MY LIFE WITH A DOG





§・§・§



「――大丈夫?」

間近から声をかけられて,一護はゆっくりと首を巡らせた。
蝙蝠傘という表現がぴったりな大ぶりな黒い傘の下から声は聞こえてきた。
最初に目についたのは黒いTシャツ。
肘の辺りまで袖があるゆったりとしたデザインで着心地がよさそうに見えた。


視線を少し上げると真冬の月のような淡い色の長い髪を無造作にひとつに括った男の顔が目に入った。

大丈夫,とは。
っていうか,傘?
瞬きをすると,目に水が入った。
同時に耳が雨音を拾い,驚きながら足元へ視線を向けるとすっかり濡れそぼった愛犬が心配げな顔で自分を見上げていた。

その姿を見た瞬間,頭が真っ白になって膝をつくように身を屈めるとピンと立った耳の先から滴る手で水気を指先で払いながら「ごめん」と詫びた。
犬は一護の伸ばした手に顔を寄せると,濡れている手の甲を慰めるように舐める。 視界が歪んでいる。
目に入った雨が出て行こうとしているのか。
違う,涙だ。
すっかり色を濃くした地面にぱた,と滴が落ちた。

目元を拭う手間を惜しんで,身を寄せてきた犬の身体を抱き上げると,傘を差しかけてくれていた人が首にかけていたタオルをはずし,一護の腕の中で震える犬の頭を拭いてくれた。

「うち,すぐそこなんで雨宿りして行きません」

親切そうな声音に頷きそうになったが,見ず知らずの人にそんな世話になるわけにはいかない,と首を横に振った。
すると声の主は小さく首を傾げた後「一護サン…でしょ?」と一護の名を正しい発音で呼んだ。

一護と書いて「いちご」と読む一護の名は,字面だけ見ると「かずもり」よみがなを記せば果物の「苺」と同じ発音で読まれてしまうことが多い。
実際には「越後」に近い発音なのだけれど,いちいち訂正するのが億劫なので学校を出てからは必要に迫られない限り専ら苗字のみを名乗るようにしていた。

改めて傘を差しかけてくれる人物を間近から見つめた。
見覚えのない顔だった。

子どもの頃から人の顔を覚えるのが苦手で,学生時代は毎日同じ教室で過ごすクラスメイトすら覚えていないこともあったが,流石にこんな特徴的な髪色をした人間は記憶に残らないということはないだろう。
自分が生まれついてのド派手なオレンジ色の髪をしていることから,他人の造作で一番意識に残るのが髪色という理由もあった。

「あんた,誰だ。覚えてねえんだけどどこかで会ったことあったか」

掠れた声で尋ねると口の端をわずかに引き上げたその人は「うちに出入りしてる看板描きの子がいつも話してるから」と答えた。
「看板描きの子」に思い当たる顔がひとつだけあった。
一護の一つ年上の幼馴染で名を白崎という。
大学時代アルバイトしていたカフェの店先の黒板タイプの看板に日替わりで絵や文字を描いてSNSに投稿したところ,それが評判となって大学卒業後はあちこちから声をかけられては愛犬と共に出かけていって描く生活をしている。

「シロの,知り合いなのか」
「そういうことっス」

知り合いではないけれど,知り合いの知り合いではある。
それは初めての経験ではなかった。
学生時代も,働くようになってからも「キミがあの」という風に声をかけられることは何度もあった。
自分の居ないところで自分のことを喋り散らすのは止めろと何度も云っているのだけれど,その場では殊勝な顔をするものの幼馴染はすぐに忘れてしまうらしい。決して頭の悪い男ではないのだけれど。

溜息を飲み込んで視線を傘の外へと向けた。
最初に声をかけられた時より警戒する気持ちが小さくなっているのを感じる。その上声をかけられた時よりも今の方が雨音が強くなっていて,足元で跳ねた雨粒が膝の後ろまで跳ねている有様だった。

