We Are The Nights
§・§・§
こぽこぽこぽ,とコーヒーメーカの立てる音を聞きながら欠伸を噛み殺していると耳が足音を拾った。
寄りかかっていた壁から身体を起こすと,上司である檜佐木が顔を覗かせ「サボってんじゃねーぞ」と笑みをはらんだ声で云う。
「サボってないっす。コーヒー淹れに来ただけで」
「署長に見つかんなよ。そんなことしてる暇があったら始末書さっさと仕上げろってドヤされっから」
ピー,とアラーム音がしてコーヒーの出来上がりを告げた。一護は棚からホルダーを三つ手に取り白いカップを載せると出来立てのコーヒーを手際良く注いだ。
「砂糖とミルクは」
「ミルク三つ」
「また胃の調子悪いんすか」
「出来の悪い部下のせいでな」
ため息混じりの声にバツが悪く口を噤むと「冗談だっつーの」と苦笑いの声が続いた。ミルクのポーションを三つ分ひとつのカップに注ぎ,マドラーでぐるぐるとかき混ぜてから檜佐木に手渡した。
「サンキュ」
受け取った檜佐木はカップに口をつけて一口啜ると「たまには飲み行くか。恋次の馬鹿も連れて」と誘いを受けた。躊躇いを顔に浮かべた一護に「たまには上司の有難い説教を粛々と聞きやがれ」と叱る声音で云われる。
「嫌とかじゃなくて…その,暇なときくらい早く帰らないと檜佐木さんの」
恋人が,と云いかけて口を噤む。上司である檜佐木に新しい恋人ができたらしいと相棒経由で聞いたのは三カ月前のこと。
その直後に殺人事件が起こり捜査本部が設立され,付き合い始めたばかりだというのに連絡もろくにとれなくなった為早くも破局の危機らしい,とこれまた相棒経由で聞いていた。
耳聡い相棒の仕入れてくる情報の為精度に疑いはなかったが,本人から聞いたわけではない。余計なお世話というか,下衆の勘ぐりと受け取られる可能性もある。今更ながら気づいて口を噤んだのだけれど,カップに口をつけたままじ,とこちらに視線を向けてきた檜佐木はコーヒーを啜りながら一護の脛に軽い蹴りを放ってきた。
「誰から聞いた」
「いや…その」
「白崎か」
イエスもノーも口にできないまま視線を彷徨わせているとやれやれ,とため息が聞こえて「今は一人だ」と低い声が。
「駄目だったんすか」
「駄目云うな。仕方ねえだろ。誕生日ぶっちぎったんだから」
眉間に刻まれた深い皺を見て,一護はかけるべき言葉を失った。こういうとき自分のコミュニケーション能力の低さを痛感する。口達者な相棒なら冗談めかしつつも適切な言葉をかけられるだろうに。
「お前がそんな顔すんな。今回はもった方だ」
ため息混じりの声音で云う檜佐木を見つめ,確かに前回の捜査本部が解散した後は飲みの誘いも断っていそいそと帰っていく姿をよく見かけたことを思い出した。それを目にしなくなったのはいつ頃だったか。記憶を辿ると俄かに顔が強張った。
「もしかして誕生日って,俺らが突入した日ですか」
「いや,その次の日だ」
捜査本部の意向を無視して独断専行した一護と相棒に重い処分が下らないよう上司である檜佐木があちこちに掛けあい奔走してくれたことは聞いていた。その合間には事件の後処理も山のようにあったはずで,その後三日ほど席に居るのを見かけないほどの多忙ぶりだったのを記憶している。
心から申し訳ない気持ちになり頭を下げた。
「すみません」
「謝る必要はねえ。独断専行は組織としちゃ問題有りだけどな,お前らはかならず功績上げるだろ。人質になってた子がインフルエンザに罹ってるって知って飛び込んだんだろ。保護された直後そのまま入院なったけどあと数時間でも遅れてたらやばかったって保護者からお前らに感謝するって連絡も入ってる」
