再び固く目をつむると頬に掌の感触。
輪郭を確かめるよう撫でられた。
何か云わなきゃ取り返しのつかないことになる。
何かが決定的に損なわれてしまう。そう思った。
云うべき言葉などどこにも見当たらなかったが,それでも一護は口を開いた。
一秒たりともじっとしていられない,そんな焦りがあった。
しかし,零れた吐息が何か意味のある言葉を紡ぐ前に,ひゅう,喉が鳴った。
息が詰まり,目の前に星が散る。
目を見開いた。
鼻先どころじゃない,睫毛の触れる距離に浦原の瞳があった。
細められたうすい瞼の下から見つめてくるそれの色は更に深みを増していて,一護から全ての言葉を奪った。
口から発するものだけでなく胸のうちに湧くものも。
脳裏でひしめくものまでも。
一護は過度の混乱のために陥った完全無風状態で唇のやわらかさを知った。
自分のそれのやわらかさを。
浦原のそれのやわらかさを。
ゆっくりと押し潰され歯を立てて甘噛みされちゅ,と音を立てて吸われる。
その度に唇はそれぞれ形を変え一護の背筋を甘い痺れが走った。
浮遊感はますます 強くなり,天地の違いすら曖昧になっていく。
いつしか浦原を押し退けようと肩の辺りを掴んでいたはずの手は形を変えていた。
浦原の作務衣の肩の辺りをぎゅっと握りしめていた。
まるでしがみつくように。
下唇をまるごと口に含まれ縁をなぞるように舌が這う。
背筋を駆け上がる甘い痺れが脳天を突き抜けた。
「んっ…あ,やっ…」
息苦しくなって酸素を求めて開いた口から洩れたのは聞いたこともないような甘ったるい声。
そしてそのままその声も失った。
開いた唇の隙をついて差し込まれた舌に全てを浚われた。
浦原の舌は無遠慮に一護の口の中を動き回った。
縮こまる舌を擽り,逃げようとするそれに絡み付く。
一護が鳴咽のような息を漏らすと呆気ないほどに舌は解かれ,今度は歯のかたちをひとつひとつ確かめるようになぞられた。
擽ったさに一護が身をよじると浦原の顔が傾ぎ,更に口付けは深くなる。
再び舌が絡められ,舌先からその付け根まで余すことなく辿られる。
目をつむっているのに目眩を感じた。
身体が重さを失うような錯覚。
逃れるようとのけ反ったときに畳を擦るざり,という音だけが現実だった。
身体から力が抜けていく。
いつしか浦原を押しのけることも縋り付くことも忘れ,一護の両腕は床に落ちた。
「逃げなくていいの」
名残惜し気に離れた浦原の唇から紡がれたのはそんな言葉だった。
一護はのろのろと腕を持ち上げると浦原の肩を掴んだ。
そして力の入らないまま押し退けようとする。
しかし浦原の身体はびくともしなかった。
「ど,け」
なんとか絞り出した声は無様に掠れていた。
「……どうして?」
血が,逆流するのを感じた。
首を傾げて涼しげな顔で聞き返す浦原に覚えたのは殺意。
頭に血が上るのと同時に一護の腕に力が戻った。
渾身の力で浦原を押しのける。
今度も浦原の身体は 揺るがなかったが,一護が射殺さんばかりの勢いで睨みつけると,その本気がようやく伝わったのか浦原は自ら身体を起こし,一護を開放した。
浦原は片膝を立てた格好で色のない目で一護を見ていた。
一護はいつまでも鼓動の収まらない心臓を押さえ付けるようにシャツの胸元を掴み,眉間に皺を寄せて苦しさに喘いでいた。
「もう,来ねぇから」
声が震えた。
失敗した,と思った。
顔が歪む。
それを見られたくなくて背けた。
伸ばされる指を見た。
それに触れられたかった。
触れられて今自分の発した言葉をなかったことにしてしまいたかった。
身体は甘く痺れていて先ほどまでのキスの余韻がどうしようもなく色濃く残っていた。
唇は唇に触れて貰いたがっていたし,髪を梳く感触を求めていも居た。
