Shepher's Purse





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コーヒースタンドは,畳敷きの小上がりに丸い卓袱台と座布団を置いた席が三つ。
土間部分に四人掛けのソファ席がふたつ。二人掛けのテーブル席が四つ。一人客用のカウンタ席が三つ。
観光シーズンになると流石にひとりではきりもりしきれないので,シフトを調整して三人態勢になるのだけれど,閑散期である今は各シフトひとりで対応できてしまう。
ソファ席に陣取るのは地元商店街の旦那衆。小上がりのテーブル二つにはやっぱり地元の奥方衆。
その両方に挨拶をして,一護はカウンタの中できびきびと働いた。

土間席はセルフサービス,小上がりの席には仕上がった飲み物や軽食を店員が運ぶ。
客の途切れたタイミングでトイレの清掃や仕入れのチェックなどやることはそれなりにある。
ついでに顔馴染みの客がやってくる度に薄く切ったバケットに試作品のジャムを塗って食べて貰うのも忘れない。
ラストオーダーは十八時半。山の上行きの最終バスの時間が十九時なので,観光案内所自体がその時間に閉店となる。

店のBGMはラジオ。観光案内所の二階がスタジオになっていて,朝の六時から日付が変わるまでいろいろな番組を放送している。
毎日二十三時から二十四時までは地元青年団のメンバーが日替わりでパーソナリティを務め,幼馴染と,一年ほど前からは一護も担当を任されていた。
全力で回避しようとありとあらゆる提案をしたのだけれど,結果的には押し切られた。
初放送日の朝は胃痛で目が覚めたほどで,未だに担当の水曜日が迫ると憂鬱な気持ちに駆られる。
しかしここ一ヶ月ほどは風邪を拗らせたおかげでほかの面子に代理を頼んで出演を免れていた。
申し訳なく思う一方で,安堵していたのも事実。それでも来週には復帰しなければならないだろう。

そんなことを考えていると,二階から疲れた面もちの同世代の男が降りて来た。
ラジオ局の局長である日番屋だった。

カウンタへと真っ直ぐやってきた日番屋は,一護の顔を見ると「なんか甘いの」とだけ云ってそのまま卓袱台の前に敷かれた座布団にどっかと腰を下ろした。
一護はホットココアを作ると,試作のマーマレードを塗ったバケットを添えて日番屋の元へ運んだ。

「今日は遅いんだな」
「…取材」
「そっか」

疲労がピークに達しているらしく,言葉少なな日番屋の前にココアとバケットの薄切りを置くと,ちらりと目が上がり一護を見た。

「新作か」
「ああ。試食頼む」
「どうせなら瓶でくれ」
「あるけど,持っていくか」

こくり,頷きながらバケットを口へ運んだ日番屋に,一護は苦笑しながらカウンタにマーマレードの瓶を取りに戻った。
日番屋は甘党で,一護の炊くジャムも好んでくれていた。
試作を頼むと毎回「甘い方が美味い」と判で捺したような感想が返ってくるのだけれど,それもひとつの意見だ。

二色のマスキングテープを貼った瓶を渡すときに「甘い方でトーストできるけど,食っていくか?」と尋ねると,こくり,頷かれた。
アカシアの丸いプレートにココット型によそった豆のサラダと,デミタスカップにスープをよそう。
バターを塗って二度焼きした厚切りトーストに甘い方のマーマレードをたっぷり塗って運ぶと日番屋の喉からくぐもった声が零れた。

「ごゆっくり」

そう云ってカウンタに戻る。
流し台に溜まっていた食器を片付け終え,翌日分の仕入れの手配をし,小上がりの客席へ視線を向けると日番屋が卓袱台に突っ伏して撃沈していた。
観光案内のカウンターでは赤いセルフレームの眼鏡をかけた乱菊がノートパソコンのキィを叩いている。
どうやら日番屋の座っている場所は乱菊の位置からは死角になっているらしい。
やれやれ,とキッチンを出て小上がりへ向かう。

