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「二件目と四件目は使用日から一ヶ月が経過してます。そしてこちらは三枚目。小計の額が間違っています」


ざわついていた部署内が一瞬にしてシン,と静まり返る。しかし声の主は一向に構う様子を見せず,束ねられてホチキス留めされたA5サイズ書類をうす緑色の滑り止めサックを嵌めた指で捲りながら「それから」と言葉を継いだ。


「こちらの接待費。昨日精算した二課の浮竹課長の申請書類にも同じ日付で別の客先への接待でこの三名の名前が連ねられてますが,事情を説明して頂けますか」
「あっちゃ…参ったなぁ」


営業三課の課長である京楽は緩くウェーブのかかった髪をひとつに括り,そこから零れた一筋を指に絡めて引っ張りながらため息を吐いた。


「ていうかさ,あんまり堅苦しいことは云いっこなしだよ,浦原クン。ね?」


わざとらしく肩を竦めると「営業には営業の事情ってヤツがあるんだよね」と云いながら浦原の腕にそっと触れる。
浦原は触れてきた手にちらりと視線をやると,黒い腕カヴァを嵌めた左手をそっと引き「そんな戯言が罷り通ると?」と京楽の顔を正面から見据えた。


銀縁の上部分だけに黒いセルの渡された野暮ったい眼鏡のブリッジをそっと中指で押さえながらため息を吐く。


「会社の金を使って経費として落とす以上,用途を明確に記した書類を出すのは当然の義務です」
「そ,そりゃそうだけどさぁ…」
「言い訳は必要ありません」


いいながら引き出しを開けるとひしめき合ったゴム印たちの中からひとつを取り上げ,ばんばん,と青いスタンプ台に叩きつけると十六枚全ての書類に捺印した。


「書類不備により,支払不可。十五時を過ぎましたのでまた明日申請してください」


京楽は浦原が一ミリも表情を動かすことなく電卓をたたき始めると,がっくり肩を落として部屋を出て行った。
固唾を呑んで見守っていたほかの社員たちは,あるものはため息を吐き,またあるものは隣の席に座るものにひそひそと話しかける。
そうしてまた雑然とし始めた部署の中,浦原だけが淡々と仕事を進めていた。





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「――あのダサオヤジ!」


午後十八時過ぎの女子更衣室。制服から私服に着替える女子社員のうち,誰からともなくそんな声が上がった。


「あぁ聞いた。京楽課長でしょ。ずいぶんこっぴどく云われたって」
「ひどいなんてもんじゃないわよ。課長のメンツ丸つぶれ。あのダサオヤジ,本当にムカツク」
「云ってることはあながちはずれちゃいないんだけどね…」
「なにアンタ,あのダサオヤジの肩持つって云うの?」
「そういうわけじゃないけどさ。書類不備でも押し通そうとするヤツが多いっていうのは事実なのよ。それくらいいいだろう?って。個人情報保護の絡みもありますしできません,って突っぱねてもそれくらいどうにかしてよ〜とか馴れ馴れしいの」
「あー,総務は大変だよねー」
「まぁね。だからあのひとの言い分もわからなくもないけど,でも確かに言い方ってのはあると思うわ。私もこの間けちょんけちょんに云われたもん」
「四課の新卒なんて泣かされたって噂だよ」
「あ,それ事実。アタシ現場見たもん」
「え,ほんとに?ちょっと詳しく聞かせてよ」
「いいけど。じゃあどこに寄っていく?」
「Karakuraの八階に新しいカフェできたらしいって聞いたんだけど,そこは?」
「あ,行ってみたーい」


女三人寄れば姦しいとはよく云ったもの。
聞き様によっては華やかに聞こえなくもない笑い声を上げながら女子社員たちは連れ立って更衣室を出て行った。


更衣室と同じフロアの設計担当に会いにやって来た一護は電話中だからと待たされている間中聞くともなしにそんな会話を聞いていた。
けたたましい声が遠ざかり完全に聞こえなくなると頭の後ろで手を組んで天井を見上げる。


