BREAK THE SPELL 前編
§・§・§
階段を上って二階にある店の入口を潜る。
カウンタを磨いていた店主が顔を上げ「お好きな席へどうぞ」と声をかけられた。
入口近くの窓辺に席を決め,コートを着たまま腰を下ろす。
水のグラスと湯気の立つおしぼりを運んできた店主が椅子の後ろから電気ストーブを引っ張り出して来てテーブルの横に据えてくれた。
「今日は冷えますね。ご注文が決まりましたら云ってください」
礼を云ってメニューを受け取る。
木製の表紙がついたブックタイプのメニューのページを捲り,日替わりのホットサンドイッチとデザートにフォンダンショコラ。飲み物はコーヒーに決めて注文した。
天気のせいか,正午前という時刻のせいか他の客の姿はまだない。
一護は腰を上げるとカウンタの向こうで動きまわる店主に断って壁際の棚に積まれた灰皿をひとつ手に取った。
鞄から取り出した煙草を咥えて火を点し,ゆっくりと吸いつける。
ストーブから伝わる熱に身体に篭っていた余分な力が抜けていくのを感じる。
煙と一緒にため息を吐きだしながらコートを脱いではずしたマフラーを置いてあった隣の椅子に丸めて置いた。
窓の外へ視線を向けると,重たい色の空から白い雪片がひらひらと舞い落ちるのが見えた。
咥えた煙草の穂先から立ち上る煙越しにそれを眺めて「初雪か」とひとりごちた。
視線を窓から外し,店内をぼんやり見回すと,カウンタの横の壁に掛けられた黒板に「自家製ホットワインあります」と書かれているのが目に入った。
グラスだと一杯六百円。店特製のステンレスボトルに詰めて持ち帰りも可。その場合はボトル代込みで二千円とあった。
ホットワインを片手に冬の散歩はいかがですか,と添えられている。
しばらくそれを眺めた後,帰りにひとつ頼んでみるか,という気になった。
まだ午後も早い時間だし,家に帰っても読みかけの本を開くくらいしかすることがない。
ならばホットワインを片手に御苑に立ち寄り東屋で小雪の舞うのを眺めながらページをめくるのも悪くない。
チリビーンズとゴーダチーズのホットサンドイッチを運んできた店主に黒板を指し「持ち帰りでアレひとつ」と頼むと,「ありがとうございます。お帰りの時にお渡ししますね」と感じのよい笑顔が向けられた。
辛さと酸味のバランスが絶妙なチリビーンズのサンドイッチを食べながら,デミタスカップのスープを啜る。
やわらかい緑色のとろりとしたポタージュスープはメニューによればブロッコリーときゃべつのポタージュらしい。
塩気はうすく,野菜の甘みがやさしいほっとするような味がした。
添えられていたラディッシュと人参のピクルスまできれいに平らげると,コーヒーとフォンダンショコラが運ばれてきた。
コーヒーを啜りつつ,こっくりと甘いケーキをつつき,合間に煙草を吸った。
空腹が満たされてほっと息を吐きながら,グラスの水を飲み干し腰を上げる。
会計お願いします,と声をかけると,ステンレスボトルを手に店主がカウンタから出てきた。
店の入口横のレジスタで,食事とホットワイン分の会計を済ませ,ステンレスボトルを受け取って外に出た。
五分ほど歩くと御苑の入口が見えてきて,無人のチケット売り場の自販機に小銭を入れてチケットを受け取った。
大きな木の作るトンネルのような小道を抜けて日本庭園へ。大きな池を望む東屋のベンチに腰を下ろした。
マフラーを一度解き,二重に巻き直して首の後ろで端を結んだ。
隙間風が入らなくなると寒さはぐっと遠のく。
ベンチに鞄を下ろし,文庫本を取り出して膝の上に置いた。
ボトルの蓋を開け,口を付ける。
温かいワインは果物とスパイスの匂いがした。
一口啜ると温度と甘さが身体にじんわりと浸みていき,身を包む寒さを遠のける。
一護は表情を和らげてボトルに蓋をすると膝の上の文庫本を手に取った。
ちびりちびりとワインを啜りながら読書に耽っていると,視界の端に人の影が過った。
文庫本から顔を上げて視線をそちらに向けると,背の高い,まるで真冬の月のような淡い色の髪を伸ばした男が階段を上り東屋の屋根の下へと入るところだった。
