Candlelight





§・§・§



「もしもし,一護サン?」


弾むような声で電話がかかってくる。
時刻は昼だったり,朝だったり,夕方だったり,まちまちだ。
朝一の職員会議から戻ったところで電話を受けた黒崎は携帯電話を肩と耳で挟んで受けながら給湯スペースに立った。


「ンだよ」
「今,平気?」
「あぁ」


途端,嬉しそうに気配が電話機の向こうで綻ぶ。
まるで犬みてぇだな,とひとりごち,喉を鳴らして笑うと「何?」と窺うような声。
なんでもねぇよ,と返すと「声がやさしい」とまた嬉しそうな声がする。


「それより用件は。声が聞きたかっただけ,とか云ったら脛に蹴りな?」
「え!」


慌てた様子にくつり,喉が鳴る。


「や,あの…,えっと!」
「何だよ,早く云え」
「き,今日,夜は…空いてる?」


しどろもどろながら,窺うような声。
しかし黒崎は小さく息を吐いた。


「悪ィ,今日は無理だ」
「あ…そう,ですか」


耳がぺたりと伏せた茶色い犬が浮かぶ。
柴犬よりも…雑種。しかも大型の。それでいて毛並みはすこぶるよい。
きゅーん,と項垂れる姿を想像したら自然,眉が下がってしまった。


「ポストに鍵,入れてある。中入ってろよ」
「え!」
「電話じゃアレな用事があるんだろ?用事っつってもオヤジとメシ食うだけだから二十二時には帰る。それまで待てるか」
「や…そんな」
「あ?」
「そんな,どうしてもってわけじゃ…」


尻すぼみになる声に神経がチリ,と焦げた。


「ふぅん,無理してまでは会いたくねぇ,てか」
「だって…一護サン明日も仕事でしょ?」


眉間に皺を寄せ目を瞑った瞼の裏にしょんぼりと項垂れる犬の映像が浮かぶ。
構って構って!と尻尾を振るくせに,近寄っては来ずに戸惑った顔で上目遣いに見上げる,そんな姿。
肩から力が抜け,眉間の皺もほどけてしまう。


「いいから待ってろ」


それだけ云って通話を切る。
向こうで何か云ってたような気もするが知ったことか。


ぱちん,と折りたたんだ携帯電話を白衣のポケットに落とし,すっかり湯の落ちきったコーヒーフィルタをはずす。
ふわり,漂うコーヒーの匂いをどこか物足りなく感じながらも慣れねぇとな,とため息を吐いた。


窓辺に立ってコーヒーを啜る。
窓の外は四月,春の盛り。
桜こそ散ってしまったが,代わりに入学したばかりの雀の子のような子ども達が真新しい制服姿でそこここに見える。


「春,なァ」


噛み殺そうとした欠伸をそのまま放ち,目尻に浮かんだ涙を指の先で拭って黒崎はコーヒーを啜った。


三月で,全部終わると思っていた。
終わらせようと思っていた。
なのに,それができなかった。


終わらせた,といえば終わらせたのかもしれない。
取り繕うのを止めてしまった。
無理に遠ざけようと虚勢を張ったり,伸ばされる手を跳ね除けたり。
冷たくあしらったり,周囲に張り巡らせた壁の存在をわざとらしく知らしめたり。


疲れた,というのもある。でもそれより圧倒的なのは「絆された」という感覚。
もういい,好きにしろ。俺も好きにするから。
そんな感じだ。


有頂天になるかと思っていた浦原は存外慎重だ。
慎重,というよりおっかなびっくり,という方が正しいかもしれない。
おっかなびっくりのくせして,決して遠ざかろうとはしない。
近寄っても,いい?と目顔で聞いて,黒崎がひょい,と眉を跳ね上げると嬉しそうに顔をほころばせてそっと近くに寄り添う感じ。


散々強引なこともしでかしておいて,この変わり身はなんだ,と鼻白む思いがないでもなかったが,そうさせているのが今までの自分が原因だとしたらそれも仕方ないのか,と思う。


窓の下にはすっかり花の散った桜の大木が新芽を風に揺らしている。
まるでシャワーのように温かい日差し。
ぷかりと再び込み上げた欠伸を放ち,「煙草,吸いてぇな」と呟く。
せめて昼休みが終わるまではじっと我慢だ。
校内のルールをまだ把握していない子どもたちはともすると立入禁止となっている屋上にまでふらりと姿を現す。
屋上の柵に凭れかかって気持ちよく煙草を燻らせている様など見られたら面倒なことになる。


そのときふっと何かが頭の片隅を過ぎった。


「……?」


動きを止め,それを追おうとするが残像のような記憶の断片はくっきりとした形を取る前に掻き消えてしまった。


しばらくそのまま残像をかき集めようと意識を凝らしていたが,そのうち面倒になって止めてしまった。
春は怠惰になる。
それは黒崎の二十七年間の人生の恒例のことだった。












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