「冗談でしょ?」そう云って困ったように笑う顔が見たかった。
しかし気がついたときは伸ばされた指を払いのけていた。
ふらつく足で立ち上がり,逃げるように部屋を飛び出していた。
裸足に板張りの床が冷たかった。
鼻の奥がつん,として涙が滲みそうだった。
身体の衝動を全部押し殺して早足に廊下を抜け,店じまいをしていたテッサイに慌ただしく暇を告げ,茶菓子の礼を云う。
店の外に出ると春の夜気に綻んだ風が頬を撫でた。
俯いて,肩を怒らせて歩きながら,泣くのをずっと堪えていた。
空には細い細い弦月が浮かび,信号待ちで見上げるとぼやけて滲んで夜空に紛れた。
瞼を乱暴に擦り,堪えきれなくなって走り出す。
瞼の裏にちらつくのはびっくりしたような浦原の顔。
青天の霹靂。
自分の行動は浦原にとってそんなところだったのだろうか。
だとしたら,あの男はやっぱり自分のことなど微塵も見ていなかったということ。
馬鹿にするのも大概にしろ。
ふざけんな。ガキだと思って。
毒づく言葉は音にはならない。
帰宅するなり一護は部屋に直行し頭まですっぽり毛布を被り,膝を抱えて丸くなった。
頬を伝う涙を拭うことはしなかった。
自分は泣いてなどいない。
別れを告げたのは自分からだ。
あの男を切り捨てたのは自分だ。
それを悔やんだりなんかしていない。
嗚咽を噛み殺し,枕に顔をおしつけ目をきつくつむる。
待ち望む眠りはなかなか訪れる気配がなかった。
その日から一護は変わった。
あの鈍い啓吾までが「一護,なんかあったんか?」と心配げに尋ねてくるほどに。
尋ねられてもかくかくしかじか,などと説明できるものではない。
一護は仏頂面のまま「なんでもねーよ」と返すのがやっとだった。
自分が常に緊張状態にあるというのはわかっていた。
鬼ごっこはいつだって隠れる相手を探し出す鬼の方に分がある。
一護は浦原と鬼ごっこをしているつもりはいなかったが,必死に逃げているという点で,そして浦原が悠々と自分を追い詰めるであろうことが推測できるという点で鬼ごっこに近い,とも思っていた。
もしかしたら自分の取り越し苦労かもしれない。
浦原は自分が立ち去ったことで自分のことは意識の外に追いやってしまっているのかもしれない。
今まで自分に見せていた執着は「ふり」だったのかもしれない。
胃の辺りがずん,と重くなり胸が苦しくなる。
一護はぶるん,と頭を振った。
時計を見れば授業開始五分前。
もうだめだ。今日はだめだ。
一護は机の横にかけた鞄を取ると,前の席の水色に耳打ちした。
「俺,今日帰るわ…」
「一護大丈夫?」
「あ?」
「顔色もよくないし,ぴりぴりしてる」
「それな…。自覚はあんだよ,一応」
かろうじて苦笑いめいたものを浮かべて見せたが,水色は心配げに顔を曇らせた。
「先生にはうまく云っておくからゆっくり休んだらいいよ」
「悪い。じゃあ後頼む」
水色に手を振り,クラスメイトたちのおしゃべりでざわめく教室を抜け出した。
教員に見つかることなく学校を出ると,ポケットを探って所持金を確認した。
ゲーセン…補導されたら厄介だな。映画にすっか。
学校から少し離れたバス停からバスに乗り駅前へ出る。
そわそわしたり挙動不審な素振りを見せなければ滅多に補導などされないということは経験上知っていた。
劇場が四つ入った映画館を目指しぶらぶらと歩く。
服屋のショーウィンドウに映る自分の姿が目に入り,眉間に皺が寄った。
神経質な顔。何かに苛立ったような。
事実苛立ってはいたが,現状は自分が望んだもので,誰に文句を云えたものでもない。
慣れるしかない。
何に?
浦原のいない日常に?
それとも追ってくるかもわからない相手から逃げ続けることに?