「風邪引くぞ」

肩を掴んでそっと揺さぶると,卓袱台に突っ伏した日番屋の喉からくぐもった声が漏れた。

「寝るなら上のソファ行けよ」

この建物の二階にあるスタジオの隅にはアコーディオンカーテンで仕切られたスペースがあり,ソファベッドが一台置かれていた。
朝の六時から正午までと,夜の九時からラストまで局に詰める日番屋は,片づけやなにかで遅くなるとそのままスタジオ内のソファベッドで仮眠を摂ることが多かった。
局の仕事に携わる人間の間では「日番屋の巣」と呼ばれている。
一護も週に一度ではあるが上のスタジオに出入りしている為,そのことを知っていた。

あーともうーともつかない声を漏らしながら,日番屋が目を覚ます。
髪をぐしゃりとかき乱し,目を閉じたまま頭をふるふると振って「どんくらい寝てた」と掠れた声で尋ねた。

「さあな。食い終わったとこ見てねえから…でも十五分とかそんなもんじゃねえの」
「…頭痛ぇ」
「大丈夫か。鎮痛剤のストックあるけど」
「くれ」

頷いてそのまま更衣室に向かい,自分のロッカーから市販の鎮痛剤のパッケージを持ってきた。
コーヒー用のケトルからマグカップに湯を注いで薬と共に運ぶと「サンキュ」と疲れた声で礼を云われた。

薬を飲み下した日番屋は深い息を吐いた後,伏せていた目を上げて一護を見ると,周囲を一度見まわしそれから向かいに座るように手で示した。

「声,だいぶ戻ったな」
「まだ油断すると空咳出るんだけど,来週には復帰できると思う」
「そっか。じゃあ朽木妹にも云っておくわ」
「頼む」
「白崎は?」
「東京。明日の午後戻るって」
「じゃあメールしとくか…」
「要件云ってくれりゃ伝えるけど」
「さっきの取材の中でアイツの話題が出て,よかったら紹介して欲しいって頼まれてな」
「その人らいつまで滞在してるんだ」
「もう帰った。とりあえず白崎の方がよければ改めてアポイント取らせて貰うとよ」
「名刺とかねえの?」
「ある。お前から渡しといてもらえるか」
「ああ」

一護が頷くと日番屋は「上に置いてあるから取ってくるわ」と欠伸をかみ殺しながら立ち上がった。
小上がりの上がり口近くに梯子に似たひな壇造りの階段が設えられていて,二階のスタジオとはそれで行き来をする。
コーヒースタンドや観光案内所の利用客で希望があれば見学できるようにもなっていて,その場合は乱菊が案内し二階に詰めている局員に繋ぐことになっていた。
日番屋の足音に合わせて木材の軋む音を聞きながら,一護は使い終えた食器を片付け濡れた布巾で卓袱台を丁寧に拭き清めた。

ついでに帰り支度をしてきたらしく,日番屋はチャコールグレイのダウンジャケットを着こみ,傍らにはフルフェイスのヘルメットを抱えていた。

「外,雨降ってるからバイク気を付けろよ」
「ああ。んでこれ,名刺とあとそこんちの雑誌。詳細はメールしとくからそれだけ渡しておいてくれ」
「諒解」

一護が名刺と雑誌を受取ると,日番屋はくあああ,と欠伸を零しながら帰って行った。

「ボス,無精髭生えてるわよ」

カウンターから乱菊が揶揄を飛ばすのが聞こえる。日番屋の「伸ばしてんだよ」と不機嫌な声に,一護は小さく喉を鳴らして笑った。
一護より三歳年上の日番屋は今年三十六歳になるが,小柄な体格と持ち前の童顔のせいで三十歳そこそこ,服装によっては二十台に見える。
そのことを気にしているのだ。

「あたしからしたら羨ましいくらいなのに」

自身も周囲からは年齢不詳と云われていることを知ってか知らずか,乱菊は口を尖らせるが,日番屋は顔を顰めて否定する。
一護も生まれつきの派手なオレンジ色の髪のせいで見た目で判断される苦痛を散々味わってきたため,日番屋の気持ちも理解できた。

しかし髭については,あまり濃い方ではないせいか,苦労して伸ばしても無精髭の域を出ず地元のおばちゃんたちにも「忙しくて剃る暇ないの?」等声をかけられているのをよく見かける。
他の方法を考えた方がいいと伝えてやるべきかもしれない,と思いつつ日番屋の気持ちを考えると云えずに居た。
あっさり無視してずばりと指摘できる乱菊は強いな,とひとりごちて苦笑を零した。

