MY LIFE WITH A DOG 02
§・§・§
午前三時。正確には午前三時十分前に,一護はベッドの中で目を覚ました。
毎日くたくたになるまで働いて,文字通りベッドに倒れ込むようにして眠りにつくのに,アラームが鳴る前に目が覚めてしまうのはなんでだろう。
疲れが残っているわけではないが,寝汚い身体はまだ眠っていたいと渋っている。
のろのろと身体を起こし重たい溜息を吐くと,毛布の上,膝に顔を載せるようにして眠っていた愛犬――コンが大きな耳をぴくりと震わせ顔を上げた。
「まだ寝てろ」
寝起きのせいで掠れている声をかけ,掌でそっと頭を撫でるとそのままぽふりと布団に顔を伏せた。
首を左右に動かし,肩をぐるりと回す。
ベッドから降りると素足にスリッパを引っ掻け,着ていたパーカのファスナを引き上げた。
ベッドの下に落ちてしまっていたショールを拾い上げて身体に巻き付ける。
ベッドのヘッドボードの上からスマートフォンと煙草とライターを取り,夜闇の中に家具が落とす影の濃いところを避けるようにしてベランダへ出た。
広々としたベランダには左右に三個ずつ大きな素焼きの鉢が置かれている。
それぞれには数種類ずつハーブが寄せ植えにしてあり,収穫したものはそのまま一護の職場である階下の店で使う。
掃出し窓の前から柵までの間にはコルクマットを敷き詰めて,日当たりのよい晴れた昼間は飼い犬が日向ぼっこできるようにしてあった。
そのコルクマットの上にひとつ,キャンプなどで使う折り畳みの椅子が置いてある。そこに腰を下ろすと煙草を咥えて火を灯した。
目を伏せたままゆっくりと吸い付けた煙草の煙を顔を持ち上げて吐き出す。
明け方前の澄んだ空気の中にふわりと浮かび上がる紫煙を眇めた目で見つめた後,小さく欠伸を零した。
ポケットの中から引っ張り出したスマートフォンのバックライトを灯すと,メールが一通届いてた。
四桁のパスコードを入力してロックを解除して,届いていたメールを開くと,海の向こうにいる恋人からの定期連絡だった。
仕事は順調だけれど一日も早く帰りたい。
けれどもどことなくきな臭い話になっていて,もしかすると予定よりも帰国が延びるかもしれない。
個性のないゴシック体の活字が並んでいるのに,なぜかため息交じりの声が聞こえるような気がした。
片方の眉を跳ね上げたまま読んだ一護は返信を認めることなくスマートフォンのバックライトを消した。
メールを送るのは夜。時間の空いたときに預かっている恋人の犬の写真を何枚か撮り,それを添付して送ると決めていた。
「帰国が延びる…ねえ」
咥え煙草のまま掠れた声で呟いて左の腕に右手で触れた。
厚手のパーカの布地の下にはメールの送り主である恋人の手によって彫られた刺青があった。
一護の年上の恋人の生業は彫師――それも頗る腕のよい――だった。
二カ月ほど前から破格の報酬でもって海の向こうの顧客に呼ばれて,三ヶ月の約束で出かけている。
一護はその間彼の愛犬を預かる約束をしていて,その犬は今も掃出し窓の手前に置いた分厚いクッションの上でくぐもった寝息を立てている。
恋人――浦原は当初愛犬を連れて行けないことを理由に依頼を一度断ったらしい。
しかし熱心な依頼人はそれならば犬も一緒に連れて来いと云い,検疫等で犬の負担になるから嫌だと断れば,だったらプライベートジェットを飛ばす。犬も検疫なしで入国できるようにするから,と食い下がった。
そんなことができるのか?と一護が尋ねると,浦原は肩を竦めて「いるでしょ,そういう強引な人って」と溜息交じりの声で応じた。
どんな人物かは教えて貰えなかったが,相当な権力と金を持った人物らしいというのが窺い知れた。
兎も角も,浦原は一度断ったその依頼を紆余曲折の末,請けることにした。
犬は飛行機での移動が負担になるから置いていくと告げると,気前の良い依頼人はペットシッター代として言い値を払うと伝えてきたらしい。
浦原は迷うことなく日に一万を提示して,諸経費込みで現金百万円を持参で一護の元へやってきた。
そんな金受け取れるかと一護が断ろうとすると「でもこれアタシが受け取ったら詐欺になっちゃうし」と眉を下げる。
期間は約三ヶ月。それを超えないように帰国するつもりではあるけれど,何があるかわからない。その間の食費と医療費(年に一度のワクチンと狂犬病の予防接種の予約が入れてあった)込みで受け取って欲しいと。
食費と医療費くらい立て替えることはわけでもなかったが「何があるかわらない」という言い方が引っ掛かった。
その言葉は一護が預かる彼の愛犬にではなく,彼自身にかかっているように聞こえた。つまりはそういう類の人間を相手に仕事をするのだと暗に云われた気がした。
確かめる術は――浦原の顔を見て諦めた。
結局一護は浦原の頼みを引き受けることにしたが,現金百万円のうち諸経費分の十万円のみを預かることを条件として突きつけた。
浦原は尚も食い下がろうとしたが,最終的に一護の条件を飲むことに同意し彼の愛犬紅姫は一護の住まいにしばし滞在することとなった。
そうして浦原が旅立ったのは二カ月ほど前,夏の終わりのことだった。