胃の辺りがむかついた。
一護はガラスから目を逸らすと足早に映画館の自動ドアを潜った。
チケット売り場まで続く通路に貼り出されたポスタを一枚一枚眺める。
恋愛ものが一本。
SFが一本。
心理サスペンスが一本。
アニメが一本。
恋愛ものはパス。
心理サスペンスも…暢気に楽しめるような気分じゃない。
アニメは子どもが煩そうだし…と,ため息を吐く。
チケット売り場に並ぶとSF映画の題名を告げて「学生一枚」と紙幣を差しだした。
整理番号は012。
平日の初回だというのに結構客がいるようだった。
開場まではまだ十五分ほどあったのでカウンタに積み上げられたパンフレットをぱらぱら捲り,次回公開予定のちらしの置き場を冷やかして時間をつぶした。
「三番シアタ,九時三十分からの回をご覧の方はこちらへ」
係員の声に従い入口前に並ぶ。
整理券の番号を十番ごとに呼ばれ,二回目のターンで薄暗い劇場に入った。
普段なら中央のスクリーンの一番観易い席に陣取るところだったが,なんとなく気が削がれて後ろから三列目の真ん中よりの席を選んだ。
肘掛けに凭れて目を瞑ると眠気が込み上げてきた。
上映まではまだ十分ほどある。
このまま眠ってしまってもいいと思った。
映画の上映時間は二時間と少し。
それだけ眠れれば身体のだるさも抜けるだろう。
しかし身体はくたくたに疲れ果てているのに意識が冴えて待ち望む眠りはなかなか訪れない。
苛々が募り目をつむっていられなくなった。
一護は舌を鳴らすと飲み物を買うべく席を立った。
そこが自分の席だという印に何かを置いて行くことも考えたが,劇場内を見渡せば観客はまばらもいいところで,しかも少ない人数が中央寄りに集まっている。
こんなはずれの席にわざわざ座るヤツもいないだろうとそのまま劇場を出た。
ロビーの端に置かれた自動販売機は缶やペットボトルではなく紙コップのものだった。
一通り品揃えを確認した後,カフェオレに決めて小銭を落とす。
砂糖抜きの釦を押してカフェオレが注がれるのを待つ間,一護は何気なく後ろを振り返った。
パンフレット置き場の前を通り過ぎ,劇場に入って行くひとりの男に目が行った。びくん,と背が震えた。
その男の髪の色に。金に近い淡い色の髪を隠すように被られた帽子に。
まさか。
がちがちになった身体を解すようにわざとらしい笑みを浮かべてみる。
よく見ろ。
アレはどう見たって違う。
あんなスーツにソフト帽。
外国のギャングじゃねぇんだから。
スーツだってちょっと変わっていた。
ツイードだよな。
アイツの趣味じゃない。髪の色も違う。似ても似つかない。きっと外国人かなんかだろう?
何びびってんだ。神経質になり過ぎだ。
「……ばっかみてぇ」
自嘲の滲む声でそう云うと一護はとっくに出来上がっていたカフェオレの紙コップを手に,既に予告の始まっていた劇場に戻った。
劇場下手の左寄りの階段を昇りながら客席に目を走らせる。
強がってはみたものの先ほど目にした男が気になった。
ほどなくして右端一番後ろの席にその姿を見つけ,食い入るように見つめたが,見間違えたのが嘘のように浦原とは似ても似つかない姿をしていた。
帽子を取ったその男の髪は,頂点がすっかり薄くなっていたのだ。
「ほんと,ばっかみてぇ」
紙コップに口を付け,一口啜る。
煮詰まったのか薄いのかよくわからないカフェオレが舌を焼いた。
席に戻ると次の予告が始まっていた。
「運命の相手は,触れてはならないひとだった」
低い男の声でナレーションが始まる。
細切れの映像はひとりの視点で統一されているようだった。
白いワンピースに麦わら帽子を被った少女。
学校の制服に身を包んでこちらを振り向き,花が開くように笑顔を浮かべる少女。
真っ赤なドレスを身に纏い,男の肩にそっと手を載せその耳元に何かを囁いている女性。
ひとりの女の成長を見守るように映像が切り替わって行く。
そして最後に
「運命の相手は,触れてはならないひとだった。……しかし,気づいたときは遅かった」
のナレーション。
話の筋はてんでわからなかったが,最後の一言がやけに耳についた。
「しかし,気づいたときは遅かった」
目を瞑ると大きさのまちまちの活字でその一言が明滅するように脳裏に浮かんだ。
煩わしい。
目を開けて肘掛けのドリンクホルダに置いたカフェオレを一口啜る。
そのとき背後にひとの気配を感じた。
上映ぎりぎりに間に合った客だろう。
何もこんな外れに座る自分の後ろに陣取らなくてもいいだろう,と思ったが確かに人が密集する中央よりの席に遅れて入り込むのは気まずかろう,と思い直した。
背もたれを蹴られたりするわけでもなければ,後ろにひとがいようがいまいが関係なかった。
