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始まりの遅かっただらだらと留まり,夏の終わりを告げるはずのツクツクボウシの声もどこか疲弊し苦しげに聞こえる。
一護は額を滴り落ちる汗を手の甲で拭い,ため息を吐いた。
すると,耳から入り込んで脳を掻き回すエコーがかったような耳障りな鳴き声が不意に途切れた。


空を見上げると,いつの間にか日は陰り重たげに立ち込めた雲から堪えかねたような大粒の雨が一粒,右目の下に零れ落ちた。


通り雨-----。
慌てて道沿いの店の軒先に駆け込むのと,ざぁっ,という激しい雨音に世界が閉ざされたのはほぼ同時だった。
叩きつけるように激しく降り注ぐ雨粒は大気の孕む熱を力任せに洗い流していく。
むっとするような熱の篭った大気が徐々に冷やされていき,煙るようだった景色が少しずつクリアになっていく。
通り向こうの雑貨屋のテントはくすんだ灰とも黒ともつかない色だと思っていたが埃がすっかり洗い流されて深い緑色をしていたことがわかる。
その下に時代遅れも甚だしい真っ赤なダイヤル式の公衆電話があるのを見つけ,しばし視線をそこに留めた。
が,続いて零れたのは自嘲の滲む苦笑いがひとつ。


かける相手がいるわけじゃない。
自分に傘を持って来てくれる相手などいない。
声を聴きたい相手だって今はもう……。


ふ,と息を吐いて視線を逸らした。
雑貨屋の二階は下宿にでもなっているのか,古びた洋窓の向こう,薄いカーテンが雨の起こす小さな風にふわりふわりと揺れていた。
見るともなしに薄布の靡くのを見ているとカーテンの隙から白い手がす,と伸ばされ窓枠を掴んだ。
爪先が赤く染められた女の手だった。
続いて服を肩が露になるほど肌蹴られた真白い背。
その背を支えるように男の手が添えられていて,男の顔は女の首筋に埋めるように伏せられていた。


濡れ場かよ。
ちり,と苛立ちを孕む熱が腹の底を焦がす。
しかしなぜか目は吸い付いたようにその二人の姿から離すことができなかった。


瞬きすら忘れてじっと目を向けていると,女を掻き抱く男の目がす,と上げられ一護を見た。
男は,一護の目を見つめたまま唇を開くと,それをゆっくりと女の首筋に寄せていき,そのままそこに噛み付いた。


「なんだ,あれ…」


一護の視線の先,男が食いついた箇所から真っ赤な雫が一筋,女の背をゆっくりと伝った。
肩のラインに沿うように落ち,肩甲骨の縁を辿る。白い肌と伝う雫の赤のコントラスト。
きれいだ,と思った。
しかし次の瞬間,一護はぞわりと全身の肌が総毛立つのを感じた。


こちらを見ていた男が嗤った。
女の首筋に牙…,そう,あれは歯などではなかった。
もっと尖って獰猛な光を放つような禍々しさがあった。
牙,だ。
それを,突き立てたまま。


気がつくと一護は自分の腕で自分の肩を抱くようにして震えていた。
それから視線を無理やり引き剥がすと雨の降りしきる通りを一目散に駆け出した。


濡れることなど厭っている場合ではなかった。
そのとき感じていたのは紛れもない恐怖。
夢だった,とか錯覚だった,とか思いたかったが,瞼の裏に鮮やかに焼きついた光景は目を閉じずともそこにあって。
髪を濡らし頬をそして背を叩く雨の煩わしさも忘れて一護は走った。












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