天気のせいかその日は客の入りもまばらで,三時を過ぎると乱菊が休憩がてらやってきた。
ミルクたっぷりのカフェラテを,と注文を受けたので,エスプレッソマシンの稼働音を聞きながらレアチーズケーキとガトーショコラをそれぞれ一口サイズに切り分け,レアチーズケーキに糖度の高い方,ガトーショコラに低い方のジャムを添えて盛り付けた。

カフェラテのマグカップと共に先ほどまで日番屋が座っていたのと同じ席へ運ぶと乱菊の口元が嬉しそうに綻んだ。

「ケーキは俺の驕り」
「ありがと。添えてあるの,さっきのジャムよね。こういう食べ方も素敵ね」

フォークを手に,レアチーズケーキを切り分けて口へ運ぶ。
目を伏せてうん,と頷きながら,カフェラテを一口啜り,今度はガトーショコラを。

「結構苦味が強いのね」
「そう。次の試作ではもうちょいそこをカバーできるように調整してみる」
「あたしは結構好きだけど,苦手な人もいるものね。ラムとか洋酒と相性いいんじゃない?」
「ラムか。色味残したいからホワイトラム使ってみるかな」

次の試作ができたらまた味見してもらう約束を取り付け,一護はキッチンへと引き上げた。
乱菊は座布団の上にゆったりと横座りをして両手でマグカップを包み込むようにして持ちながら啜っている。
丁寧に手入れをされた艶やかな爪のしっとりとした赤色を見ながら,ピンクペッパーを使ってみるのも面白いかもしれない。そんなことを考えた。

金柑のマーマレードのレシピを考えながらぽつりぽつりとやってくる客の対応をしていると時刻は十八時半を回った。
ラストオーダーの時間だ。そろそろエスプレッソマシンの掃除をして…と考えていると,二階のラジオ局から飲み物の出前の注文が入った。
ロイヤルミルクティーとカフェラテとココアを作り,階段を昇って届ける。
戻ると,一護同様そろそろ店じまいの準備をしていたはずの乱菊のところに客の姿があった。

雨に濡れて肩の辺りが色を濃くしているトレンチコートを着込んだ中年の男。
ゆるくオールバックに撫でつけられた髪も濡れてしまっている。
観光客には見えないが…まっすぐ観光案内所を訪ねているところを見ると出張でやってきたけれど急遽泊りになって宿を探しているとかそんなところだろうか。

観光シーズンを外した今の時期は,プチホテルやペンションの中には営業していないところも多い。
駅で四つ,時間にして三十分ほどかかるけれど電車が動いている時間なら,新幹線が停車するターミナル駅まで移動した方が選択肢は増える。
でもまあ乱菊なら適切な案内をするだろうから,自分が気にする必要はないか,と思考を切り替え,改めてエスプレッソマシンの清掃に取り掛かった。

毎日のことなので考えずとも手が動く。頭ではずっとマーマレードのレシピに使う砂糖の量と,ホワイトラムを使うとしてその分量について考えていた。

「一護!」

名を呼ばれる声を聞きつけて,屈んでいた身体を起こすと,観光案内所のカウンターを出た乱菊がこちらへやってくるのが見えた。
その後ろにはトレンチコートの男が,所在無げにぼんやりと立っている。

「白崎にはあたしから連絡入れておくから,あのお客さん連れてってくれない?」
「なんでまた」
「仕方ないでしょ。朽木兄妹のところは医師会の団体でどっちも貸し切りだし。コクトーさん昼間で居たなら使えるようになってるんでしょ?」
「使えるようにはなってるけど…ターミナル駅まで戻った方が選択肢あるんじゃねえの」

一護の言葉を聞いても,乱菊は引き下がらなかった。
客本人の希望,ということか。それにしても理由がわからない。
理由がわからないが,断ると云う選択肢は与えられていないらしい。

一護が小さくため息を吐くと,乱菊はそれを了承の合図と受取りにっこりと笑った。

「ちょっと様子が変な感じがするから,気を付けてあげてね」
「ってそう云うのは先に」

云ってくれよ,という部分を無視して乱菊はひらりと踵を返し,カウンターの前に佇む客の前へと戻って行った。
一護は深々と溜息を吐いたが,今更どうにもできない。
クリーニングを終えたエスプレッソマシンの部品を元の位置に戻すと,キッチンの明かりを落とし,更衣室へ向かった。