それは事件の翌々日出頭を命じられた署長室で苦々しい顔をした署長から直々に云い渡されていた。
「だからといってお前たちの独断専行が許されると思うな」から始まる一時間にも及ぶ説教付きで。
「ま,そんなわけでたまには愚痴に付き合え。説教も聞け。相棒にも云っとけ」
そう言い残すとカップを手に檜佐木は給湯室を出て行った。
一護はこみ上げたため息を飲み込むと湯気を立てるカップ二つを手に給湯室を出て相棒が待つ第二小会議室へ向かった。
檜佐木には申し訳ないことをしたという意識はあるが,やはり自分の独断専行を悔やむ気持ちはなかった。
ジリジリと時間だけが過ぎていくあの膠着状態の中,本部の指示を待っていたら手遅れになる。誰しもがそう思ったはずだ。
咽び泣く母親の姿が脳裏に浮かんだ。
人質となった女児は風邪で寝込んでいた。
前夜から高熱が下がらないこともあり,朝一番で母親が小児科に診察券を出しに行った。
評判のよい小児科は診察券を出しても一時間以上待たされることもザラだ。高熱を出している娘を待合室で待たせるのも不安だったし,他の症状でやってきたよその子供に感染すわけにはいかない,という気持ちも働いた。
取り急ぎ診察券を出し,順番が近くなったら連絡をくれるよう受付に頼み,急いで自宅へ戻ったところ玄関のドアにチェーンが掛けられていた。
母親が家を空けたのはほんの十分足らずだった。
しかしそのほんの僅かな時間に脱法ドラッグ,危険ドラッグ等と呼ばれる違法薬物で酩酊した犯人が庭から侵入し,子供を人質に立て篭もったのだ。
110番通報を受けたのは午前十時過ぎ。
白崎や一護を含む空座警察署捜査課所属強行犯六係の四人は指示を受け現場に急行した。
近隣の交番からやってきた巡査が既に周囲の閉鎖を行い,機動隊への連絡も行われた。
ベランダに仁王立ちした犯人は左腕を女児の首へと巻きつけ大振りなハンティングナイフの刃を向けて支離滅裂な言葉を吐き散らした。
本庁の誘拐や人質立て篭り事件を専門に扱う特殊班捜査第一係から派遣されてきた初老の警部補が説得に当たり交渉を繰り返したが,薬物によって酩酊している犯人には通じる様子は見えなかった。
突入を,という声も上がったが薬物により酩酊している犯人が人質をどう扱うかわからない。
リスクは軽視できたものではなかった。
時間だけが過ぎていき,悲痛な母親の噎び声と犯人の喚き散らす声だけが響き渡る中,一護は相棒に肘で突かれそっと人の輪を抜けた。
「どこ行くつもりだ」
「コクトーに頼みごとしてあんの」
ふんふんふーんと鼻歌を歌いながら先を行く相棒についていくと,交通機動隊の制服であるバイクスーツに身を包んだ長身の男が先に見えた。
白崎がコクトーと呼んだのは警視庁交通機動隊の中でも空座町を含む二十三区外を担当する第三機動隊で班長を務める男だった。
「人を使いっ走りにするんじゃねえよ」
ヘルメット越しのくぐもった声がして,荷物が二つ投げて寄こされる。
四角い包みは白崎へ。
一護の方へは細長くずっしりとしたケース――警視庁特殊急襲部隊が使用する狙撃銃H&K社製PSG1だった。
「インフルエンザって死ぬこともあるんだろ?だったらボヤボヤしてらんねーじゃん」
白崎は受け取った包み――おそらく中身は特殊急襲部隊が使用する黒いアサルトスーツと思われる――を揺すりながら云った。
組織の一員としては同意が難しかったが,一人の警察官としてはその通りだと頷く気持ちが強い。
「お前ら始末書何枚溜めてんだ」
揶揄する口調でコクトーが云う。
白崎は笑いながら「五十三枚」と応じた。