もう一口カフェオレを啜ると,一護は再び肘掛けに凭れ目を瞑った。
スピーカからはやわらかな女の声で英語のナレーションが始まっていた。映画の本編が始まったようだった。
聞くともなしにその音を拾っているととろとろと足元に波が打ち寄せるような眠気が訪れた。
眠りは潮が引くように穏やかに去った。
目を擦りながらスクリーンを向くと既にエンドロールも終わるところだった。
目一杯二時間眠ったようだった。
ずっと靄がかかったようだった頭が幾分すっきりしている。
映画の内容はさっぱりわからなかったが,これだけすっきりすれば映画一本分の代金など惜しくはなかった。
一護はうん,と伸びをすると座席から立ち上がった。
出口に向かう通路を目指し劇場下手へ続く階段を下りながらこの後のことを考えた。
適当に昼飯食って,CD屋か…。本屋も寄って,確か新刊出てたはず。
学生が多そうなファストフードを選んで店に入り,セットメニュで空腹を満たした。
三階席の窓際から見下ろす通りは四方八方から人が集い,四方八方に散って行く。
空はどんより曇り空で夜には雨になるかもしれない,と嫌な予感が過る。
その予感を振り払うように,オレンジジュースの入っていた紙コップの蓋を取り,氷を口に放り込んだ。
がりがりと噛み砕きながら席を立つ。
予定通りCD屋と本屋を巡った後は家に帰ろう。
雨に降られたらやってられない。そう思った。
一護は風呂上がりの頭をバスタオルで乱暴に拭いながら部屋に戻ると,ぬいぐるみ姿のままベッドに寝そべり漫画雑誌のグラビアを見つめながらぶつぶつと呟いているコンに声をかけた。
「俺,出かけっから」
「……またかよ一護。夜遊び覚えるには早いんじゃねーのか?」
「るせ。死神姿で夜遊びもへったくれもねーだろうが」
「あのな,俺様はそういうこと云ってんじゃなくてだなー」
「いいからほれ,俺の身体ちゃんと見てろよ」
「云われなくてもいつも留守番してんだろ。ていうか雨降ってるぞ。それでも行くのか?」
「……行く」
一護は机の上に置いてあった代行証を使いぬいぐるみから義魂丸を取り出すと自分にもそれを使い死神姿になった。
ベッドに腰掛けて心配げにこちらを見つめるコンに「クサった顔してんなバーカ。夜更かししねーでちゃんと寝ろよ?俺の身体なんだから」と軽く云うと窓に足をかけ,外に飛び出した。
行く宛はあった。
そこ一カ所しかなかったが。
家を出てすぐ,一護は助走をつけて飛び上がった。
塀から屋根へ,更に飛んで電柱の天辺へ。
空からは後から後から絶え間なく針のような雨がひそやかな音を立てて降り続いていたが,死神姿ではその冷たさに震えることも濡れることもなかった。
ただ,視界が遮られ音に閉じ込められ煩わしいだけ。
いつもならば遠回りして行くところを道を無視して一直線に目指そうと思ったのはそのせいだった。
息も乱さず空を駆け,数分後には薄明かりの点るマンションの一室の前に居た。
こんこん,と一応ノックはするがあくまでも無遠慮に窓を開ける。
窓を左手に見るよう設えられた勉強机に向かっていた石田が目を上げた。
「また来たのか」
「……悪い」
「さっさと窓を閉めろ。この雨だ。冷える」
石田の言葉に従って一護はブルーグレイのカーペットが敷き詰められた部屋に降り立った。
窓をきちんと締め,鍵もかける。
そして床にどっかと腰を下ろすと 石田の手元を窺った。
「新作か?」
「ああ。次の常設展示に出すものだ」
石田はこちらを見ずに手を細かく動かしながらそう云った。
石田の手にあるのは生成り色の布地に丸い枠をはめたものと鮮やかな色の糸が通された長い針だった。
詳しくはわからないが,多分あれは刺繍だろう。
見るともなしにその様子を眺めていると,石田の顔がこちらを向き,神経質に眼鏡を持ち上げた。
「じろじろ見ないでくれないか。気が散る。寝るならいつも通り壁際のソファに行ったらいいだろう。毛布はいつもの場所にある」
「……悪い」
今日何度目かになる詫びを口にすると,石田は苛立たしげにため息を吐いた。
しかしそれ以上何も云わず再び手を動かし出した。
脱いだ草履を手にソファに向かう。
壁とソファの間にきちんと畳んで置かれた毛布を拾い上げると,ごろりとソファに横になった。
眠れるはずもなかったが目を瞑る。
耳につくのは微かな音。
石田が立てるそれと,窓の外から聞こえる雨の音。
映画館の音を取り戻そうとした。
昼間,あんなにもぐっすり眠ることが出来たあの空間に満ちていた音を。
しかしそれは敢えなく失敗した。
瞼の裏に蘇ったのは淡い色の髪をした男の姿。
心臓がどくん,と跳ねた。
人違いだった。
しかし人違いじゃなかったら?
人違いじゃなければいい,と願わなかったか,自分は?