躊躇いつつも,顔を上げると,一護の答えを聞く前に男が微笑んだ。
そして手を伸ばすと一護の頬に触れ,目元までをゆっくりと拭った。

「犬の毛,ついちゃってますよン」

泣き顔を見られたことに今更ながら気が付いて逃げたい気持ちになったが,相手がまったく気にしていない風に「それじゃ行きましょっか」と促すので俯いたまま足を踏み出した。

「紅姫,行くよ」

一護ではなく,自分の背後に声をかけて歩き出す。
べにひめ?と愛犬を抱えたまま肩越しに後ろを振り返ると,赤と青のツートンカラーのレインコートを着込み,フードまでしっかり被った犬と目があった。
特徴的な顔つき――押しつぶされたように短い鼻先と,たっぷりと寄った皺。
口を開けて舌を出すと笑ったように見える表情。
そしてがっしりとした体躯。

「ブルドッグ?」

尋ねると「そう」と頷かれた。

「雨が降ろうと雪が降ろうと,散歩に行くのが好きなんで,こうして付き合わされてるんスよ」

肩を竦めた男は,一護が抱える愛犬に視線を向けると「コーギー?」と尋ねた。
今度は一護が頷く番だった。
ウェルシュ・コーギー・ペンブローク。
原産地はイギリスのウェールズ地方で嘗ては牛を追う牧畜犬として活躍していたらしい。
愛嬌たっぷりの性格と骨太で胴長な体躯と短い脚,ピンと立った大きな耳が特徴とされている。
断尾されているが故に強調される尻は「食パンに似ている」と人気の理由のひとつに挙げられているとか。
一護の愛犬は小柄で少しやせ気味なので食パンと云うには少々ボリュームが足りなかったが。

「あの子に押し付けられたって聞きましたけど」

続く言葉には首を横に振った。

「最初は暫く預かってくれって云われたんだけど,俺が…コイツと離れたくなくて引き取るって云ったんだ」

だから押し付けられたというのは違う。
幼馴染を庇う意味もあったが,何より腕の中の愛犬に「押し付けられて渋々受け入れて貰った犬」というレッテルを貼られたくなかった。
傍らを歩く人はなるほど,と頷いた。

「あの」

一護が口を開くと「何?」と云う風に視線を向けられた。

「名前…なんていうんですか」

問いを口にすると,どうしてか敬語になってしまった。
見た感じ自分より確実に年上だろうということは察せられたし,間違いではない。そう思い込もうとしたが,不自然な自分の反応に顔が歪みそうになった。
誰とでもすぐに打ち解けてたくさんの友人を持つ幼馴染と違って,一護はお世辞にも人づきあいの得意な方とはいえなかった。
愛想笑いもできなければ,世間話の類も苦手だった。

「浦原って云います。壇ノ浦の浦に,原っぱの原」
「浦原…さん」
「ハイ」

笑みをはらんだ声で返事をされて,一護もほんの少しだけ顔が緩んだ。
そして,幼馴染から聞いたことのあるたくさんの名前の中にその名があったか記憶を探ってみたが,思い出すことはできなかった。

「ごめん,俺もシロから聞いたことあったかも知れないけど,覚えてないみたいで」
「気にしないで。アタシだってあの子がしゃべり散らす誰彼の名前全部覚えているわけじゃないし」
「え,じゃあなんで俺のこと」

覚えてたんだ?と尋ねかけてすぐに一護は「髪の色,か」とひとりごちるように云った。

「そっスね。っていうか,前から何度か見かけてたんスよ。たまにこんな風に遅くに犬の散歩してるでしょ。アタシはいつも川の向こう側歩いてるんで,声をかけることはなかったんスけど,今日は紅姫がどうしてもコッチがいいって云うんで手前で曲がることにしたんス」

一護が声をかけらたのは,緩やかに蛇行する川のほとりだった。
胸の下まで高さのある柵に両腕を預けて,対岸の――というより,対岸近くの川の中から生える柳の木を見ていた。
一番近い街灯の明かりは次の橋の袂で,一護が立っている場所にも柳の樹にもその明かりは届かない。
闇の中に佇んで,傾いだ幹から枝垂れ弱い風に揺れる枝をぼんやりと眺めていた。

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