砂色のアウトドアジャケットを着込み,僅かに覗く首元には黒と赤の模様入りのネックウォーマを巻いている。
顔の下半分が野放図に伸びた髭に覆われていて,まるで山から降りたばかりの登山家を想像させた。
じっと見つめる一護と目が合うと,そのまま一護のすぐ傍までやってきた。
「何飲んでるんスか」
「ホットワイン」
「いいなあ,一口頂戴」
差し出された節の立った手にボトルを渡してやると,蓋を開けてなんの躊躇いもなく口をつけた。
「…甘い」
甘い香の漂う息をふわりと吐き出しながら零す男へ手を伸ばし「文句云うなら返せ」と云うとすっかり空になったボトルが寄越された。
「全部飲んでおいて文句云うかフツー」
「一口分しか残ってなかったっスもん」
「嘘つけ」
「キミの一口とアタシの一口の差を考えてない」
そう云って髭に覆われた口の端を引き上げると,両手を伸ばして一護の頬に触れた。
「久しぶり。一護サン元気だった?」
野放図に伸ばされた髭のせいで顔の下半分の表情はわからないが,深い緑色の瞳にはやわらかな光が点っている。
それを認めて一護も眉間の皺を解いた。
「随分時間がかかったな」
「いろいろとありまして。でも,間に合ったでしょ」
「まあな」
一護が頷くと,男はひっそりと息を零しながら一護の隣に腰を下ろした。
男の名は浦原喜助という。
齢は一護の一回り上で,一護の両親の知己だった。
そして一護の職場である護廷十三隊で隊長を務めたこともある。
一護が十五歳のとき,組織内のトラブルに巻き込まれて護廷十三隊を追われることとなり,怪我をした状態で古い知己である一護の父を頼って訪ねてきた。
怪我の手当てを施した父親は状態のあまりの酷さに入院を厳命し,唯一の個室に浦原を軟禁した。
ベッドに括りつける代わりに息子の一護に見張りを命じ,逃がしたら向こう三カ月の小遣いと正月のお年玉はなしだ,と云い放った。
父親の横暴にいつもなら食ってかかるところだったが,浦原の様子を見て一護はそれを止めた。
父親に怪我の詳細を尋ねると,折れた肋骨が内蔵に傷をつけている他,縫合が必要だった切創が数か所。骨が露出するほどの酷い割創や刺創も複数個所あった。
一体何があったらこんな酷い状態になるんだ。この状態でどうやって家までやってきたんだ。
事情を知らない一護ですらただごとではないと思わせる酷い状態だった。
最初の二日間浦原は一言も口を聞かず昏々と眠り続けた。
一護が様子を見に行くと目を覚ますが,声は発さず部屋を出ていくまで様子をじっと窺っていた。
三日目,膀胱に差し込まれたチューブが引き抜かれると,点滴のぶら下がるポールを杖代わりに病室を抜けだした。
扉を開けて部屋に浦原の姿のないことに驚いた一護が廊下に飛び出すと,トイレから「ここっス」とか細い声が聞こえてきた。
ポータブルのトイレで用を足すのがどうしても嫌でトイレまでやってきたものの,排泄が終わったところで力尽きで動けなくなってしまったのだ,と。
廊下の端に置かれた車椅子に乗せて病室まで連れていく間,掠れた声で事情を説明された。
肩を貸してやってベッドに戻すと,小さな声で礼を云われ,傷だらけの手で頭を撫でられた。
止めろ,とその手を押しのけたかったが包帯の下には傷がある。
一護が躊躇っていると「やさしいんスね」と笑顔が浮かんだ。
「医者の息子が怪我人に悪化するような真似できねえだろ」
無愛想な声でそう云うと,男はくすりと笑って「アタシのこと覚えてない?」と首を傾げた。
顔をまじまじと見る。
右はこめかみから頬に掛けて,左は頬骨から顎先にかけてガーゼに覆われていて顔の大半は見えない状態だった。
しかしそれを抜きにしても,男の顔に見覚えはない。
一護が眉を顰めると「一護サン,こーんな小さかったから覚えてなくても無理はないか」とひとりごちるように云った。
こーんな,のところでウズラの卵を摘まむような仕草をしたので「ンなわけあるか」と思わず突っ込んだ。