胃の底が波打つような感覚があった。
吐き気にも似たそれはここしばらくすっかりお馴染みになったもので,握りこぶしを胃の辺りに当て,しばらく息を詰めていれば収まる。
波が過ぎ去るのをじっと待ち,深々と息を吐く。
閉じた瞼の向こうに闇が落ちた。
微かな衣擦れの音。
石田が作業を止め,ベッドに入ったのだろう。
「おやすみ」
答えを期待しない声がした。
「……おやすみ」
いちおう返し,寝返りを打つ。
雨の音が耳についた。
手で耳を覆ったが余計に音が際立つような心地がして,結局外した。
眠りは遠い。朝も遠かった。
夜更けに石田の部屋を訪ねるようになって一ヶ月が過ぎた。
決して親しい間柄ではなかったし,教室でも会話を交わすことは稀だった。
しかし石田は死神姿でふらりと訪れた自分の顔をまじまじと見ると「ソファなら空いてる。好きに使えばいい」と云った。
事情を聞くことも迷惑がることもしなかった。
眠れることはほとんどなかったが,それでも安堵があった。
毎晩のようにこの部屋を訪れ部屋の片隅の置かれたソファに横になる。
毛布を被り,部屋に闇が落ち,微かな寝息を聞く。
なるべく余計なことは考えないようにして,羊を数え,授業で解いた数学の例題をシミュレートする。
漢文の授業で読んだ漢詩を声に出さずに諳んじ,秒針が時を刻む音を聴く。
そんな風にして夜を過ごすようになって,つまり,浦原の前から逃げ出して一ヶ月が過ぎていた。
この日も一護は閉じられたカーテンの向こうが薄明るくなるまで同じようにして過ごし,音を立てないようにそっと身体を起こした。
毛布を畳みソファの肘掛けに置く。
足音を忍ばせて窓へ向かい,カーテンをそっと開きクレセント錠を開けた。
10月終わりの夜明けの空気は冬を感じさせ触れる肌にひんやりとしている。
雨が止んだばかりらしくすっかり洗われた空気は胸にしみるくらい澄んでいた。
小さな庭と駐車場を隔てる垣根をとん,と軽く飛び越え道路に降り立つ。
がちがちになった身体を思い切り伸ばし,家へと続く道を歩き始めた。
今日は土曜日。
予定は特になかった。
チャドにでも電話をして遊びに行くか,もしくは妹たちを連れてどこかにでかけるか。
寝不足でじっとりと重たくなった頭を緩く振って首を回す。
血の巡りは多少良くなったが,靄がかかったような感じは抜けなかった。
家の前に辿り着いたとき,嫌な予感が胸を掠めた。
膝を深く曲げ,飛び上がる。
窓の上の庇に手をかけ,結露で曇った窓をそっと開いた。
ベッドの上にはコンがいた。
自分の身体ではなく,ぬいぐるみ姿で。
そしてベッドの上にはコンの姿しかなかった。
「い,いちごぉ……」
泣き出しそうな声だった。
嫌な予感が的中した。
「オマエ,身体どうした」
「あの怪しいオッサンが来たんだ。帽子被って下駄の。あのひとが持ってった」
「…………」
「一護に伝言って……」
「……なんだって」
「『いつまで逃げ回ってるつもりっスか? 身体を返して欲しかったら取り戻しにいらっしゃい』って」
「そっか…」
「ごめん!俺,なんとかしたかったけど…なんだかありえないくらい殺気立ってて」
「いいって。気にすんな」
今にも泣き出しそうなコンになんとか笑うことが出来た。
いつか来る。
恐れていたそれは,実際に起こってしまえばなんのことはない。
後は腹を括るだけ。
覚悟を決めるだけ。
浦原に向ける言葉なんてなかったが,身体は取り戻さなければならない。
話があるとすれば向こうがあるのだろう。
取り戻しに来いというのなら行ってやる。
頭の隅をやけに冷静な自分が掠めたような気がしたが,それを黙殺した。
心配げに見上げてくるコンの額を指で弾くと「じゃ。行ってくるわ」そう云って入ってきたばかりの窓からまた外へ飛び出した。
雨に濡れたアスファルトの匂いを胸一杯に吸い込みながら線路に沿ってをゆっくり歩いた。
スーパーマーケットの前を過ぎ,道端にやわらかなさみどり色の枝を撓らせる柳を見て,電線に止まったカラスを見上げる。
急ぐ必要なんてなかった。
それ以上に一際冷静を装っていたが足が思うように前に進まなかった。
廃ビルの跡地の手前を左に折れるともうそこは浦原商店の近所だった。
一護はこの期に及んで回り道をして浦原商店の裏手,店主の部屋に面した庭の方へ向かった。
庭の板塀に設えられた扉に鍵はかかっていない。
そこに手をかけて一護は目を瞑った。
ここまで来て逃げるわけにはいかない。
第一自分の身体が人質じゃあ無視を決め込むわけにもいかない。
吸い込んだ息を吐き出し,腹に力を入れると扉をそっと押した。
