In Your Poket
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「でかいな」
火のついていない煙草を咥え,両手をポケットに突っ込んだまま一護は目の前に聳える大きな柳の木を見上げていた。
傍らに建つ煤けた雑居ビルの三階の窓まで届きそうな大きな柳だった。
すっかり暗くなった路地を十二月の風が吹きぬける。
頬を冷たい掌で撫でられたような心地に微かに眉間にしわを寄せ,オレンジ色の街燈の明かりに照らされた柳を見上げていた。
別に,柳を見に来たわけではなかった。
今日は至極穏当で順調な一日だったのだ。さしたるトラブルもなく仕事を終え,帰り支度をしているときにデスクの抽斗に入れっぱなしだった小さなカードに目が止まった。
白いつるりとした紙片に,淡いグレイの細身のフォントで「酒」と「飯」と記され,くすんだ金色の鍵が箔押しされている。
cafeと記された横にはキリル文字だっただろうか。ロシア語のアルファベットが並んでいた。
そして左下には店の住所と電話番号が。裏返すと簡略化された店までの地図が記されていた。
一護は大学を出て二年ほど大学病院に勤務していたが,今は都内に本社を構えるそこそこ大きな企業に併設された医務室に勤務していた。
就業中に具合の悪くなった社員の診察と健康に不安を覚える社員のケアが主な業務で,あとは産業医として安全衛生委員会への出席や健康診断の受診状況の管理などをしている。
仕事はさして忙しくないが,矢鱈と構いたがりの社の上層部の面々が暇さえあるとやってきて,昼食や仕事後の知人達との会食の場へ一護を引っ張り出そうとするのにはほとほと閉口していた。
聞いたところによれば,社長を含めた役員有志で二十八にもなって浮いた話のひとつもない一護の結婚式での仲人役を誰が射止めるかと賭けが行われているらしい。
美味い酒と食事にありつけるのは歓迎するところだけれど,その都度同席した初対面の女性相手に気を遣い傷つけないよう婉曲に断らねばならないのは正直面倒くさかった。
なので最近では三度に二度は断るようにしていた。
あれは,梅雨が明けたばかりの頃のこと。
昼休みまであと三十分,というところで診察や業務の補佐をしてくれている松本から「黒崎先生,内線です。十四階から」と声をかけられた。
十四階は専務及び常務,そして非常勤の役員達の執務室があるフロアで,無意識に顔を顰めた一護に松本は豊かな胸元を支えるように腕組みをすると同情するような笑みを向けてきた。
やれやれ,とため息を吐いてデスクの傍らに置かれた電話機から受話器を取り上げ,点滅している釦を押した。
かけてきたのは常務の秘書で,案の定昼食の誘いだった。
低くやわらかな秘書の声を聞き流しながら指を折って常務の誘いを断った回数をカウントする。
連絡を受けたのは今週四度目。普段なら三度に一度は応じるようにしていたが,三度目の前回には正真正銘急用が生じてしまい,事情を話して辞退したのだった。
仕方がない。夜に連れ出されるよりはマシか。
ため息を噛み殺して十分後に地下駐車場へ降りるようにと告げた秘書に応諾し,受話器を元に戻した。
「乱菊さん,午後の診療二時からでお願いします」
「諒解です。美味しいランチ,羨ましいなあ」
「じゃあ俺の代わりに行ってくれますか」
「やぁだセンセ。あたしじゃ役不足って門前払いされちゃいますよ」
くすくす笑う松本の左手の薬指には華奢な指輪が嵌っている。
松本は女性社員たちの中に途方もないネットワークを持っていて,あまり一般社員とは馴染みのない役員付きの秘書達との交流も盛んだった。
仲人争奪戦が繰り広げられていると一護に教えてくれたのも松本で,つまり既に既婚者である自分は役員達のお遊びにターゲットにはなりえない,と云っているのだった。
一護がため息を吐くと,丁寧にマスカラの塗られた長い睫毛をゆっくりと上下させるように片目を瞑り「じゃ,あたしは先にお昼行かせていただきます」とひらりと手を振り診察室を出て行った。
再び込み上げたため息を噛み殺し,一護も重たい腰を上げた。
壁際のロッカーの扉を開け,鏡でネクタイの歪みをチェックし,ワイシャツの上に上着を羽織る。
携帯電話と財布をポケットに仕舞うと,診察室の扉に施錠しエレベータホールへ向かった。
幸いなことにその日同席したのは一護を呼び出した常務と,その懐刀を噂される研究部門のトップの二人だった。
研究部門は一護が勤務する本社ではなく,都内でも二十三区をはずれた郊外に専門の施設があるため,一護が顔を合わせるのは初めてだった。
