HOPE
§・§・§
朝五時半。
目覚まし時計をかけていずとも,毎朝だいたい決まった時間に目が覚める。
そのことにどことなく虚しさを感じながら,浦原は欠伸の代わりにため息を零した。
二月の上旬というとこの時間まだ外は暗い。手探りでベッドサイドのチェストの上に置いた煙草を引き寄せる。
身体を起こし,足元で丸まっていたショールを広げて羽織りながら部屋の窓を開け放つ。
元から余韻などなかったが,それでも眠気の残滓のようなものが冷たい空気に晒されることで一瞬で霧散する。
ゆっくり二度ほど煙草を吸いつけ,それから部屋の中へ戻った。
今日は雪になると天気予報では云っていたらしいが,まだ降りだしていないようだ。
それでも,午前中のうちに納品予定分の発送を済ませておいた方がいいかもしれない。
一応水濡れ対策の梱包はしているけれど,それでもリスクを減らすに越したことはない。
咥え煙草のまま部屋を出て明かりを点さない暗い廊下を歩く。
東京都内,二十三区のはずれの庭付き一軒家。それが浦原の住まいだった。
こじんまりとした洋館と建物よりも広さのある庭と。
祖母と呼んでいたが,実際には母方祖母の兄の後妻にあたる人から受け継いで,そろそろ五年が経とうとしている。
一階には庭に面したキッチンとダイニング,その隣に居間,そして書斎が。
二階には祖父母の寝室と浦原の部屋,そして客間がひとつ。
祖母の亡くなった現在も,浦原は嘗ての自室で寝起きして,祖母の寝室は家具もそのままに仕事で必要なときだけ使わせてもらっている。
訪ねてくる人も居なくなった為,嘗ての客間は仕事用の資材置き場になっている。
仕事をするのは大概がダイニング。六人がゆったりと座れるテーブルは作業台にもってこいだった。
居間のソファで仕事をすることもある。
家の掃除と庭の手入れは祖母が懇意にしていたひとたちにそのまま継続して来て貰っているため,自分の身の回りのことだけすればよい。
日々満員電車に揺られ通勤している同世代の人間からしたら怒られそうなほどのんびりと暮らしている。
階段の踊り場にある明り取りの窓から庭の向こうの通りに立つ街燈の白々した明かりが見えるのに目を細め,煙草を煙を吐き出した。
掃除や庭の手入れは人任せにしているが,食事の支度は自分でする。
真っ暗なダイニングを横切り,キッチンへ。手元灯だけ点した薄暗いキッチンの窓辺に置かれた陶器の灰皿で短くなった煙草を揉み消し,冷たい水で手を洗い,口を濯ぐ。
そして流し台の上の釣り戸棚から土鍋を取り出し米びつから米を一合そこへ移す。
丁寧に米を洗い,濯いだ後加減した水につけておく。
ガスコンロの上に土鍋を置いて,キッチンを後にする。
洗面所で顔を洗い,新しく咥えた煙草に火を点しながら庭へ。
届いていた新聞をピックアップし,やっと灯りを点したダイニングでテーブルの上に広げて目を通す。
好きで購読しているわけではないが,更新のたびに「あと一年,一ヶ月でもいいんで」と押し切られてしまう。
届くのならば読まずに捨てるのももったいない。そんな理由で毎朝の習慣となっていた。
世間の出来事に興味はない。ただ目を通すだけだ。唯一天気予報だけは別でしっかり目を通すことにしていた。
新聞に目を通し終えると頃合なのでキッチンへ戻り土鍋を火にかける。
蓋をしてまずは強火に。静まり返った部屋の中に,ことことと小さな音が響くのを聞きつつのんびり煙草を燻らせていると音が変わる。
それを待って一度だけ木製のしゃもじで掻き混ぜる。
そして蓋を少しずらして火を弱める。
あとは大体三十分から四十分ほど炊けば完成だった。
朝食に粥を炊くのは祖母の習慣だった。
浦原がこの家に住むようになったとき,既にその夫である祖母の兄は鬼籍に入っていた。
祖母は夫の後を継ぎ中規模な商社の代表取締役の任に就いていて日々忙しく過ごしていた。
それでも,朝食だけは毎朝一緒に摂ると決めていて粥の炊き方を浦原にも教えてくれた。
祖母が亡くなった後は,朝に土鍋一杯の粥を炊き,それを朝昼夜と食べて過ごすようになった。
粥を炊く以外の料理はしない。
あちこちから取り寄せたり知人から土産に貰ったりする佃煮や漬物を添えて食べる。
ビタミン不足はサプリメントで補っていることもあって,特に健康に不安を感じることもない。
鍋の火をとろ火まで落とし,キッチンを出ると薄明るくなってきた庭を横切りこちらへやってくる人影が目に入った。
庭へと続くポーチの扉をガタガタ鳴らしながら勝手知ったる風に上がりこんできた男に,浦原は顔を顰めた。
「来るなら来るって連絡してって云ってるじゃないスか」
