anti-Faust chronicle.





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『にゃあ』だろうか、『なぁおぅ』か。
何処かで耳覚えのある鳴き声を聞いた、気がした。

時刻は夕方の五時をほんの少し回ったところ。
先ほど後にして来た大学病院の外来は、風邪の症状とおぼしき人々の群れで怖ろしい戦況を極めていた。

突発的な病状ではなく定期検診の為に予約を入れていた一護は、それでも一時間近く待たされる羽目になり、期末テスト直前の貴重な放課後をインフルエンザ疑惑の人々に囲まれて過ごすという、戦々恐々な体験をしてきたところ。尤も、その定期検診を受診しなければならない程の大怪我を負った昨年の大晦日の体験の方が、一護にとっては余程怖ろしい現実だったのだけれど。

「ごめんなさいね、黒崎さん。外科の先生も外来のほうに駆りだされてて…もうすぐ戻ると思うので…」

一護に不織布のマスクを手渡してくれた顔見知りの看護師は、云うが早いか『廊下は走らないで』という注意書きの貼られた廊下を、ぱたぱたと半ば小走りに戦場へと戻っていった。
昨年、学期末にあった進路調査で『医療系大学への進学希望』と書いた一護である。現場の現状を身を以て体感し、将来的には自分の身に降り掛かるかも知れないその状況に、とりあえず勉強も大事だが体力作りも大事だな…と医学の道の険しさを垣間見たのだった。

門限までは、未だ余裕がある。
それでも、例の『大晦日に危篤状況に陥るような大怪我をした』という経緯から父や妹たちが今まで以上に一護の身を案じるようになったのは事実。おそらく門限の六時を過ぎても帰宅しなかった時には、心配を掛けた罰と称して今まで以上のペナルティが加算されるだろうことは明白だ。
一護とて、必要以上に家族に心配を掛けるような事はしたくない。
事故の折、昏睡状態から眼を覚ました一護が見た、あんな父の顔を見るのはもう沢山だ。
足早に家路を辿りながら、らちらほらと駅に続く繁華街のネオンが灯りつつある様子を眺めつつ、一護は制服の上から襟元にぐるぐると捲いていたマフラを外すと、黄昏に染まりつつあるグラデーションの冬空を見あげて短く息を吐いた。

それにしても、今日のこの気候はどうだ?
まさに『異常気象』
学校でハイテンションな友人が連発していた、そんな言葉がぴったりの気温。

二月の半ばとは思えない温い風。
週間予報では、例年の如く乾燥した寒い日が続くだろうと云っていた筈なのだが、昨夜のニュースでは一転、明日からは全国的に三月下旬並みに気温が上がるだろうという気象予報士の解説があり、その予報通り今朝から気持ちの悪いほど温んだ風が吹き、其処此処で温暖化だの地震の前触れだのといった不穏な話題を煽っていた。

地震はともかく温暖化は有り得る話だなと思いながら、一護はビルの隙間から滲む燃えるような夕陽に眼を細めて温んだ風の中を歩く。
駅に続く大通りへ向かうべくコンビニの角を曲がったところで、温い空気を渡って、一護の耳に微かに、聞き覚えのあるような鳴き声が届いた。

何処かで、聞いたことのある鳴き声。
何処で?と思考の端で記憶を手繰り寄せかけた一護は、歩く速度をほんの少し遅めてネオンと黄昏の混濁した風景に眉を顰める。
駅へと続く片側三車線の大通りは渋滞気味で、歩道にもサラリーマンや学生達、カラオケの客引きやコンタクトレンズの広告入りティッシュを配るアルバイト店員が溢れていた。
人の群れは忙しなく、各々の目的地へと流れて行く。
空耳だろうか?それとも、何かの効果音?
考えながら赤信号で止まった一護が、ビルの一面を占める広告塔パネルを見上げていた時、再びその鳴き声が聞こえた。
焦点を定めないままに眺めていた、歌いながら踊る同じ様な顔のアイドルのプロモーション画像から、はっと声の方へ首を巡らせた一護の、その視界の端を掠めた、黒。
誰も彼もが、忙しく行き来する往来で、沈黙するように不動を纏っている漆黒。

猫。

そうだ、この鳴き声は、猫の声だ。
指先に刺さっていた小さな棘を見つけた時のような感覚。けれど、未だ棘は抜けきっていない、そんな具合。
信号待ちする人の群れから、十メートルほど離れた細い路地の入り口に佇む黒猫は、微動だにせずに静止していた。











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