UNION





§・§・§



あ。ヤバイ。

と、思った。
人工の光しか無い廊下の端には、眩しい白い壁と防火扉と緑の非常口ランプ。
そして、そのランプの下に黒い草臥れたスーツを纏った猫背の長身があった。

黒いスーツの男の、後ろ姿。
一護が待機室に来るとき、気付かない筈が無かった場所にある背中。
実際、其処に人がいることに気付かなかった一護だが、その理由は自分で充分に分かっている。

その時は、見えなかったのだ。
その時は、見えない人物だったのだ。

アロマ仕立てをうたう缶コーヒーの味は既に感じられなくなりつつあったが、湧き上がった焦燥感に干上がりそうな口の中を潤すべく、一護は黒い背中を凝視したまま再度コーヒーを啜る。

さて、どうする?
自問して、一護は速攻で答えを弾き出す。

無視貫徹のバックレ一択、それしか無い。
どんなにしつこく付きまとわれても、まともに相手さえしなければ『彼ら』は自ずと離れてゆくのだ。

そう『彼ら幽霊』は。

子供の頃から、一護にはいわゆる幽霊というものが見えた。
何故、自分にそれが見えるのか解らないし解りたいとも思わないが、一護の日常に『彼ら』は常に存在していた。

国道の脇に供えられた小さな花束の傍らに佇む血まみれの少女。
飛び降り自殺があったビルとビルの狭間に蹲るアタマのひしゃげた中年オヤジ。
電車のホームで自販機の影から恨めしい視線を彷徨わせる脚のないOL風の女。
病室のベッドの下からぼんやりと入院患者家族の遣り取りを見詰めている老人。

『彼ら』はほとんど、同じ場所…彼らが最後を迎えたであろうその場所から飽きもせず浮き世を傍観している様だったが、どうやらその存在を認識出来る人間――一護のような『見える人物』――が、いると勝手に憑いてきたりなにかと絡んできたりする。
未だ一護がランドセルを背負っていた頃に、住宅地にある交差点からふらりと憑いてきた老紳士の霊が「オマエさんみたいに、見えるだけじゃなくて儂らみたいな存在と会話したり、触れ合ったり出来るほどの霊感体質は珍しい」と零していたとおり、一護は見えるだけではなく意思の疎通はもちろん、果ては殴り合いまで出来てしまうのだからこの体質を恨めしく思うのは至極真っ当な流れで、中学に上がる頃にはある程度『彼ら幽霊』を適当に、あるいは力尽くであしらう術を心得ていた。

幽霊といえど、基本は人間と同じだ。
説き伏せるか、追い払うか、とにかく関わりたくない意思を示せば恨めしい視線とともに離れてゆくし、何より『彼ら』は自分が命を落としたその場所に縛られている存在のようで、一護が振り切ってしまえばそれ以上の追跡は出来ないらしく、ある日気が付くと定位置から居なくなっている事も多々ある。おそらくは諦めて成仏したか、それとも他の霊感体質な人物に憑いていったのかは解らないが、周囲の人間に見えない『彼ら』は一護にとって関わりたくない、回避したい存在でしかなかった。

そして今、一護の視線の先に、関わりたくない、回避したい存在でしかないモノがいる。
周囲に誰も居ないこの状況で巧く無視貫徹を実行するには最初が肝心だ。

相手が一護に意識を向ける前に、この待機室から出てしまおう。と、一護がぐびぐびと缶コーヒーを煽ったその時。唐突に黒いスーツの男が振り返った。
ばっちりと交差した視線。
ごくり、と一護の喉がコーヒーごと気まずさを飲み込む。
出来るだけ自然な所作で視線を相手から引き剥がし、一護は「ふー…」と缶コーヒーを飲み干した後の息をついた。

「何処が甘さ控えめなんだよ、ったく…」

手の中の空き缶を矯めつ眇めつするフリをして、そんな台詞を呟いてみる。

「それ、ひとくちめの時も云ってましたよね」

一護の独白に、被せられた声。
常人には聞こえないだろうその声は、常人には聞こえない足音とともに一護の方へ向かってくる。

無視だ、関わるな、構ったら面倒だ。

「ねぇ、キミ。今、思いっきり、眼ェ逸らしませんでした?」

左肩のすこし後ろから、追従の問が降ってくる。
空き缶を自販機横の回収ボックスに放り込んで、一護は「さ、ケーキ屋寄って帰っかな」と階段の方へ脚を向けた。

「うっわあ…大根役者」

囁く様な声色で癪な台詞を寄越す相手に内心半キレ気味になりながらも、ムカツク心境を顔に出さぬ様どうにか押さえ込んで一護はさっさと待機室を後にする。











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