朝の庭はアスファルトの上よりも酸素が格段濃いような気がした。
荒れ庭と紙一重の絶妙なバランスで丹精された庭のそこここに雨の名残の雫が光った。
一護が足を踏み出す度に死覇装の袴の裾がその雫を散らす。
しかしその裾が濡れることはない。
転々と置かれた敷石を踏んで縁側に辿り着く。
脱ぎ捨てられたまま雨ざらしになっている下駄の横に草履を脱いでガラス戸を開けた。
その向こうには障子戸がぴたりと閉められていて,その白さに一護は今更ながら胸が苦しくなるのを感じた。
この向こうに浦原がいる。
自分の身体を傍らに置いて,自分が来るのを待っている。
「いつまで何突っ立ってるの。障子戸には鍵なんかかかっちゃいないっスよ」
扉の向こうから響いてきた声に,一護の身体が強張る。
それを無理矢理解いて障子戸の取っ手に手をかけた。
一息に開くと部屋の中程に浦原がいた。
一護の身体が横たわるのは浦原の布団。
その枕元に腰を下ろし,煙管を燻らせている。
開け放たれた障子戸から朝の光が部屋に差し込み,浦原は眩しげに目を細めて一護を見た。
「イラッシャイ。お久しぶりで」
口の端に刻まれるのは皮肉な笑み。
一護は無言で歩み寄ると,横たわる自分の身体に手をかけた。
「そのまま持って帰っても入れませんよ,それ」
浦原はにぃ,と笑うと細く煙を吐き出した。
一護の手がぴたりと止まる。
「それ,どういうことだ」
「ちょっと細工させて頂きました。アタシがそれを解かない限りキミは身体には戻れない」
「なんだよそれ」
「なんだよって…意地悪?」
嘲るような物言いに一護の頭に血が上る。
怒りのまま浦原に向き直り,作務衣の襟を引っ掴んだ。
浦原の視線が上がり,一護と目が合う。
口に含んだ煙がふう,と吹きかけられた。
煙さに一護が顔を顰めると,くつり,喉を鳴らして笑った。
「キミが怒ったってちっとも恐くない」
「ふざけ…ッ!」
浦原は煙管をかたん,と煙草盆に置くと,その手で一護の手首を掴んだ。
そして感情の読み取れない平坦な声で言葉を継ぐと,その手をぎり,と捻り上げる。
「キミがアタシから離れて行ったって,ちっとも痛くない」
「放せ…!」
痛みに一護の顔が歪み,手首を掴む浦原の手を解こうと手を伸ばした。
しかしその手を逆に掴まれて畳に押し倒される。
掴まれた両手首はひとまとめにされて頭上に縫い止められた。
「ちっとも恐くないし,痛くない」
真っ直ぐに見下ろされ,低い声で云う浦原に,一護の背を戦慄が駆け抜けた。
恐い。
そう思った。
怒りとも苛立ちとも違う,もっと昏い,一護の知らない感情に浦原は支配されているように見えた。
「放せ…ッ」
身を捩って逃げようとすると,耳の直ぐ脇に肘をつかれた。
逆側に顔を背けると,耳に熱を帯びた息が当たる。
ぞわり,鳥肌が立った。
「なんであんなこと云ったの」
浦原は一護の言葉なんか聞いていなかった。
頬に掌を添え,背けた顔を自分の方へ向け,相変わらず熱の失せた硝子玉みたいな目で一護を見下ろし,自分の聞きたいことだけを聞いていた。
否,聞きたいことですらなかったのかもしれない。
それを尋ねられた一護が答えに窮するところが見たかっただけかもしれない。
「ねぇ,なんであんなこと云ったの」
「浦原…!」
苦しげに一護が名を呼ぶ。
浦原はゆっくり寄せるとその鼻先に歯を立てた。
ちり,という痛みに一護が顔を顰めると今度は顔を傾け,耳元に「なんで逃げたの」と囁いた。
一護は身の内で早さを増して行く鼓動に息苦しさを覚え,大きく口を開いた。
叫び出したかった。喚いて突き飛ばしてここから逃げ出したかった。
一度逃げたのにまた戻るなんて馬鹿のすることだ。
身体が人質にとられたからなんてのは言い訳だ。
本当に逃げたかったら石田の家に避難するときに身体を置いて行ったりはしない。
浦原に付け入る隙を残したんだ。
そのつもりがなかったって言い張っても現実がこれじゃあ言い逃れもできない。
「どうして答えないの。この口は飾り?」
怒濤の勢いで我が身の不始末を振り返っていた一護を浦原は冷たく見下ろすと唇を指でなぞった。
ひやりとした感触に背筋が震える。
眉間が曇り,目を瞑りそうになった。
「ふざけんなよ…」
一護の口から迸ったのは低い呟き。
浦原が「何?」と窺うように首を傾げた。
一護は畳に両手首を縫い止める浦原の手を渾身の力で振りほどいた。
そして肩を つかみ,押しやろうと力を込める。
浦原はその手を右手と左手それぞれ指を絡めて一護の顔の両脇に固定した。
「抵抗なんてするだけ無駄」
つめたい声で言い放ち,アタシの質問に答えないと放さない,と残酷な宣告を下した。