一護の腕に刺青が刻まれたのはそれより更に三ヶ月ほど前のことになる。
一護が希望して彫って貰った。
仕事として依頼したい。代金も勿論支払うつもりだと云ったのに,受け取っては貰えなかった。
浦原の愛犬を預かることを承諾したのはこの刺青の礼の気持ちもあった。
竜生九子――竜から生まれた九つの子のうちのひとつで第三に数えられる嘲風(ちょうほう)という名を一護は初めて耳にした。
中国の伝説に登場する生き物で,竜のような形状をしているがどことなく犬に似ている。
妖魔を威圧し,災いを消滅させる。そして遠くを眺めることを好むと云う。
腕の内側,肘の下に行儀よく座り,折りたたんだ翼の下から細い尻尾が伸びてぐるりと腕に巻き付いている。
がっしりとした身体を支える短い前脚は,どことなく先ほどまでベッドで共に寝ていた一護の愛犬を彷彿とさせる。
大きな口からは牙が覗き,立派な角と共に威圧するような迫力があるが,こちらを見上げる目に愛嬌があるあたりも。
そしてその周囲には咲き誇る梅の花が。
黒一色で彫られているのに,紅白の違いが判る。
具体的に云えば彫り方が違うのだけれど,蘊蓄を抜きにして素晴らしいの一言に尽きる出来栄えだった。
以前から練習用の器具と墨を使って背中や腕に仮初の刺青を描いて貰ったことは何度もあるが,本物を彫る気持ちにはなれずにいた。
刺青といえばヤクザや渡世人の入れるもの,という先入観のせいではない。
単純に,一護は恋人の手によって描き出される世界の虜になっていた。
自分の背に描かれる精緻な図案。
咲き誇る花々だったり,伝説上の生き物だったり,実在する動物だったり。それらを目にするのが好きだった。
自分の膚に本物を入れて貰う。
しかし一度それをしたら他の図案が見られなくなってしまう。望めばいくつでも入れて貰えるかもしれないが,そんな風に軽く扱いたくないという気持ちもあった。
口にしたことはなかったから,恋人がどう思っていたかはわからないけれど。
半年ほど前,定休日の日曜日に家事や翌週の仕込みを終えて夕刻恋人の家を訪ねた。
一緒に連れて行ったコンは恋人の愛犬の紅姫の元へすっ飛んで行き,一護は庭から恋人の仕事場である広々とした座敷へ通された。
既に敷かれていた布団に上着を脱いで横たわり,準備が整うまでは他愛ない話をしていたが,恋人が練習用の針を手に持つとそれも途絶えた。
二時間ほどの後,小さな手鏡を使って姿見に写した背には見事な白い牡丹の花が咲き乱れていた。
伸びてきた掌に顎先を捕らえられ,口づけられると手鏡が手から滑り落ちた。求められるまま抱き合った後,息を弾ませ汗の滲む身体を敷布団に横たえると,遅れて隣にうつ伏せた恋人が「ここを出ることになりました」と告げた。
「出る?引越すってことか」
「そう。一応アタシが師匠から継いだことにはなってるんスけど,目玉の飛び出るような固定資産税を払ってるのはとある会社の社長サンで…って話は前にしたでしょ」
「社長?ヤクザの親分だろ」
「表向きは真っ当な会社の社長サンなんスよ,いちおう」
苦笑する恋人に「建前はいいって。でも,急だな」と返すと恋人は応えずに一護の肩に唇を押し当てた。
その仕草で急な話ではなくかなり前から打診されていて,本決まりとなったから自分に話したのだということがわかった。
「仕事,辞めるのか」
「辞めないっスよ。他にできることもないし」
そんなことはないだろう,と反論しかけたが一護は口を噤んだ。
「前から副業や海外からのお客を受け入れることに口出しされてて鬱陶しいなあって思うこともあったんで,いい機会かなって」
浦原は本業である彫師としての仕事が暇になると人の膚をタブレットに,針を専用ペンに持ち替えてコンピュータの画面上に図案を描く。
それをとあるアパレルメーカに買い取ってもらい,生地のパターンやTシャツなどの図案に使われるのだ。「副業」というのはそのことだった。
牡丹に鶴,白萩の花,サイケデリックな色彩の猪鹿蝶。
どれもこれも独特の世界観を持っていて一護はコンピュータのモニター越しに言葉を失って只管見入った。
しかし浦原の支援者はその副業についてもあまりよい顔をしないらしい。
「揉めた?」
「ってほどでも。そもそもココの提供は受けてたけど,囲われてたわけでもないし」
「大丈夫なのか」
「勿論」
本当か,と探るような視線を向けると,顔にかかる髪を掻き上げながら浦原は淡い笑みを浮かべた。
「心配してくれるのは嬉しいけど,大丈夫」
「…俺に何ができるってわけでもねえしな」
「そんなことないっスよ。今だっていろいろ助けて貰ってるし」
腰の上に載せられた掌がゆっくりと脇腹を這い上がる。ぞわりとした感触に喉が鳴ると,浦原の唇が仰け反った喉仏を押しつぶすように寄せられた。
「もう一回,する?」
誘う声音で囁かれたが,一護はその頭を掌で遠ざけた。
「話,続けろ。そっちのが気になる」
「えー」
「えーじゃねえよ。馬鹿」
云いながら頬を摘まむと,ひっそりと笑い声が零れて浦原は大人しく引き下がった。
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