新しいマスクにつけかえ,モッズコートを着込む。
幼馴染のゲストハウスに案内するということはつまり,一護の車に同乗させて連れて行くこということだろう。
気詰まりを感じて眉間に皺が寄るのがわかる。しかしこれも仕事だ,気持ちを切り替えろ,と自分を叱咤してから更衣室を出た。

モルタル打ちの土間を進み,カウンターが見える位置までやってくると客と話していた乱菊の視線が一護の方を向き,手招きされた。

「ちょうど宿の人間が居たんで,このままご案内させていただきます。――一護,あとは頼んだわよ」

一護は込み上げたため息を飲み下しながら乱菊に頷き,ぼんやりとしている客にぺこりと会釈をした。
連れ立って歩き出し,建物を出たところで「車を回してくるんで,少し待ってて貰えますか」と声をかけた。
トレンチコートを羽織っただけでマフラーすらしていない男に,寒くないのだろうか,と思ったが,男は「ハイ」と応えたきり人気の絶えたロータリーへぼんやりとした視線を向けた。
その様子に引っ掛かるものを感じ,一護は血の気が失せたようにも見える男の横顔をじっと見つめた。

「あの,勘違いだったらすみません。もしかして具合悪くないですか」
「え…?いや,そんなことないっス。顔色が悪いのはいつものことなんで」

そう云って口の端に曖昧な笑みを浮かべる。
しかし一護の勘は男の言葉を否定していた。

「失礼」

声をかけてから伸ばした手で額へ触れる。
男の目が驚いた風に身開かれたが,触れた額は思ったより熱くはなかった。
それでも気になる感じが消えなかったので,自分が着ていたモッズコートを脱ぐと「これ着て待ってて下さい」と男に押し付け,駐車場に向けて走り出した。

具合悪くないって嘘だろ。
嘘をついている雰囲気はなかったけれど,だとしたら自覚がないだけだ。
双子の妹たちが小さかった頃,頻繁に熱を出した。
朝起きて来たときの顔で,それを見抜くのは一護の役目だった。
男の顔を見た時に感じた引っ掛かりのようなもののは,そのときの感覚とよく似ていた。

「勘違いなら勘違いでいいし。つーか,あんな薄着で何考えてんだ。天気予報見てねえのか」

ひとりごちながら車のドアを開けて中へ滑り込む。
シートの上で腰を浮かしてベルトフープに引っかけてあったキィリングを外し,車の鍵を探してイグニッションを回す。
低い音を立ててエンジンがかかると,シートヒータのスイッチを入れることすら後回しにし,男を迎えに行った。

トレンチコートの上に一護のモッズコートを羽織るというちぐはぐな格好でぼんやりと佇んでいる男を視界の端に見つけ,一護は車を減速させた。
ロータリーに滑り込むと男の前で車を止め,身を乗り出して助手席のドアの鍵を開けた。

窓越しに男と目が合うと,肩に引っかけたモッズコートを落とさないように押さえて男が車に近づいてきた。
助手席のドアが開く男を聞きながら,一護はエアコンのスイッチを入れた。

「お待たせしました」
「お手数かけてすみません。よろしくお願いしますねン」

男の言葉に頷いたものの,返す言葉が見つからなかった。
手間なのは事実…そう思ってしまった自分に嫌気がさした。
相手は客なのだから手間などではないと否定した上で,歓迎の言葉のひとつもかけるべきだろう。
しかし完全にタイミングを逸してしまった。一護は項垂れたい気持ちを噛み締め乍ら無言で車を走らせた。

助手席に座る男は窓越しに流れる景色をぼんやりと眺めている。
お仕事でいらしたんですか。そんな問いが脳裏に浮かんだが,声になることはなかった。

「三十分くらいで着くんで」

一護の言葉に,助手席の男は小さく頷いた。

「あ」

男が小さく声を上げた。
フロントガラス越しに表情を窺うと「雪…寒いはずだ」と独り言ちるような声で云った。

「今年の初雪です」

視線を進行方向に戻しながら一護が云うと「そうなんですか」と男。

「去年なんかは十一月の終わりに降ったんですけど,今年は遅いみたいで」
「暖冬…ってわけじゃないですよね。これだけ寒いんだから」
「そうですね。気温は例年並らしいです」
「何も考えずに来ちゃったんで,こんな格好で。タクシー降りてびっくりしました」