「質問て,なんだよ!」
「どうしてあんなこと云ったの」
「何が!」
「もう来ないからって」
「そのまんまだろ!もう二度とここに来る気はねえって思ったから云ったんだ!」
「どうして?」
「どうしてって…テメェのしたこと考えやがれ!!」
一護はとうとう叫んだ。
しかし叩き付けるように云ったのに,浦原はちっとも動じていなかった。
「アタシが何をしたっていうの」
「ふざけんなよ!いきなりひとのこと押し倒して顔は撫で回すわ,挙句のは果てにキスまで!しかもあんな…あんな…ッ!」
されたことを思い出したのか真っ赤な顔で吠える一護に,浦原は飄然と「嫌だったの?」と尋いた。
「は?」
「アタシにキスされて,嫌だった?」
「なにを,馬鹿なこと…」
一護はわなわなと身体が震えるのを堪えることができなかった。
常識はずれにもほどがある。
相手の合意もせずにいきなり押し倒した上にあんなことをしでかしておいて,「嫌だったの」もへったくれもあるか!
手さえ自由になれば殴っていた。
僅かに自由になる脚をばたつかせて膝蹴りのひとつもくれてやろうとしたが,逆に脚を絡められて敢えなく全身の自由を奪われてしまった。
自由になるのは口だけ。
言葉で浦原にダメージが与えられるなんてとてもじゃないが思えなかったが。
「ね,嫌だった?」
「い,嫌に決まってるだろ!」
「嘘」
「何を根拠に!!」
「だってキミ,アタシのこと好きでしょ」
「ハァ?」
素っ頓狂な声を上げた一護に,煩い,と浦原は眉を顰めてもう一度云った。
「キミ,アタシのこと好きでしょ」
「誰がそんなこと云った!」
「云わなくてもわかる。アタシのことを見る目とか,何か話すときの声の感じとか,そういう端々に全部出てた」
「も,妄想も大概に…」
「違う。自覚ないの?」
くすり,笑われて頭に血が上る。
自覚がないわけじゃなかった。
確かに浦原に見蕩れることは多々あった。
珍妙な服装とひどい猫背のせいで不格好に見られがちだが,間近で見る浦原は驚くほど端正な顔立ちをしていた。
顔だけではない。
伸ばしっぱなしであちこち跳ねた髪も指を潜り込ませればやわらかで時折無造作に掻きあげられた下から普段は帽子と前髪に隠された目が露になるとぞく,と鳥肌が立つほどきれいだった。
そんな姿に見蕩れることは多々あった。
それは認める。
しかしだからといって浦原が働いた狼藉が帳消しになるとは思えない。
「自覚もへったくれもねーだろ。俺が云ったか?アンタのことを好きだって。云ってねぇよな。聞いたとしたらそれはアンタの幻聴だ。俺が云わない好きをアンタが信じるのは勝手だけど,それを理由にひとのこと押し倒したら犯罪だろ。ストーカと一緒だろ」
怒りのあまり声から一切の抑揚が消えた。
捲し立てるように矢継ぎ早に言葉を継ぐと息が切れた。
一旦口を噤んで浦原を見る。
しかし浦原にはやっぱり動じた様子は微塵も見られなかった。
「いちいち言葉がなきゃ,言質取らなきゃ身動きできないのは子どもだけ」
「あ?」
「大人はそんなものがなくても動ける。試してみる?」
「何云って…」
「嫌なら全力で逃げて。……逃げられるものなら」
云うなり浦原は一護に口づけた。
一月前のあの日,与えられたよりも濃厚なそれを。
一瞬見開いた目をかたく瞑ると瞼の裏で白い光が爆ぜた。
触れる唇から火のつきそうな熱が全身に回り血液が沸騰する。
脳の奥で鼓動を聞いた。
硬く閉じたはずの唇を浦原はいとも簡単に割り,舌を差し込んでくる。
先ほどまで吸っていた煙草の苦味が一護の舌を痺れさせた。
苦い。
それなのに,甘い。
熱い。
苦しい。
それなのに,頭がおかしくなりそうなほど気持ちいい。
自覚は否定しようとすればするほど鮮やかに一護の目の前に翻った。
浦原のキスは巧かった。
しかしそれだけではない。
自分の中にそれを,望む……,違う。
一護は首を振った。
浦原は一瞬だけ唇を離すと,きつく瞑られた瞼に唇を押し当て,優しく囁いた。
「逃げないの?」
身体はすっかり力が抜けてしまい逃げようにも逃げられない。
一護はひたすら首を振っていた。
目尻を伝う濡れた感触。
子どもみたいにこんなことで泣いてるのか自分は。
肩を震わせて嗚咽を堪える一護をじっと見つめた浦原は,ため息を吐くと身体を起こした。
一護は自由になった手で顔を覆うと,怒りからか悔しさからかわからないまま止め処なく溢れる涙を乱暴に拭った。
「キミが怒っても恐くないけど,泣かれると弱い」
ぽつり,漏らされた呟きに一護は耳を疑った。
今,何て云った。
ていうか声が,揺れてた。
浦原らしくない自信のない,声?