しかし同時に「一護サン」と名を呼ぶ声がひっかかり,一護は首を傾げた。
「何か思い出しました?」
「思い出したっつーか…声が」
聞き覚えがあるような,ないような。
否,あるのだ。遠い記憶。確かにこの声に名を呼ばれたことがある。
そして笑顔を向けた記憶が,朧気ではあるが,確かにある。
しかしそれ以上のことは思い出せず,一護は眉間に皺を寄せたまま傷だらけの男を見た。
「あんた,親父とどんな知り合いなんだ」
「一心サンていうか,元々真咲サンの方と知り合いだったんスよ」
男の口から飛び出した母の名に,一護は目を見開いた。
一護の母親は一護が八歳の時交通事故で亡くなっていた。
一護を身篭ったのを機に仕事を辞め,ずっと黒崎家の中心だった母。
やさしくて,いつも笑顔で,泣き虫だった一護が泣きべそをかくと,頬をつついて笑わせてくれた。
その母が突然の事故によってこの世を去った。
当時のことを一護はあまり覚えていない。
葬儀の様子も,たくさんの人が母の死を悼み弔問に訪れたことはぼんやりと覚えているが,それだけだった。
あの中にこの男も居たのだろうか。
一護が窺うような視線を向けると,男は小さく息を吐いて一護に近くに来るよう手招いた。
声を張るのがつらいのだろう,と察した一護はベッドの傍らの床に腰を下ろすと,ベッドに凭れるように背を預けた。
そして男が語る言葉にじっと耳を傾けた。
浦原が今の仕事に就く前のこと。知人を介して一護の母を紹介されたのだという。
浦原が書いた論文について,とある組織の分析員を務めたことのある母親に精査を依頼した,というのがきっかけらしい。
「分析員って何するんだ」
「文字通り分析をするんスよ。一つの事象に対し,さまざまな角度から光を当て,リスクや回避方法や対処法を考える」
わかったような,わかんないような。
そんな反応を気配から読んだか,浦原はひっそりと笑みを零した。
「上手な説明ができなくてゴメンね」
「いや。続き聞かせてくれ」
一護が促すと,浦原は小さく息を吐き,話題を元に戻した。
浦原がある程度自信を持って差し出した論文を,一護の母はこてんぱんに酷評した。
口調は穏やかだし表情はにこやかだったが,浦原が必要なリスクだとした点を「無駄なリスク」と一刀両断した。
浦原の反論はことごとく封殺され,手も足も出なかった。
ため息混じりの声に,一護は肩越しに浦原を振り返った。
「怒ったのか」
「まさか。あそこまでコテンパンにされたのは生まれて初めてのことだったんで,小気味がよくってね。両手を上げて降参したらすっごく甘いココアを淹れてくれて」
冬の寒い日に母親が作ってくれるココアの味を一護も思い出した。
鍋で丁寧に練って作るココアはミルクたっぷりで泡立てたホイップクリームの上に削ったチョコレートがまぶされている。
どんなに嫌なことがあった日でも,一口飲めばたちまち幸せな気持ちで笑顔になった。
「アタシ,甘いものって苦手だったんスけどなんでかアレはすごく美味しかったっけ」
浦原の言葉に頷いて,一護は姿勢を元に戻した。
その後,浦原はとある組織に就職したがその後も時間ができるとこの家を尋ね母との会話を楽しんだらしい。
双子の妹がぐずったり,体調が悪かったりすると話相手の礼にと浦原が一護の空手教室への送迎を買って出たこともあったのだとか。
「アタシが買って出たっていうよりも,押しつけられた感が強いんだけど,真咲サンそういうの凄く上手な人だったでしょ」
浦原の言葉に一護は小さく頷いた。
確かに母の「お願い」に首を振れる人間はこの家にはいなかった。
幼かった双子の妹たちですら「お願い」と云われるとべそべそと泣くのを止めるほどだった。
一護も,そして父親も同じだった。
「そんなわけで,空手教室へのお迎えを何度かね」
「俺,全然覚えてない」
「一護サン小さかったから」
「それっていつ頃の話なんだ」
「真咲サンが亡くなる一年くらい前かな」
一護が小学校に上がった年だった。
いつまでも泣き虫のままじゃ,と父親に放りこまれた空手教室に週に二度通い出した。
