EVERLIGHT





§・§・§



粘性のある生温い液体の満たされたプールに沈んでいる,そんな眠りだった。
身体が少しずつ浮かび上がっていくように意識が覚醒していく。
引き止められる感覚。
目覚めない方がいい。何かがそう警告されているような。
最悪とまではいかないが,どことなく居心地が悪いような,そんな目覚め。

どこだ,ここ。
閉じていた瞼を開いて,ぼんやりとした頭に浮かんだ最初の言葉がそれだった。
夜目が効くのは体質で,ほとんど真っ暗とも云える中でも見える天井にはまったく見覚えがなかった。

そしてぬくもり。
背中から文字通りすっぽりと包み込むのは毛布ではなく――人の腕。体温。
左側を下にして横向きで眠ったせいで左肩が鈍く痺れている。
一瞬そっちに逸れた意識が,むき出しの項に触れる他人の呼気を感じ取ったせいで現状把握を急がせた。
どこだ,ここ。誰だ,これ。

寝返りを打って確かめるべきだ。
頭ではわかっているが,脳裏にくっきりと「失敗」の二文字が浮かび,切れかけの電球が仕込まれでもしているかのように点滅している。
最悪な気分だった。

そのとき,脇腹から胸の前へと回された腕がぴくりと震え,ぎゅっとしがみ付かれるように力が篭められた。
反射的に身体を強張らせると,今更ながら――本当に今更我ながら,自分が全裸であることに気づいた。

やっちまった。
「失敗」の文字が乱舞する脳内に「後悔」の文字が混ざる。
煩い,と顔を顰めても消えてはくれない。
項の辺りで人の唸る気配。背中にぴたりと寄り添う体温にやわらかな感触はない。
自分と変わらない平べったい胸板。
よりによって男かよ。
がっくりと項垂れたい心地になった。
「失敗」と「後悔」の文字がぐるぐると乱舞する脳内から目を逸らすように閉じていた目を開け深いため息を飲み込んだ。

すると,これ以上ないほど強張った首筋にやわらかなものが触れ「ちゅ」と小さく吸い付かれた。
条件反射で身を引こうとすると身体に回された腕に力が篭り呆気なく身体を転がされた。
仰向けに転がされた身体の上に重みがかかり,背後から自分を抱きすくめていた相手の顔が見えた。

「オハヨウゴザイマス」

低く掠れた声。聞き覚えはない。
肉付きの薄い頬にも,顔に零れ落ちる淡い色の髪にも,その向こうからじ,と見つめてくる深い色の瞳にも,見覚えはなかった。
どこからどう見ても気まずい顔をしているのは明らかだろうに,一護に圧し掛かる男はまったく気にならない風で一護の顔のすぐ脇に肘をついて身体を支えたまま一瞬顔を背けるように一護の裸の肩に額を押し付けると「くあああ」と至極気持ちよさそうに欠伸を放った。

「あんた,誰だ」

この状態で今更何を取り繕おうと云うのか。そんな捨て鉢な気持ちで一護はそう尋ねた。
肩に押し付けられた額が浮き,間近から顔を覗きこまれる。
普段からあまり慌てる方ではなかったが,流石にこんなのは久しぶりすぎて若干混乱している感は否めない。
――そう,情けないことにまったくの初めてではなかった。

男はぴたりと重なった下肢を動かし,一護の脚に自分の脚を絡めた。
太腿の辺りにシーツとも毛布とも違う布地の感触。それは膝を通り過ぎて足首の辺りまで続いている。
ということは,自分は全裸だったが相手は半裸ということになる。

「覚えてないんだ?」

掠れた声には揶揄するような響きがあった。微かに笑っている。

「覚えてないから聞いてる」
「全然?」
「全然」
「まあ,アレだけ酔っ払ってたら当然か」

納得するような声音でひとりごちたが,一護の問いへの答えはなかった。

昨日は。
夕方急遽持ち込まれた仕事がなかなか厄介なシロモノで,片付けるのに普段の倍の時間がかかった。
馴染みの筋からの依頼だから覚悟の上だったが,全て片づけを終えると時刻は二十二時に近く,流石にもう一件片付ける気にはなれずそのまま職場を後にした。
愛車に跨り街燈の間遠な人通りのほとんどない道を走って三十分。
自宅でシャワーを浴びて,服を着替えて外に出た。
呼んであったタクシーで駅前まで出て,飲み屋街の外れにある一軒のバーへしけこんだ。
知人がオーナを務めるその店は一護の行きつけで,ほぼ指定席となっているカウンタの右端のスツールに尻を引っ掛けるように座るとカウンタに立つ従業員は慣れた仕草で一護の前にコルク製のコースタを置いた。
お通し代わりに出されたやわらかく野菜の煮込まれたスープを口にした後は,只管酒を飲み続けた。
ずぼんの尻ポケットに突っ込んできた文庫本を開いて,綴られた活字を肴に。
何杯飲んだのか記憶はない。どれくらいの時間そこに居たのかもおぼろげだった。
シャツの胸ポケットからマネ・クリップで留めた紙幣を取り出したところはなんとなく覚えている。
五千円札を二枚。
するとカウンタに立つ従業員がそれを受け取り,呼んでくれたタクシーに自分を押し込んでくれるはずだった。