「もっと酷いことしようと思ったけど止めた。もう何もしないから起きません?」
くしゃり,髪を梳かれる。
一護の好きな感触だった。
宥めるような優しい手。先ほどまで自分をあれほどまでに追い詰めていた,自分の自由を根こそぎ奪おうとしていたのと同じ手だとは思えないほど優しい手。
しゃくり上げるように息を吸い,乱れた息を鎮めようとした。
浦原はその間ずっと髪を梳いていた。
やがて一護の嗚咽は鎮まって,深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出した。
「ねぇ,一護サン」
返事を望まない声で浦原が一護の名を呼ぶ。
一護は変わらず瞼の上に手の甲を載せたまま耳だけ浦原に傾けていた。
「アタシはキミのことが好きです」
続いた言葉は唐突な告白。
しかし一護は知っていた。
菓子を頬張る自分を眺める眼差しに,ことあるごとに触れてくる掌の感触に,その思いは滲み出ていたような気がする。
けれどもそれを信じることはできなかった。
何せ相手は変人で名の通った下駄帽子。
長年の友人である夜一をして「喜助の考えることはさっぱりわからん」そう云わしめる男。
見せかけの好意に騙されて傷つくのは御免だった。
否,傷つくというよりもここにいられなくなるのが嫌だった。
だから逃げたのに。
「……順序が逆なんじゃねぇの」
発した声は掠れていた。
しかし構うものかと思った。
「だって云うつもりなんかなかったもの」
「じゃ,なんで云ったんだよ」
「キミが逃げるから」
「なんだよそれ」
「言葉なんかでつなぎ止められるなら安いものだと思ったから」
「……わけわかんね」
「云わなかったのはアタシなりのやさしさのつもりだったんスけどね。言葉にして明確にしたらどこにも逃げ場,なくなるでしょ。言葉にしなきゃ取り方ひとつでどうにでもなるのに」
一護は先ほど浦原が云った言葉の意味を今になって理解した。
『いちいち言葉がなきゃ,言質取らなきゃ身動きできないのは子どもだけ』
『大人はそんなものがなくても動ける。試してみる?』
あの言葉は大人の巧妙さを示したわけではなかった。
ある意味で巧妙さと云えないこともなかったが,逃げ道を確保したままその先を窺う狡い手段。
「本気なのかよ」
「伊達や酔狂でキミみたいな子ども追いかけ回したりしませんよ」
「信用できねぇ」
「信用させてあげます。これからたっぷり時間をかけて」
浦原はそこで一旦言葉を切ると,瞼を覆う一護の手をはずさせて,前髪をやさしく掻きあげた。
そして露になった額に,そっと唇を押し当てる。
「だから,もう逃げないで?」
間近で発された声は掠れて揺らいでいた。
らしくない懇願。
一護は噛み締めた唇を解いて,乾いてしまったそれを舐めた。
唇に残るのは,苦くて甘い,浦原の味。
「逃げねーよ。だから…」
もう一度云って。
小さな,ほとんど空気を振動させない吐息ほどの声でそう云った。
浦原は少しの間沈黙して,ゆっくり息を吐き出すと,一護の耳元に唇を寄せた。
「一護サン,好きです。だからアタシのものになって?」
一護は返事をしなかった。
ただ,今耳にしたばかりの睦言を反芻していた。