「五十枚越えは本庁含めても断トツだとよ」
笑みを深くしたコクトーに白崎は肩を竦め,一護は低い声で「知ってる」と返し,受け取ったケースを肩へと担ぎなおした。
本部のやりとりはコクトーから流して貰うように頼み,一護は先を行く相棒の後を追った。
「あと一時間もすれば日が沈む。勝負はそこからだな」
白崎が云い,一護も頷いた。
そうして向かった先は現場から四百メートルほど流れた十階建ての単身者用のマンションだった。
ワンフロアに四部屋ずつ。敷地の広さから云ってゆったりとした作りらしいことが知れた。
白崎は勝手知ったる風にエントランスに脚を踏み入れると802号室のインターフォンを鳴らした。
マイクが繋がると「あー,オレオレ。三秒以内に開けねえと逮捕すんぞ」と冗談めかした口調で云った。
「誰んちだ」
「大麻栽培が大好きな大学生んち」
マイクからの応答はなかったが代わりに自動ドアのキーが解除される音がした。
鼻歌交じりでドアを潜る白崎に続いてエレベータで八階へ。
802号室のドアの前にはそろそろ真冬に差し掛かろうというのに白いタンクトップ一枚を着た若い男が立っていた。貧相な二の腕に大麻の葉を模したタトゥが彫り込まれている。
「な,何しに来たんだよ」
「お前んち借りに来た」
「へ,部屋に入れるわけねえだろ。不法侵入っていうんだぞ」
「お前に法律講釈垂れられる謂われはねえよ。落ちこぼれ法学部生」
おちょくる声で云えば男の顔が怒気に歪んだ。
しかし白崎は動じることなくドア――立ちすくむ男の脚のすぐ横――を靴底を叩き込むように蹴りつけた。
びく,と身体を竦ませた男の顔にずい,と自分の顔を寄せ「しょっぴかれたくねえだろ。入れろ」と迫った。
怒気に歪んでいた顔が泣きだす直前のように崩れるのは一瞬だった。
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら男がドアの前から退くと白崎はさっさとドアノブに手をかけ一護へと首をしゃくって見せた。
部屋の中に入るとまるで真夏のようなむっとした空気に包みこまれた。
広々としたリヴィングの床を埋め尽くすのはずらりと並んだプラスティック製のプランター。
間を通って部屋を横切る際に無意識に数えたプランターの数は全部で二十六。一つのプランターに三株の大麻が植えられていた。
しかし今はそれについて言及している暇はない。
バルコニーへと続く掃出窓を開け放ち,現場までの距離を大まかに測った。
バルコニーは十センチ間隔のアイアン製の柵で囲われていて床に横たわった姿勢での狙撃が可能だった。
「せめて窓は閉めてくれよ。気温二十五度以下になると質が落ちるんだよぉ…」
涙混じりの声がしたが,白崎が低い声で何かを云うとそのまま黙りこんだ。
白崎は男に一護の邪魔は絶対にするな,と云い含めるとそのまま部屋を出て行った。
ケースから取り出した狙撃銃を組み立て適切な位置にセットしていると,傍らに置いた携帯電話が振動して,耳に差し込んだイヤフォンにコクトーの声が響いた。
現場は依然として膠着状態との由。
狙撃班の手配も提案されたが現場が住宅地のど真ん中である為,広域に渡る閉鎖が難しいとのことで却下された。
港区の宝石店に強盗が,江東区の住宅で銃器を持った男の立てこもりが発生したとのことで特殊急襲部隊はそちらに出動してしまったとの経緯もあった。
派遣された特殊班員による説得は続いているが,男は新たな薬物を摂取したとかで錯乱状態というほどではないがやはり聞いている様子はないとのこと。