行きは道着を抱えて一人で,帰りは母親が迎えに来てくれた。
組み手で負けてべそをかくと,ポケットから飴玉を取り出して「お父さんにはナイショね」と自分と一護の口へ放りこんだ。
いつもは双子の妹たちに譲らねばならない母の手を独り占めできる貴重な時間だった。
そういえば確かに,母親でない迎えが来てがっかりしたことがあった気がする。
一護は自分の右手を見下ろした。
母の温かい手と違う,ひんやりとした手の感触が蘇った。
「なあ」
「ハイ?」
「手,触ってもいいか」
「手?ドウゾ」
ベッドの上に投げ出された手に,一護はそっと自分の手を重ねた。
細かい擦り傷だらけの手はひんやりと冷たかった。
「…あんた,最初手をつなぐの嫌がったよな」
「だって,小さい子とっていうか,誰かと手を繋ぐなんて初めての経験だったんスよ。でも一護サンがどうしてもっていうから」
自分の小さな手をすっぽりと包むつめたい手。
季節は冬で,寒いからこんなにつめたいのかと,辛くはないのかと気になった記憶がある。
あの時はこんな傷だらけではなかったけれど。
その日から少しずつ浦原と会話するようになった。
朝は自分と浦原二人分の朝食を病室へ運び一緒に食べる。
浦原はあまり食が進まない風だったけれど,一護が一緒だと何とか運んだ分は全て平らげた。
学校を終えて帰宅すると,制服を着替えて浦原の病室に向かう。
手には勉強道具と,本棚から引き抜いた文庫本。
退屈だから何か読むものがあったら貸してほしい,と云われて小遣で買いそろえた推理小説を渡した。
当時一護は中学三年生。年明けに高校受験を控えていたので放課後は浦原の病室で受験勉強に勤しんだ。
病室に備えづけられた簡易机で一護がテキストを開く間,浦原は文庫本のページを捲る。
夕食の準備ができたと連絡が来ると,一護はテキストを片付けて食事を運んで浦原と一緒に食べた。
浦原と話すのは楽しかった。
父親以外の口から聞く母の思い出は,懐かしくもあり,新鮮でもあった。
けれども浦原の酷い怪我の理由はいくら聞いても教えて貰えなかった。
「ちょっとしたトラブルに巻き込まれて」とだけしか。
気になるし知りたかったが自分の様なガキが首を突っ込める事情ではないのだ,と無理矢理自分を納得させていた。
それでも表情に不満が出るのはどうしようもなく,眉間に皺を寄せて口をへの字に結ぶ度に浦原に笑われた。
「なんで笑うんだよ」
「一護サンのその顔,凄く好きなんスよ」
そう云って低く喉を鳴らしながら一護の頭を撫でたり,眉間の皺に触れたりした。
人の不快気な顔が好きだなんて,どうかしてる。
一護がそう云うと「アタシに向けられる笑顔って大概がニセモノだから」と。
その言葉が意味することを暫く考えて,一護は首を傾げたまま「友達とか,いねえの」と尋ねた。
浦原はあっさり頷いてキミは?と一護に尋ね返した。
「俺もそんな多い方じゃねえけど」
「そういうのって数が多ければいいってものじゃないでしょ」
その通りだと思うので,一護も頷いた。
しかし自分には居ない,とはっきり云い放つ浦原にかける言葉はどれだけ探しても見つけることができなかった。
「アタシのことなら気にしないで」
「…そういうわけにいくかよ」
困った顔をする一護に浦原は包帯だらけの手を伸ばす。
「こんなにのんびりした時間を過ごすのも凄く久しぶりで,怪我をするのも悪くなかったなあって思ってるんスよ」
「何か所も骨折って,縫わなきゃなんないほどの切り傷作って,絶対に跡が残る刺し傷まで作ってかよ」
「やだなあ。一心サンてばそんなことまで一護サンに話したの」
眉を下げる浦原を一護は睨みつけた。
「あはは,怒られてる」
茶化したり揶揄したり,そんな口調ではなかった。そこに浮かぶのはまっさらな喜色。
何がそんなに嬉しいんだか一護には少しも理解できなかったが,浦原の嬉しそうな顔を見ると怒り続けるのが馬鹿馬鹿しくなってしまいため息と共に眉間の皺を解いた。