一護は二十年来の頑固な不眠症持ちで,寝つきが悪い上に眠りが酷く浅い。
概ね毎日日付が変わるくらいまで職場に居るか,昨日と同じように少し早めに引き上げたときはこの店にやってきて飲んだくれる。
活字を肴に只管酒を飲み続け,意識が朦朧としたところでタクシーで家に帰る。
顔馴染みの従業員は慣れたものなので,親戚だという個人タクシーの運転手に電話をかけ,それに一護を押し込んでくれる。
二枚渡した五千円札のうち一枚は運転手へと渡され,もう一枚は世話をかける従業員へのチップ代わりだった。
酒代についてはオーナから不要と云われている。
最初の頃はそれでも無理矢理渡していたのだけれど,そうすると昼休みを狙って職場まで返しに押しかけられるので世話をかける従業員へのチップにすることにしたのだ。
オーナの教育の賜物なのか従業員も最初は頑なに固辞していたが,受け取ってもらうことで気ままに飲むことができるから,と一護が云うと困った風に笑って「黒崎さんはきれいな飲み方されるから迷惑なんて少しもないですよ」と云ってから,それでも受け取ってくれた。
安心して,というのは言い過ぎかもしれないが,気が緩んでいたのは事実。
しかし絡んで来ようとする鬱陶しい客はそれとなく従業員が追い払ってくれるし,気ままに飲めるのが気に入ってあの店に通っていたのに,一体なんでこんなことに…。

「そろそろいい?」

男の声に,伏せていた目を上げた。
いいって何が。
眉間に皺を寄せたまま尋ねるように見上げると,答える代わりにぴたりと重なった下肢が押し付けられるような動きをした。
薄い布地越しに微かに芯を帯びた硬さを感じ,一護は顔を顰めた。

すると眉間に刻んだ深い皺に男の唇が押し当てられた。止めろ,と口を開きかけた一護を制する様に男が囁く。

「寝入ってるところを襲うのは一応我慢したんスよ。ほんとに大変だったんだから」

ため息混じりの声音。
大変って何がだよ。そう尋ねたかったが,藪をつついて蛇を出すような気がしたので躊躇った。
そんな一護の表情を読んだのか,男が口の端を引き上げる。

「ここまで連れてきてベッドに誘おうとしたら『風呂に入らずベッドに入るのは嫌だ』って。泥酔状態でお風呂に入るなんて自殺行為だから止めておいた方がって止めたんスけど,だったら床で寝るってほんとに転がっちゃうもんだから仕方ない,バスルームまで運んで,バスタブに温いお湯張って。頭も身体も洗ってあげたの覚えてない?」

眉間の皺はそのままに,一護は唇を引き結んだ。
記憶はないが,心当たりはある。
風呂に入らずにベッドには入れない。それは本当だった。
普段もタクシーで自宅まで帰るとそのままソファへ倒れ込むか,服を脱いでる途中で寝オチて脱衣場の床で朝を迎えることになるかが半々だった。

「…水が飲みたい」

誤魔化すようにそう口にした。すると飲んだ翌朝特有の口の中の粘っこい感覚が自覚され,気持ち悪さを覚えた。
男はやれやれ,と云う風にため息を吐くと,ベッドサイドに置かれたミネラルウォータのボトルを取ってくれた。
一護が身体を起こそうと身動ぎすると邪魔にならない側に寝返りを打った。
のろのろと身体を起こし,ボトルのキャップを捻じ切って常温の水を口に含む。
ほとんど一息にボトルの半分を飲み干すと,深い息が漏れた。
身体の中で燻っていた眠気の残滓が洗い流されるような心地。けれども同時に居た堪れない現状までもがくっきりと自覚され,一護はどうしたものか途方に暮れた。
ちらり,視線を向けると男の手が伸び一護の手からボトルを浚って行った。
そして当たり前のように腕を引かれ,再び組み敷かれてしまう。

殴りつけて止めることはできたが,ここまでついてきたのは他ならない自分で。
その上風呂に入れろだのなんだのと世話をかけまくったのも事実で。
そんなことを考えているうちに,唇を塞がれていた。

「あんまり気乗りしなさそうっスね」

どことなく楽しげに響く声で男が云う。

「正直,皆無なんだけど」
「じゃあ,付き合って」

男は不快にならない強引さで一護に迫る。
仕方がない,と諦めにじわじわと侵食されていく心地がした。
自業自得だ。これに懲りたら馬鹿みたいな飲み方はしないことだ。
分別臭く説教を垂れるのは他ならない自分の声で,一護はそれを追い遣ることもできず諦めの境地に達した。

reset.