cafe on the sea.
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環境に適応しようとする人間の機能というのは、実に怖ろしい。
肉体的な習慣が精神に影響を及ぼし、何時しか麻痺させるように嘗て論外であった事柄が我が物顔で『日常』の序列に加わる。
言語道断な規模のあり得ない構想も、歯車を廻すエネルギさえ注げば利害を一致させた要人達の手管で進展し、基盤となる技術は勿論、ロジスティクスとリスク・コントロール、その進化とデータに基づいて途方もない計画は形を結ぶ。
長周期の振動を感じながら、一護は狭いベッドの割には寝心地の良いマットレスの上で小さく息を吐くと、眠っている間も左手に嵌めたままの腕時計を見る。
下士官用の部屋よりは幾分か広い、士官用二人部屋のベッドに据え付けられた小さな常夜灯に浮かび上がった文字盤の針はあと数分で零時を示す位置にあった。
一護の守備範囲である作業区画は四時間前に業務を終えて、七時間後に再起動する予定だが、他のフロアでは終日入れ替わり立ち替わりで業務は継続されていくのが殆どだ。
一護が居るその場所は、二四時間、ミッション終了の指令が下される瞬間まで不夜城の如く稼働しつづける構造体の一画。
誰が最初に云いだしたのか知らないが、小さな町ひとつぶんの規模の軍隊を海に浮かべて時速30ノットで移動させようとするなんて、あらゆる兵器を考察していたというレオナルド・ダ・ヴィンチも笑うだろう。
ニミッツ級原子力空母。
ほぼ十万トンに近い満載排水量、全長三百数十メートル、全幅八十余メートル。
海上からの高さは、地上にあるビルの十数階分に相当する。
艦載機が離発着するフライトデッキは、甲板を斜めに走るアングルドデッキが採用され、蒸気カタパルトとハンガー(格納庫)から艦載機を上げ降ろしす為のエレベータをそれぞれ四基づつ有し、各種アンテナ・レーダを頂く『アイランド』と呼ばれる艦船橋がさながら天守閣のごとく高くそびえ立つ。
小国の軍事力を凌ぐほどの規模を持つダンジョンさながらの航空母艦内では、常時五千人以上の人員が昼夜を問わず交代制でそれぞれの任務に就き、ミッションの遂行とその海上要塞の運行維持に当たっている。
不意に遠くの空気が振動する気配がして、上の階から『ズン、』と地鳴りのような微かな重い衝撃の余韻。
一護は眼を閉じて、伝播するその振動に意識を向ける。
夜間の戦闘機着艦訓練。
27個のランディング・ライトだけを頼りに漆黒の海に浮かぶ点ほどにしか目視出来ない空母めがけて降りてくるそれは『着陸』というよりは『計画された墜落』に近い。
通常の飛行場では二千から三千メートルの滑走路が用意されているが、空母における滑走路の長さはその十分の一。
しかも着艦で使用出来る範囲は百五十メートル程。
時速二百五十キロで突っ込んできた機体は、僅か三秒程の間に停止するのだ。
滑走路のある基地に帰る空軍のパイロットと違って、艦載機のパイロットはアレスティング・ワイヤとよばれる制動用のワイヤに機体のフックを引っ掛けて無理矢理着艦しなければならない。
その為、彼らには狙った所に降りる技術と暗闇にダイヴする度胸、そして失敗したときには海に墜ちないようにエンジンを最大出力にして再度舞い上がる臨機応変さを持ち合わせていなければならず、定期的な『着艦資格』の更新を義務づけられている。
「甲板に四本張られたワイヤのうち、俺たちが狙うのは大概、三番めのワイヤ。失敗したこと?俺が?あると思う?一護ちゃん」
今、この部屋にいない二段ベッドの上の段の主は、不敵に笑って一護にそう教えてくれた。
一護が転がっているこの部屋は、空母の甲板から七階ぶんほど下の区域にある。
先ほどの衝撃の後にエンジンの轟音の気配が追従しないところを鑑みると、着艦は一発で決まったらしい。
もしかしたら失敗したことなど無いと豪語していた従兄弟のターンだったのかもしれない。
再び、重い振動がして今度はエンジンをフルスロットルにする音が聞こえた。
どうやら二番機は巧くワイヤを引っ掛けることが出来なくて着艦出来ずにリテイクらしい。
「なにやってンだ、下手くそが!」
この艦でもトップクラスな戦闘機乗りとしての腕前とそれに比例する口の悪さを併せ持つ従兄弟の声が聞こえた気がして、一護は口元を引き上げた。
二年前まで大学病院に医師として勤務し、数ヶ月前までは一般企業の社員として恙無い日々を送っていた一護は、自分がまさか軍属に為るなどとは夢にも思っていなかった。
今こうして航空母艦の一画で横たわっている数奇さに、一護はしみじみと人生は分からないモンだ、と感慨深さを感じ、半ば強引に自分をこの世界に引きずり込んだ従兄弟の、得意げな顔を思い浮かべた。
想像だにしなかった思いがけない切っ掛けで空母に搭乗することになり早、半月。
大型船特有の長周期振動と空母にしかない夜間訓練の音に漸く慣れてきた一護は、七時間後には取り掛かるだろう仕事の段取りを思い浮かべつつ、数十秒おきに舞い降りてくる艦載機の音を遠くに聞きながら何時しか眠りに就いた。
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