特殊班員の言葉を遮るように声を張り上げひたすら子供の殺し方について捲し立てているそうで,母親が恐慌状態に陥っているとの話もあった。
日没が迫り機動隊が運んできた投光機が設置されたが光に強い拒否反応を示す犯人の為使用を中止した。
必要な情報を伝え終えると「またなんかあったら連絡する」とだけ云って通話は切れた。
バックライトが消えた携帯電話を視界の端に左目でスコープを覗きこむ。
ベランダの柵越しに身を乗り出すようにして喚く男の姿が見える。
左腕に抱えられた子どもはぐったりとしていて泣いている様子も見られなかった。
時間があまりないことを察し,腹の底に重く冷たい塊が生まれるのを感じた。
傍らに置いた携帯電話が再度振動し,通話アイコンに指で触れると「へいへいそっちはどーよ?」と白崎の声がした。
「いつでも行ける。そっちは」
『配置にはついた。とりあえず人気のない玄関方向から侵入するわ。一護の方から見て右手側にもっさりした木があるっしょ。その木に隠れて階段の踊り場の窓から入る感じ』
一護の位置からその窓は確認できなかったが,了承した旨を返した。
通話は繋いだままにし,スコープ越しに現場の様子を注視した。
部屋の隅に立ちつくしている男が「な,なあ一体何があったわけ?」と尋ねてきたが左手をひらりと振っただけで黙殺した。
男は携帯電話でニュースを検索したらしく「立て篭もり?ちっちゃい子が人質になってんの?」と重ねて尋ねてくる。
一護が応えずにいると,「部屋貸したら俺も表彰とかされちゃう系?感謝状とか」とはしゃいた声で云う。
一護は一瞬スコープから目を離すと後ろへ視線をやり「頼むから黙ってろ」と低い声で命じた。男は自分の口を自分の掌で塞ぐような仕草をし,どこからか取り出したイヤフォンを携帯電話に差し込み,その場に座り込んで画面に見入った。
一護は再びスコープを覗きこみ,白崎からの連絡を待った。
『マスコミが邪魔くせえ。蹴散らしていいかな』
「バレる方が不味いだろ。コクトーに頼め」
『って頼む前に来たわ。相変わらず使えるヤツ』
くつくつ笑う白崎の声が途切れ「ほんじゃ行きますか」と静かな声が聞こえた。
一護は指をトリガーに掛けたまま角度を再度調整した。目標までの距離は四百メートル強。風の強さは気にするほどではない。
イヤフォンからいくつもの音が聞こえる。木の枝と葉ずれの音。専用の器具を使ってガラスを切る音。白崎の密かな息遣い。
『侵入成功』
数秒の間隔を空けて「目標確認。カウントファイブ」吐息ほどの声がする。
カウントは一護の役目だ。
五,四,三,二,一。
静かな声で数え,トリガーに掛けた指を引いた。
ザッ,と音がして,男の悲鳴が響いた。
スコープ越しに見える現場では男が人質である女児から手を離し右肩を抑えてのたうちまわっていた。
男の背後に位置するドアから飛び込んだ黒い影は床に倒れ込んだ女児を抱きかかえ「人質確保!」と一声を上げると周囲を取り囲んでいた警察官が一斉に建物になだれ込むのが見えた。
肩を押さえた男が立ち上がるのを見て,一護は装填した次弾を今度は男の左肩に向けて発射した。
もんどりを打つようにして男が倒れ,到着した複数の警察官たちによって身柄を押さえられた。
『流石オレの一護』
イヤフォンから聞こえる相棒の声に詰めていた息を吐き出し「撤収する」とだけ返した。
「たまの休みの日に呼びだすとか」
恋人に向けるのとは別人のような,低い声で毒づきながら浦原は愛車から降り,それを担いだまま階段を上った。
自宅から自転車で走ること三十分。派遣社員として登録している株式会社ヴァイザードサービスのオフィスは住まいと同じ鳴木市内のターミナル駅の裏手にあった。
