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§・§・§
「黒崎サン,コーヒー持ってきたんスけど」
云いながらドアを開けると,白いシャツの袖を肘まで捲くり,調律に使った道具を片付けていた細身の背中が振り返った。
「貰う」
「もう調律オシマイですか?」
「あぁ」
やわらかいネル製の布で拭いた音叉を箱に戻し,凝った肩をほぐすようにして腕を軽く回すと,浦原が差し出すトレイからマグカップを受け取った。
そしてピアノの横にずらしておいた椅子に腰を下ろし,ふぅ,と息を吐く。
「お疲れ様です」
「ん」
「レッスン,急にお休みになっちゃったって聞いて」
「この雨だからな」
メタルフレームの眼鏡越しに紅茶色の瞳が一瞬浦原を見て,それから窓の外へと流れていった。
防音が施されているせいで,雨音は聞こえない。
ピアノのために防湿管理もされているということだけれど不思議と雨の気配だけは濃厚に伝わってくる。
「美味い」
呟くように黒崎が云った。
それが浦原が運んできたコーヒーへの言葉だと気付くと,浦原はどうしようもなく笑み崩れた。
「よかった」
「お前,今日学校は」
「ちゃんと行きましたよン。雨でバスが遅れてここに来るの少し遅くなっちゃったんスけど」
「そっか」
眼鏡のブリッジを指で押し上げ,片手で包むようにして持ったカップを口へと運ぶ。
ずず,と小さな音が響いて,それから何か思い出したように浦原を見た。
「冷蔵庫,見たか」
「いえ。何かあるんスか」
「牛乳,買ってきてやったから使え」
「え」
「コーヒー,入れねえと飲めねんだろ?」
云って,口の端を引き上げる。
いつもかすかに顰められているような目元が不意に綻んで,浦原は視線が釘付けになるのを感じた。
「アタシの為に?」
「煙草買ったついでにな。賞味期限あっから腐らねえうちに使っちまえよ」
こころがくしゃりとなる。胸が痛い。
嬉しいのに,嬉しくて仕方がないのに,どうしてか泣きそうになる。
「ありがとうございます」
「おう」
まるで,頭を撫でられるようなやさしい声。
浦原は堪らなくなってトレイを抱える腕にぎゅ,と力を篭めた。
身動ぎしたせいでカーディガンのポケットの中で忍ばせてきた菓子たちが小さな音を立てた。
「あ,黒崎サンこれもよかったら」
浦原が差し出したフィナンシェとダクワースを見ると「俺,コレ苦手」と指先でダクワースを弾いてフィナンシェの包みを取った。
「ダクワース,嫌いなんですか」
「あとマカロンだっけか。卵の白身をあわ立てて作るアレ使ってる菓子はなんかな」
なるほど,と頷きながら,浦原は黒崎が弾いたダクワースを再びポケットにしまった。
包装を解いたきつねいろの焼き菓子を齧る口元に目が吸い寄せられた。
うすい唇。白い歯。
かすかに甘い匂いがただよってくる。はちみつだろうか。
左手に持った菓子と右手に持ったカップを交互に口へ運ぶ様を,浦原は立ちすくむように佇んだまま眺めていた。
「ごっそさん」
黒崎がカップに残った最後のコーヒーを飲み干して,カップを浦原へと差し出す。
浦原が受け取ろうとすると,そのカップがすい,と引かれた。
「お前」
「え?」
「なんか顔色悪くねえか」
うすいレンズ越しに紅茶色の瞳がじ,と見つめてくる。
「あ…昨夜ちょっと」
「寝不足?」
「あと,貧血も少し」
「馬鹿。ンなだったら無理してくんな。別に急ぐ仕事じゃねんだからさっさと帰れ」
心配して云ってくれてるのだというのはわかっているが,それでも「帰れ」という言葉が胸に突き刺さり,浦原は顔を俯けた。
「でもあの…」
「何だよ」
「帰ってすぐ寝ちゃったらまた夜眠れなくなりそうだし」
「年寄りみてえなこと云ってんな」
ため息混じりの声で云い,黒崎が立ち上がった。
浦原より僅かに低い位置から見つめてくる瞳から目がそらせなくなる。
飾り気のない手が伸ばされ,浦原が抱えるトレイを掴む。
寄越せ,と云われて手放すと,「お前はあっち」と部屋の隅に置かれたソファを指差された。
「えっと…?」
「ここで少し寝とけ。レッスン行く前には起こしてやっから」
「でも,あの」
「どうせ暇だ・て京楽さんも云ってただろ」
ンな青い顔して周りうろつかれたら気になるだろうが。
叱るような声音で云われ,浦原は大人しくソファへと向かった。
「靴脱いでから横ンなれよ」
「はい」
黒崎は空になったカップを載せたトレイを浦原が横になったソファの横に置かれた小さなテーブルに載せると,ピアノの元へ戻った。
磨き上げられた蓋を持ち上げ,立ったままキィに触れる。
ぽーん,と音が。
寂しい音に聞こえるのは,雨の夕方だからだろうか。
浦原はソファに横になったまま黒崎を見つめた。
椅子に浅く腰を下ろすと,両手をそっと鍵盤の上に載せた。
静かな,やさしい音。その連なりに耳を傾けているうちに,浦原はそれが聞き覚えのある曲であることに気がついた。
「この曲,しってる」
呟くように云うとほんの一瞬,黒崎の手が止まった。
「マジかよ。これ,十年くらい前のだぞ」
「…九年」
「あ?」
「映画の曲,ですよね。確か九年前だったと思う」
脳裏に,断片的にいくつかの映画の場面が蘇る。
目を凝らすようにそれを掬い上げながら浦原は口を開いた。
「女の人が,雨の夜のバスで泣く場面と。それから若い夫婦がスーパーマーケットでワインを選ぶ場面。あと,夜の遊園地の場面が好きでした」
「よく覚えてンな」
ひっそりと,黒崎が笑う気配。
そして,再び音が。
やさしくて,きれいで,ほんの少し寂しい。
ピアノから響く音が部屋の中を満たしていくのが見えるような心地がした。
浦原の上に降り積もる音は,乾いた地面に雨が滲み込む様にこころへと滲みていく。
頭の芯,というか,身体の奥深いところで凝るように固まってしまった何かがゆっくりとほどけていくのを感じる。
浦原は目が開けていられなくなって,そっと目を瞑った。
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