常務の紹介に寄れば,研究室長の肩書きを持つその人は常務と同じ大学の後輩に当たり,しかし優秀さでは比較にならない才媛なのだという。
数年前に他社より常務が直々にヘッドハンティングし,以後あっという間に頭角を現し室長まで上り詰めたとのことだった。
常務の大仰な口ぶりは今に始まったことではないので話半分以下に聞き流していたが,研究室を率いる女性室長が優秀だというのは他からも聞き及んでいた。
噂を聞いた限りではもっとギスギスしたイメージだったが,一護の前に佇むそのひとは,淡い色の髪を緩やかに波立たせフレームレスの眼鏡の向こうで目を伏せていたが一護と視線が合うとほんの少し微笑んで見せた。
「被害者友の会」そんな単語が脳裏を過ぎった。
きっと彼女もことあるごとに常務に引っ張りまわされては大仰な言葉で誰彼構わず紹介されて面映いを通り越してげんなりしてしまう目に何度も遭っているのだろう。
一護も同じ笑みを返し,そして常務に空腹を訴えることで話題を変えた。
勤務先から車で三十分ほどのところにある老舗の鰻屋の個室で昼食を摂り,常務がトイレで席を外したときに少しだけ室長本人と話をすることができた。
膚の白い人であることはわかっていたが,あまり顔色がよくないのがずっと気になっていたのだ。
仕事が忙しいのか,と尋ねると,室長の答えは「負担になるほどでは」だった。
どうして,と眼差しに尋ねられた気がしたので顔色のことを指摘すると,少し驚いたような顔になって「プライベートで少し悩みがあって」と微かなため息が零れた。
会話の流れもあったし,さして深く考えることなく自分でよかったら話を聞きますよ,と云うと,室長は更に驚いた顔になって,それからまた淡く笑みを浮かべた。
一護としても社交儀礼のひとつのつもりだったし,それきりになるとばかり思っていた。しかし予想に反して一週間ほどの後,仕事用のメールドレスに見覚えのないアドレスからメールが届き,夕食に誘われたのだった。
ベージュのスーツに身を包み,夏の暑さとは無縁な佇まいでやってきた室長は,あまり店を知らなくて,と申し訳なさそうに云ったが案内されたレストランは店の規模こそ小さかったが心の篭った持て成しをしてくれる気持ちのよい店だった。
料理の味も抜群で,弾むというほどの会話もなかったがそれでも楽しい一時を過ごした。
どうして多忙だろう室長がわざわざ一護を誘ったのか。その理由は食事の最中に話題になることはなかった。
仲人が趣味と言い放つ常務の口車に乗せられて,というのも考え難い。
しかし美味しい食事の礼に,と食後の酒は奢らせて欲しいと申し出てオーケーを貰っていたこともあり,場を変えて聞けばいい。とそれくらいに考えていた。
テーブルで会計を済ませ,化粧室に向かった室長を店の前で待っていると,派手な身形の男が近づいて来るのが目に入った。
傍らには見事なプロポーションの背の高い女を連れている。
一護が出てきたばかりの店に入るらしい,というのがわかったので,身を引いてドアの前を譲ってやった。
一護の前を通り過ぎ際,「ありがとね」と人懐こい笑みを浮かべた男は,手をかけたドアが内側から開かれると傍らの女を庇うように抱き寄せ足を止めた。
「あ」
「あら」
驚いたことに男と室長は知り合いらしかった。
「これから食事?」
「そ。姉さんはもう帰るとこ?」
「ええ。教えてもらったこのお店,素敵だったわ。ありがとう」
「気に入ってもらえたら何より。ってか,デート?」
「違うわよ。仕事先の人と…あ,お待たせしてごめんなさい」
室長の目が一護を捉え,男も肩越しに一護を振り返った。
一護がどちらともなく肩を竦めるような仕草をすると,男は女の腰に回していた腕を解いて一護の方へと近づいて来た。
「どーも」
「…どうも」
目の前までやってきた男はへらへらと笑っているが,嫌な雰囲気はなく,「興味津々」というのが表情や気配からひしひしと伝わってくる。
室長を「姉さん」と呼んだということは,弟なのだろう。似ていない姉弟だな,と思ったが,余計なことなので口にはしない。
男はそんな一護の視線を捕まえると,にこ,と人懐こく笑って懐からカードケースを取り出した。
「オレさ,店やってんの。よかったら来てよ。酒も飯も結構いいの出すから」
そう云って名刺大の紙片を一護に押し付けると,くるりと踵を返して「じゃ,姉さんまたね」と云って再び女の腰を抱き店の中へと入って行った。
そのままどこかへやってしまったとばかり思っていたのに。
季節が二つ変わった今になって目の前に姿を見せたカードになんとなく気持ちが引かれて,一護はコートのポケットにそれを仕舞うとそのまま職場を後にしたのだった。