基本給料明細に同封される翌月のシフト表に基づいて勤務先に出勤するという勤務形態の為,オフィスに顔を出すことはないのだけれど,時折こんな風に呼びだされる。
まあ,自分の方でもそれを希望しての契約なのだけれど,たった半日とはいえ折角のんびり恋人と過ごせるはずの時間をフイにされるとどうしたって恨み節になる。
自転車を担いだまま開けたドアを足で押し遣るようにして開いて潜ると応接用のソファにふんぞり返った平子が「おう,来よったな」と長閑な声で云ってひらひらと手を振っている。
浦原は無言で担いでいた愛車を下ろすと,そのソファの背を蹴りつけた。
「なんや,機嫌悪いな」
「せっかくの休みにいきなり呼び出されれば当然でショ」
はあ,とため息を吐いて顔にかかる髪を払う。
こちらを見上げる平子の顔に動じた様子はなく「勝手なやっちゃ」と呆れた声が聞こえるばかりだった。
観葉植物の鉢植えの横の壁に自転車を立て掛け,背負っていたメッセンジャーバッグを下ろすことなく着ていたゴアテックスのハードシェル・ジャケットのポケットに両手を突っ込むとそのままの姿勢で平子を見下ろした。
コーヒー飲むか,と聞かれたので不機嫌を露わにしたまま首を横に振り「それより仕事は」と云い放った。
平子は顎の一振りで会議室に入るように伝え,浦原は腰を上げた。
会議室に入るとテーブルの上にメッセンジャーバッグを下ろし,ジャケットを脱いだ。
下に着ていたのは七分袖のTシャツにコットン地のパーカだけだったが,ハードシェル・ジャケットは本来「雪山や氷壁を対象にした登山・山岳スキーを念頭に置いて作られているアウター」なので寒さは感じない。
多少の雨なら浸みることもないし値段は高かったがその機能には満足していた。
手袋とネックウォーマも外してからブラインドが下ろされた窓の方へと向かった。
古い映画に出て来る刑事のようにブラインドを指で押し下げて窓の外を覗くと,事務服姿の女が一人,小さな布製の手提げ鞄を手にのんびりと歩いているのが見えた。
平日の午後。他に人の姿はない。
何かが気になると云うわけでもなく,ただの暇つぶしだ。
ただ漫然と待っていたら,また平子に八つ当たりをしてしまう。
何はともあれ,仕事だ。意識を切り替えるべく深呼吸をひとつ。じわり,腹の底で何かが揺らめくのを感じた。
「ほい,お待ちどうさん」
ドアが開くと同時に平子の声がして,絹らしき薄手の布に包まれた箱のようなものを手に会議室へ入ってきた。
恭しくそれをテーブルの上にそれを置き,布の端を摘まんではらりと落とすと七宝細工に彩られた小箱が現れた。
一目で古いものと知れるが,汚れも欠けもなく大切にされていたことが伝わってくる。
箱の蓋はぴたりと閉じられ,本体部分に彫刻の施された鍵穴が,まるで浦原を誘惑するように佇んでいた。
「コレだけ?」
「そや。大物やったらこんな昼間に声かけんやろ」
「……別に今日じゃなくてもよかったんじゃ」
「こないだの夜のヤツが手ごたえなさすぎてブーブー文句云うとったんはお前やろ。せやからわざわざ声かけたっちゅーに」
ほんま勝手なヤツや,とぼやいてから「終わったら声かけぇ」と云ってさっさと部屋を出て行った。
仕事をしてる横や後ろをうろちょろされるのを浦原が嫌っているのを知っているからだった。
ドアが閉じると,浦原は小さく息を吐いてテーブルの上に放り出してあったメッセンジャーバッグの蓋を開き,中から黒い布製のツールバッグを取り出した。
ファスナーを開けると薄手のシリコン製の手袋と,十数種類華奢な金属製の工具が覗く。