タクシー?どこから?ターミナル駅か?
この街に観光でやってくる旅行客の大半は電車を利用する。
家族連れ等車でやってくる旅行客もいるが,タクシーというのは珍しかった。

「どちらからいらしたんですか」
「東京です」
「新幹線で?」
「いえ,タクシーで」

男の言葉に,一護は驚いて視線をフロントガラスから男へと向けた。
流石に運転中のよそ見が危険なことは理解しているのですぐに視線を前へと戻したが,衝撃はなかなか消えなかった。

東京からタクシーって,一体いくらかかるんだ?
一護がこの街に最初にやってきたときは東京駅から電車を乗り継いで五時間近くかかった。
新幹線を使えばもっと早く着いたのだけれど,値段が倍ほど違うので無職になったばかりで少しでも節約したかったし,なんとなく時間をかけたい気持ちもあった。
その道のりを…タクシーで。

車内に不自然な沈黙が降りた。
尋ねてもよいのだろうか。しかし尋ねずにいるのも変な感じな気がする。
前の車との車間距離を保ちながら,フロントガラス越しに助手席を窺う。
男の表情から読み取れるものはないかと期待したが,冗談等ではなさそうだというのが伝わってきたくらいだった。

「…どれくらいかかりました」
「時間?それともお金?」

男の返事にうっ,と言葉に詰まった。
そりゃ,今の尋ね方ならそう返すよな。そう思うものの,金のことを聞くのは不躾だ。
慌てているのが伝わらないとよい,と祈るような気持で「時間の方です」と付け足し,それから更に「渋滞とか…時間によっては大変だったんじゃないですか」と付け足した。

「イチゴサンも東京へよく行かれるんですか」

名前を呼ばれたことにぎょっとしたが,すぐにああ,と納得がいった。
乱菊が案内所で自分のことを「一護」と呼んだせいだ。もしかするとそれが姓だと思われているのかもしれない。

「仕事で…年に何度かってくらいですけど」

一護が応えると,男は小さく頷いて「首都高の都心環状線は順調だったんですけど三号線入ってすぐに事故だとかで,普段は十分くらいで抜けられるところが一時間以上かかったとか…運転手サンが云ってました」と他人事のように返してきた。

「トータルで…アッチ出たのが二時過ぎだったから五時間くらい?」

一護が仕事――都内で開催される手作り市に参加する際は夜明け前にこちらを発って,開始時刻の一時間ほど前に到着する。
途中休憩を挟んで四時間弱の道則になるので,首都高三号線の事故渋滞以外は割と順調だったらしい。
そこまで考えて,一護は思わず眉間に皺を寄せた。
車での移動にかかる大まかな時間を自分は理解していた。ということはつまり,さっきの問いは「いくらかかったんだよ」という下衆な質問だったということになる。
自己嫌悪からくる苦い気持ちに顔が歪みそうになるのを堪えて,一護はバックミラーで背後から接近するバイク等が居ないことを確認しながら左折するべくウィンカーをレバーを引き下ろした。

くああ,と男が欠伸を零し,それから湿った声で「失礼」と詫びた。
高速道路の下を抜け,街道をひた走る。道が傾斜を帯びてくると,男の視線がフロントガラスから窓へと移って行った。

栃木県にあるいろは坂ほどではないが,麓から山の上へと向かう国道には十を超える急なカーヴがある。
嘗ては他県からもドリフト族と呼ばれる愛好家が募って夜な夜などんちゃん騒ぎをしていたそうだが,地元警察の熱心な摘発と,観光協会も数多の対策を取ったことにより絶滅したと聞いている。
右へ,左へ,ステアリングを切りながら助手席の男を窺うと,窓の上のアシストグリップを握って身体が左右に揺れるのを防いでいる。

「あと少しで着くんで」

慣れた自分は平気だけれど,不慣れな人間だと車酔いすることもある,と聞いたことがあるのを思い出し,少しだけスピードを落としながらそう告げた。
工房のある駐車場の前を通り過ぎ,間遠な街灯をいくつか数えてヘアピンカーヴを二回超えると一護は右にウィンカーを出した。

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