貰ったきりきちんと見ることもしていなかったカードを,地下鉄に揺られながら改めて眺めた。
住所を見ると,驚いたことに住まいから割りに近い場所にあるらしい。
裏返した地図を見ると,マンションからほど近くにある広大な敷地を擁する御苑公園を挟んで向こう側,徒歩でも二十分ほどの距離にあることがわかった。
コレも何かの縁というヤツか。
端的に云えば,気まぐれを起こした。そんなところだった。
地元の駅で地下鉄を降りると,カードの裏面に記された地図にあったいつもとは違う番号の出口を目指した。
そして,歩くことしばし。今居る大きな柳の前にたどり着いたのだった。
ぼんやりと柳を見上げていた一護だったが,いい加減寒くなってきた。
地図で見たとおりに歩いたつもりだったのに,どこを見回しても店らしきものは見当たらず,目に付いたのがこの大柳だった為近づいて見上げているのだけれど,どうしたものか。
大通りまで出てタクシーを捕まえて家に帰るか。
それが正解だろう。
そう思うものの,癪だと思う気持ちもあって,何となく踵を返せないままただ柳の木を見上げていた。
「アイタ」
声が聞こえて,振り返った。
一方通行の車道を挟んで向こう側に,少年が一人頭を押さえて蹲っていた。
医師という職業柄何かを考える間もなく踵を返し,車道を渡って少年に近づいた。
「大丈夫か」
声をかけると,少年はのろのろと顔を挙げ,そして顔にかかる前髪の下,口の端だけを引き上げた。
「スミマセン。電柱にぶつかっちゃって」
「前方不注意にも程があるだろ。見せてみろ」
「あ,いや,大丈夫です。ちょっとぶつけただけだし」
「いいから。手,どけろ」
ひんやりとした手を掴んで外させると,頬骨の辺りが派手に擦り剥けて真っ赤になっている。
その周囲を指で押しながら「痛いか」と尋ねると「そんなには」という答えだった。
骨に異常はなさそうだ。これくらいの擦り傷なら数日顔を洗うときに難儀するかもしれないが,若いしすぐに治るだろう。
一護が小さく息を吐くと伏せられていた少年の瞼が上がり,一護を見た。
「この辺住んでんのか」
「イエ。お使いを頼まれた帰りなんスけど。っていうかあの,スミマセン」
「なんで謝るんだ」
「柳の下に立ってるところがなんていうか…その,…………って」
小さくて聞き逃しそうだったが,「幽霊だったらどうしようって」と聞こえた。
勝手に驚いて怯えて電柱にぶつかって,それなのに心配されてしまい,いろいろと申し訳なくなってしまったのだ,と。
たどたどしく継がれる言葉を聞くうちに,一護は腹筋が波打つような心地を覚えて小さく噴出してしまった。
「お前,面白いな。柳の下に幽霊ってのは夏が相場だろ」
一護が云うと,少年は眉をハの字にして目を伏せた。
一護は笑いながら身体を起こすと,しゃがんだままの少年に向けて手を差し伸べた。
躊躇いを見せた少年だったが,一護が手を引っ込めないままでいるとそろそろと手を伸ばしてその手を握った。
よっ,と弾みをつけて引き起こしてやると,身長177センチある一護より拳一個分くらい背が高かった。
最近の子どもは成長がいいな。ため息混じりにそんなことを考える。
見た感じ十五六歳,といったところか。お使いと云っていたがアルバイトだろうか。
そんなことを考えながら見上げていると「あの,」と声が掛けられた。
「お前,この辺地理詳しい?」
遮るように尋ねると,少年はぎこちなく首を傾げ「ある程度は」と肯いた。
一護はポケットからカードを取り出し,少年へと差し出した。
「ここ行きたいんだけど,場所わかるか」
少年が屈み込むようにして一護の手元へ顔を寄せた。
もしかすると目が悪いのかもしれない。だから幽霊なんかと見間違えたのか。
一護の今日の服装は,黒っぽいスーツに同系色のコートと靴。マフラーはグレイだった。
服装だけなら死神だとか,いや,あれは天使だったか。
古い映画のワンシーンを思い浮かべたが,モノクロームな天使たちと自分には決定的な違いがあった。
鮮やかなオレンジ色の髪。
脱色や染髪によって出した色ではなく,生まれつきの色だった。
こんな頭の色した幽霊なんて,居たら笑うわ。
そうひとりごちて笑みを零すと,屈んでいた少年が顔を上げた。
「わかります」
「マジか。悪ィけど道教えてくれねえか」
「教えるよりも,あの,ボクもそこへ戻るんでよかったら案内します」
なんという偶然か。
目の前の少年は一護が向かう店のアルバイト店員だった。
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