一般的には特殊解錠工具と呼ばれるそれは,市販品ではなく浦原が自分で作製し工夫を加えたものだった。
この国には「特殊開錠用具の所持の禁止等に関する法律」というのがあって,この手の道具を専門職以外の人間が所持することは禁止されている。
専門職というのは鍵屋業やロードサービス業などを指す。特に開業の際に認可の必要な業種ではないが,まったく無関係の例えば浦原のような派遣社員がこのような道具を持ち歩いているところを警察に見つかればあっという間に両手が後ろに回る。
実際に見つかったことはないのでほんとうにあっという間かどうかはわからないけれど。
両手に手袋を嵌め,指を曲げ伸ばしして馴染ませた後,先端が鋸刃のようになった器具とピンテンションと呼ばれる極細の金属棒を手に取った。
頭の中から思考が消えて行き,目の前の箱と手に持った工具だけに意識が集中して行く。
椅子に浅く腰をおろし,呼吸をひとつ。
工具を鍵穴に差し込み,集中が増していくごとに呼吸数が落ちて行く。
工具が触れる鍵内部の凹凸が脳裏に浮かび上がる。
どこに圧力をかけ,どこに工具を引っ掛ければ開くのか。
考えるよりも感じる。言葉がかたちを為す前に手が動く。
一秒が何倍にも引き延ばされる感覚。酒や薬からでは得ることのできない興奮。陶酔。
しかし残念ながら目の間の小箱は芸術品のような素晴らしい出来だけれど,鍵の方はおまけのような存在だった。
三分もかからず呆気なく鍵は開いてしまい,浦原は小さく息を吐くと箱の上に薄布をひらりとかけ,工具をツールバッグにしまってメッセンジャーバッグに放りこむと手袋をはずしながら会議室を出た。
オフィスに平子の姿はなく,給湯室から物音がした。
浦原が会議室から出てきたのに気づいたらしく「なんやもう終わったんか」と声がした。
浦原は返事をしないままソファに腰を下ろした。
メッセンジャーバッグを隣に放り出し壁の時計を見るとここへとやってきてからまだ十分も経っていなかった。
今からもう一度家に戻っても,五時前にはまた出勤しなければならない。
一緒に過ごせる時間は一時間に満たない。あーもう。
ため息を吐いても気分は少しも晴れなかった。
「なんや凝った造りしとったからもっと手間ァかかるもんやと思っとったがあっちゅー間やったな」
「箱の方はかなりよいものっぽかったけど,鍵はオマケみたいなもんスよ,アレ」
「中見たか」
わざわざ豆を挽いて淹れたらしいコーヒーを手に戻ってきた平子が,片方のカップを差し出しながら尋ねるのに浦原は小さく鼻を鳴らした。
「興味ないっスもん」
「相変わらずやな」
苦笑しながら平子が向かいのソファに腰を下ろす。
淡いグレイの細身のスーツ。窮屈そうに見えるけど平子はいつもこのタイプを好んで着ている。
ネクタイは紺とも紫ともつかない地に白や淡いブルーや黄色のランダムドットが散っていてまるでスパンコールでも塗したかのような奇抜なもの。
靴は先端が尖っていてまるで悪い魔法使いのようだ。
年齢はほとんど浦原と変わらない。平子の方がひとつふたつ上だったか。兎も角不惑は過ぎているにもかかわらず,この出で立ちだ。
「平子サンそのネクタイ目がチカチカするんスけど」
「イタリア製やで」
「そうなの?アタシはてっきり錦糸町とかアメ横で買ったのかと思った」
浦原の嫌みにも動じることなく平子はネクタイ自慢を始めた。
出勤時刻まで他に暇つぶしの方法もないので浦原は仕方なくそれにつきあった。
欠伸混じりに。まったく興味がなさそうに。
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