「好き勝手云いやがって」


胸のうちで蟠る思いを吐き捨てるように云うと,ようやく電話を終えた志波が「悪ィ,待たせたな」と丸めた書類束で肩をとんとんとやってきた。


「黒崎,眉間にすげー皺が寄ってんぞ」
「…そうっすか。元からこんな顔なんで」
「金曜なのに残業が不機嫌にもなるよなぁ。これ,頼まれてたデータな。それ纏めたら終わりだろ?たまには飲みにでも行くか?」
「いや,先約があるんで」
「なんだよ,デートか」
「違いますよ。ちょっと負けられない勝負しに」


なんだそりゃ,と顔を顰めた志波に,一護は曖昧に笑いながら立ち上がる。


「コレ,ありがとうございました。今日は無理だけど月曜の昼飯とかどうですか」
「奢り?」
「もちろん」
「バーカ。三年も下の後輩にタカれっかよ。俺が奢ってやる。打ち合わせとか入れんなよ」
「いつもすみません」


掌をひらひらと振りながらデスクに戻っていく志波の背中にぺこりと頭を下げて一護は部屋を出た。
非常灯だけが点された薄暗い階段を二階分駆け下り,重たい非常ドアを押し開ける。
廊下の先のフロアは経理課からの通達の「残業時は照明を必要最低限に絞ること」を遵守し自分のデスクの周りの区画だけ点してある。


ファックスに志波から受け取った書類をセットし,下請けの担当に送信するとデスクに書類を放り出し,椅子にどさりと腰を下ろした。
引き出しを開け,一枚の書類を引っ張り出す。


「経費節約のお願い」


フォントサイズ16ptで題された下には二十八項目に渡って注意事項が記されている。
もうそらで覚えてしまったそれらをひとつひとつ読み返しながら目を瞑ると,その通達の作成者である浦原の顔が浮かんだ。


「冷たいとか違う。あのひとは職務に忠実なんだ。なんでそれがわかんねぇのかなあ…」


自分だって書類不備は何度も食らったことがある。
入社して一発目に呼び出されたときは思わず涙目になった。
だけどもそれを恨みに思ったことはない。


あのひとの云うことはいつも正しい。
書類だって不備を正して持っていけば「ご苦労様」と云ってきちんと精算してくれる。
一護は引き出しの中,書類と一緒に大事にしまってある飴玉をそっと手に取った。


『黒崎さんは甘いものはお好きですか』
『あ…はい』
『頂き物ですが,私は苦手なのでもしよかったら』


そっと掌に載せられたのは苺柄の紙に包まれたキャンディが三つ。以来,それは一護の宝物になっていた。


大事に大事に指先でそっと触れ,込み上げる思いのままに頬を緩める。
社員の大多数に蛇蝎のごとく嫌われている浦原を,一護は心の底から尊敬していた。


ヴヴヴヴヴ。
幸せな物思いを打ち破ったのはデスクの上に放り出していた携帯電話だった。


すぐに途切れるそれはメールの着信を知らせるものだった。
ちっ,と舌を鳴らして携帯に手を伸ばす。ぱちんと開くとそこには見覚えのないアドレスが表示されていた。


「…誰だ?」


云いながらメールの画面を開いて,絶句。
送信者は志波に云った「先約」である大嫌いな男からだった。


――一護サンへ
お仕事終わりました?
ようやく待った金曜日。お会いできるの,楽しみにしてます。
今日は何賭ける?――


絵文字こそ使われていなかったがその向こうに浮かれ惚けてにやけ切った憎たらしい顔を思い浮かべて,一護は乱暴に携帯電話を閉じた。


アイツ!なんで俺のアドレス知ってんだ!
もちろん一護が教えたわけではない。


教えたヤツがわかったら蹴り入れてやる。
ぎり,と唇を噛み立ち上がる。
マシンの電源が落ちたのを確認して,一護は職場を後にした。












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