「お前電話したって出ねえじゃん」
呆れた声で云って「もうできんの?」と尋ねたのは白崎と云い,自称「浦原の友人」だった。
白崎の祖母と浦原の祖母が学生時代の先輩後輩の間柄だとかで親しく行き来していてこの家にも何度も来たことがあるらしいが,浦原は挨拶をした後は自室に引っ込んでいたので言葉を交わした記憶もほとんどない。
しかし白崎の方は祖父母に懐いてしょっちゅう出入りをしていたこともあり,浦原の祖母にも可愛がられていたらしい。
祖母の葬儀の場で初めて顔を合わせた浦原に「うちの孫にはトモダチがいないから,自分が死んだら仲良くしてやってくれっておばさんが。遺言ってやつ」と言い放つや否や「自称友人」の座に居座ってしまった。
大学を卒業し北欧の雑貨を輸入し販売する会社に就職すると,この家からタクシーでメータ二つ分ほどのマンションで一人暮らしを始め,気が向くと朝早くから浦原の炊く粥を食べに来るようになった。
最初の方こそ鬱陶しがって来るたび嫌味のひとつも零していたが,暖簾に腕押し柳に風といった具合に少しも動じる風が見えないのと,出張先の土産だとかで美味しい佃煮や珍味の類を土産に貰うことも増えたこともあって,そのうち浦原の方が慣れてしまった。
三年前からは白崎が編集長を務める雑貨雑誌に連載のページを貰っていることもあり,粥の一杯くらいはまあいいか,と思うようになっている。
数年前の自分からしたら,信じられない変化だ。
「ありがとう」「ごちそうさまでした」「美味しかったよ」何人もからかけられる声に不器用な笑顔を返し,最後のひとりを見送った一護は思わずため息を吐きながら,近くの壁に寄りかかった。
「お疲れさん」
そう云って笑うのは,学生時代からの友人である白崎で,一護はやっと素のままの笑顔を向けることができた。
「サンキューな」
「そりゃこっちの台詞。みんな一護の料理こぞって褒めてたぜ」
褒め言葉は半分に,苦言は倍に受け止めろ,とどこかで読んだ文句が脳裏を過ぎる。
けれどそれを向こうへ押し遣ると「よかった」としみじみとした声が出た。
「一護,すげー緊張してただろ」
低く喉を鳴らす白崎をじろりと睨み「緊張するに決まってんだろ。初仕事がこんな大仕事になるなんて誰が思うか」と云うと「そう云うと思って云わなかったんだよ。結果良い方に転んだだろ?」と返って来た。
伊達に十五年の付き合いじゃないってか。
やれやれ,と肩を竦めたが,確かに白崎の云う通りかもしれない。
今日白崎が招いていたのは,一護ですらその名を知る有名なファッション誌の編集長が三人。スタッフを何人も抱えるデザイン事務所の所長,他にも一護の今後に大きく寄与してくれそうな立場にある人たちばかりだった。
白崎が顔が広いのは知っていたけれど「仲間内のざっくばらんなパーティ」と聞いていたので名刺を受け取るたびに目を白黒させる羽目になった。
「ンなこと云ったって本番に強いのが一護じゃん。今日だって誰と喋ってるとこ見ても堂々としたもんだったぜ」
「そりゃ紹介してもらったお前の手前,びくびくしてらんねえだろ」
大学を出て七年。そのうち五年を複数の料理店で,残り二年をフードスタイリストのアシスタントとして過ごした。
フードスタイリストの仕事というのは,料理人の作った料理を見栄えよく,もっというなら写りよく盛り付ける仕事だ。
料理の盛り付けだけでなく食器選びからテーブルデザインまで手がける作業は多岐に渡る。
修行していた料理店の常連だった師匠に引き抜かれた格好だったが,その仕事を近くで見ているうちにどうしても「人の口には入る料理を手がけたい」という思いが強くなって行った。
師匠は自分の抱える人脈ごといずれは一護に,と考えてくれていたらしく一護の独立を心から惜しんでくれた。
それでも最後には「あたしがぶらっと遊びに行ったら美味しいの食べさせなさよね。日本酒もいいの置いておくのよ」と云って盛り付けに使いよい菜ばしや買い替え予定の親戚が居たとかで古いワンボックスタイプの車まで融通してくれた。
「あ,一護乱菊さんがコメント寄越してんぞ」
白崎の手元を覗き込むと,スマートフォンには写真を共有するSNSのアプリケーションが立ち上がっていた。
料理の写真に添えられたキャプションは「親友の門出に,乾杯!」と記されている。
そのすぐ下に一時間ほど前のタイムスタンプで「なんでアタシを呼ばないのよ!今度会ったら折檻だからね白崎!」と怒った顔の絵文字付のコメントが寄せられていた。
師匠である乱菊の変わらない様子に苦笑を零しながら,白崎の記したキャプションの言葉がじんわりと胸に滲みるのを感じた。