十二月も下旬に差し掛かり,縫合跡の抜糸も済ませ,トイレへ行くにも松葉杖が一本あれば大丈夫なところまで浦原は回復した。
肋骨を固定するギブスが取れればだいぶ楽になるんだけど,と一護が差し入れた五十センチの物差しを背中に差し入れ顰め面で背中を掻いた。
ギブスで固定されていない部分は週に三度,食後に一護が熱いお湯で濯いだタオルを届けて清拭をした。
背中など手の届かない部分は一護が手伝ってやることもあった。
白い膚に残された傷跡は新しいものばかりで,そのことに気付いた一護が口にすると「基本デスクワークだったんで」と答えがあった。
「それがなんでこんな大怪我する羽目になったんだ」
駄目で元々。そんなつもりで尋ねると,浦原は肩越しに振り返り「答えはもうわかってるでしょ」と淡く笑んだ瞳を一護に向けた。
「…嫌なヤツ」
「一護サンに嫌われるのは辛いなあ」
「だったらほんとのこと教えろ」
珍しく食い下がる一護に,浦原はふっと小さく息を吐くと前に向き直り,低く響く声で「世の中には知らない方がいいことってのもあるんスよ」と云った。
口調こそ普段の飄軽なものだったが,声は深く暗く沈んでいた。
一護が返す言葉を失っていると,「キミはアタシみたいな大人になっちゃ駄目っスよ」と続く。
説教臭い大人が口にするような文句だったが,反抗する気にはなれなかった。
酷く疲れて,悔いている。そんな声音だったから。
「…後悔してんのか」
「してないって云ったら嘘になるけど,今更時間を巻き戻すことができるわけじゃなし。現状でベストを尽くすだけっスよ」
うん,と頷いて,一護は浦原の背中を拭いたタオルを洗面器に戻すと,おっかなびっくり手を伸ばした。
ぼさぼさの淡い色の髪を梳くように,そっと指を潜らせる。
頭を撫でるというにはぎこちない仕草だったが,一護の意図を正しく汲んだ浦原は一瞬だけ身体を強張らせたがすぐに力を抜いた。
浦原の背がゆっくりと倒れてきて,一護の身体はベッドの背凭れと浦原の身体に挟まれる格好になった。
浦原のこめかみが頬の辺りに触れる。
鼻先を擽る髪からは僅かに煙草の匂いがした。
またコイツひとりで病室抜け出して煙草吸いやがったな。傷の治りが遅くなるから止めろっつってんのに。
とはいえ,一日の大半をこの部屋で一人きりで過ごしているのだ。気が塞ぐこともあるだろう。
そう思っていつもなら口にする小言を飲み込んだ。
ふわふわと心許ない手触りの髪を何度も梳きながら,「傷,早くよくなるといいな」と云うと「ギブスの下がかゆくて気が狂いそう」と焦れた声が返ってきて一護は思わず笑ってしまった。
その半月後,一月一日の元旦の午後,一護たち家族が初詣から帰宅すると浦原は煙のように姿を消していた。
その日の朝一人前のおせち料理と雑煮を取り分けて運んでやったとき「ちゃんとお年玉貰えました?」と聞かれたのが思い出された。
「おかげさんでな」と一護が頷くと「よかった」と笑みを孕んだ声で云って。
そう遠くないうちに浦原は出ていってしまうのかもしれない。
そんな予感がしたが確かめることはできなかった。
確かめたところで浦原は本当のことは云わないだろうことが想像ついたから。
父親は太いため息を吐いて一護に病室を片付けるように命じた。
逆らう気持ちにもなれなくて一護は黙々とベッドからシーツを引き剥がし,きちんと畳まれていた入院着と一緒に洗濯室へ運んだ。
ベッドサイドの書き物机の抽斗に,一護が貸した文庫本が残されていた。
ため息を吐いて手に取り,何の気なしにページを捲ると,白い紙片がひらりと滑り落ちた。
しゃがみ込んで拾うと,そこには右上がりの細い文字が並んでいた。
「いろいろとありがとうございました。浦原喜助」
宛名はなかったけれど,自分に向けられた言葉だとわかった。
一護はその紙片を本に挟み直すと,低く唸りながら立ち上がった。
「ちゃんと口で云ってけ,馬鹿」
無理を承知でそう呟いた。
鼻の奥がツン,とするのを感じ,思い切り眉間に皺を寄せる。
口を引き結ぶと勢いよく踵を返し,浦原の気配のない病室を後にした。
|
|