ありがとうなどと改めて云おうものなら「水臭い!親友だろ!」と喚かれるのが必至なので言葉にはできないが,それでもいつか,何かの形で返したい。そう思った。
身体を起こし,「んじゃ片付けっか」と口にした瞬間,作業用に借りていた上のスペースに客をひとり放置しているのに気が付いた。
「あ,シロ。上の人はいいのか」
「上?あー,浦原か。アイツなら食い終わったら勝手に帰るからへーき」
「でも,あの人だってお客なんだろ」
「アイツはただのダチだよ。今日は一護の料理自慢したかったから呼んだだけ」
笑いながら云ってのけた白崎は「片付け,俺も手伝うよ」と先に立って歩き出した。
いくら白崎の友人とはいえ,自分にとっては大切なお客だ。
締めにと小さく握ったちりめん山椒のおにぎりと海苔の吸い物を運んだときまでは覚えていたのに,その後,幾人もから料理についてやケータリング,弁当の注文方法や連絡先などについて尋ねられているうちにすっかり失念してしまった。
悪いことをしてしまった,と反省仕切りで上の部屋へ戻ると,白崎が云ったとおり既に帰ってしまった後だった。
食器は重ねて流し台に運んであった。コンタクトがずれたせいで涙が出てしまったというその人に貸した洗い晒しの布巾は,一護が料理を詰めたタッパーを持ち込むのに使った風呂敷たちと一緒にきちんと畳んで置かれていた。
その上に手帳を切り取ったらしい一枚の紙片が載っているのに気づき,一護は身を乗り出してそれを手に取った。
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
書かれていたのはそれだけだった。
それでも,怒って帰ってしまったのではないのだ,というのがわかってほっとした。
紙片を丁寧に半分に畳み,エプロンのポケットにしまう。
タッパーの類は持ち帰ってから洗うことにして,布巾の下に置かれていた風呂敷をテーブルの上に広げた。
全部で八つあるタッパーをまずは三個重ねて風呂敷で包む。
摘んだ端を結ぼうとして思わず手を留めた。
一護が使っているのは紺色の無地の風呂敷だ。それなのに,なにか色が目に付いた。
掴んでいた布端から手を離すと,そこには鮮やかな花が咲いていた。
西洋向日葵。脳裏に浮かんだのかかの有名なゴッホの「ひまわり」だった。
「シロ,あの人ってもしかしてアレか。前にお前の雑誌の表紙のやつ作ってた…」
「そうだけど,なんで」
話したことあったっけ?と流し台に置かれた鍋を洗っていた白崎が振り返ったので,一護は風呂敷の端を摘んで見せた。
「アイツも暇だな」
「ってお前,いいのかよコレ!プロの刺繍だろ?こんな風呂敷にとか勿体ねえにもほどがあるだろ」
布端を摘んだまま途方に暮れる一護に,濡れた手を布巾で拭きながらやってきた白崎はテーブルに置かれたほかの二枚の風呂敷を広げ「こっちのにもやってあんな」と笑いながら一護へ見せた。
左手の風呂敷には黄色と黒のだんだら模様が鮮やかな小鳥が。右手の風呂敷には白梅の刺繍が施されている。
白崎が手がける雑誌は創刊号から愛読していて,毎号表紙を飾る刺繍の美しさは素人である一護の目にも鮮やかだった。
雑誌には「紅姫」という名前しか記されていず,どんな人なのだろうと白崎に尋ねたところ本人が運営しているというwebショップのアドレスを教えてもらった。
といっても販売が行われるのは不定期で,販売開始になるや否やあっと云う間に売切れてしまうためいつも眺めるだけで終わってしまっていた。
店の名前にもなっている「翡翠」という名の鳥の刺繍を小さな額に収めたシリーズが一番の気に入りで,いつか手に入れられたらと思っていたのに,こんな普段使いも甚だしい風呂敷にだなんて。
風呂敷新調するか。でもこのサイズってなかなかねえんだよなあ。
一護が艶やかな糸で縫い取られた向日葵を見つめてそんなことを考えていると「一護一護,こっちの鳥はヒワって云うらしいぞ」と白崎が手に持った風呂敷を小さく振った。
「ヒワ?初めて聞いたな」
調べたのか?と尋ねると「いや,本人がそう云ってる」と手に持った携帯を一護の方へと向けた。
近づいて覗き込むと,メールの画面が開いていて「この鳥なに」と引用された下に「真鶸」とだけ記されていた。
「この字でヒワって読むのか」
「マヒワじゃね?ちと待って聞いてみる」
まひわ?とだけ記したメールが送信された後,数秒置いて返信が届いた。
開かれた画面には「そう。雀の親戚」と書かれていた。
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