赤燈
§・§・§
ぼんやりとした視界に,見知った顔が大写しになる。
父親だった。
「――護!一護!大丈夫かしっかりしろ!」
耳の鼓膜をおかしくしそうな大声と共に,肩を揺さぶられる。
しかし,感じたのは苦痛よりも安堵だった。
16歳の誕生日を向かえた一ヵ月後。夏休みを謳歌していた一護はアルバイト先からの帰り道,突然暗がりへと引きずり込まれ顔に麻袋をのようなものを被せられて拉致された。
袋の繊維の隙間から紺色のワンボックス車が見えた。上半身と脚を担がれるようにしてその中へと運び込まれた。
そこで記憶はふつりと途切れている。
一護が帰らなかった日,翌朝を待って家族は一護の捜索願を届け出たが警察の反応は「高校生の夜遊びでしょ」などと軽くしか扱ってもらえず,家族の不安と焦りが募る中一週間が過ぎた。
そして今日,医院が昼休みに入るのを待って昼食もそこそこに捜索の為外に出た父親に,電柱に凭れるようにしゃがみ込んだ姿で発見された。
目立った外傷はなかったものの意識は混濁し消耗も著しく自室のベッドへ横たわるとそのまま一護はまる二日眠り続けた。
目を覚ますと双子の妹たちが寄り添うようにベッドに凭れて眠っていて,肩を揺すってこんなところで寝るなと起こすと,目を覚ました二人に飛びつかれ抱きしめられた。
よかった。本当によかった,と二人の妹は泣きじゃくりながら一護の無事を喜んだが,それだけで事件は終わらなかった。
一護は水以外の食物を口にすることができなくなっていた。
体力が落ちていることもあり回復すれば元に戻る,と医師である父親は云い,妹たちも早くよくなってね,と心配げな眼差しを向けてくるが,一護は云い様のない不安に苛まれ頷くのが精一杯だった。
その日の夜,妹たちが寝静まった後父親が一護の部屋を訪ねてきた。
自宅に隣接する医院へと連れ出され,そこで出生の秘密を明かされる。
一護の母親である真咲は人ではなく,虚種だった。
虚種というのは食性が人間のみに限定された肉食の亜人種のことを指す。
その反社会的な食性から公的に駆逐対象とされており,専門の行政機関も設立されている。
一護たちは子供の頃から繰り返しその危険性と脅威を教え込まれていた。
虚種に捕まったら殺される。殺されて食べられてしまうのだ,と。
一護の父である一心は現在は小さな医院を営む医師だったが,前職は虚種を捜索・駆逐する組織「護廷十三隊」に所属する捜査官だった。
任務と関係ないところで出会った父と母は惹かれあい,恋仲となる。
父は母へと結婚を申込むと母は父の前から姿を消した。
悲嘆に暮れた父だったが,仕事は待ってくれない。大掛かりな作戦に任命され,攻撃隊のリーダとして赴いた先で母と再会した。
惚れた女に手が出せるか!と攻撃を拒む父を母は無表情で切り刻んだが,絶命まで追いやることはできずそのまま二人は行方を暗ました。
父はその後虚種たちの跋扈する二十三区を離れたここ空座町で医院を開業し,真咲は知人から食料の供給を受けながら仲睦まじく暮らしていた。
そして授かった子が一護だった。
通常,人と虚種の交配には高いリスクが伴い,母体が虚種,子が人間であれば子は母体に吸収されてしまい,母体が人間,子が虚種であれば子に必要なだけの栄養が行き渡らず体内で成長できず死んでしまう。
しかし真咲は前述の知人の助けを借り奇跡ほどの可能性に賭け,一護を出産した。
生まれた一護に虚種としての特性は一切なかった。
多少運動神経のよい子供としてすくすく育ち,五年後には双子である遊子と夏梨が生まれた。妹たちについても虚種としての特性は出なかった。
一護たち兄妹は母親の秘密を知ることなく,普通の人間の子どもとして育った。
一護が帰宅し,昏々と眠っている間に父は一護の血液検査を行った。虚種の特性であるRc細胞の含有量を調べるために。
結果は陽性。背中にいくつかの傷の治癒痕と注射痕が見つかり,一護を攫った何者かにより外科的手法を用いられ虚種化されたことが推測された。
通常人間に虚種の細胞を移植したところで拒絶反応が起き,移植された人間はショック死に至るのが殆どだったが,一護は人間と虚種のハイブリッドであったため順応してしまった。
自分が人間ではなくなってしまったこと。
幼い頃から学校などで散々「人間の敵」「近づいてはならない存在」と教え込まれてきた虚種になってしまった。その事実に一護は打ちのめされた。
しかし,話はそれで終わりではなかった。
「いいか一護,よく聞け。今は浦原から融通してもらった薬液を天敵することで抑えているが,そんなのはその場凌ぎでしかねえ。俺は兎も角,遊子や夏梨とは同じ家ではもう暮らせないって思ってくれ。母さんを,真咲を助けてくれてた浦原が居る。ヤツのところに行けばお前の今後の面倒を見てくれるはずだ」
話終えた父親は,苦渋の表情で一護を抱きしめた。
護れなくてすまない,と。
一護は応えることができなかった。
診察室に父親を残し,自室に戻る途中眠る妹の部屋のドアを開けた。
ドア越しに寝返りを打った妹がタオルケットをはだけるのがわかったのだ。
どうして,と不思議になったが,それよりもいくら夏とは云えエアコンも効いている。風邪を引いたら大変だ,と妹が眠るベッドに歩み寄った。
二卵性ということもあり,顔立ちはさほど似ていない二人だったが,まるで判で捺したようにそっくりな格好で眠っていた。
先に左側のベッドで眠る夏梨にタオルケットをかけてやり,次に右側のベッドで眠る遊子に同じようにしてやった。
シンクロする健やかな寝息に耳を欹てていると,不意に身体の内側の深いところから不穏な気配が湧き上がってくるのを感じた。
口の中に唾液が湧く。
視線の先の細い首筋。そこに噛み付く自分が脳裏に浮かび,一護は激しく首を横に振った。
一護の口から零れた呻き声を聞き,遊子が目を覚ます。
「お兄ちゃん…?目,どうしたの」
寝ぼけた声にそう云われ,一護は顔を上げて窓ガラスを見た。
そこに映る自分の眼,真っ赤に変色した左目を見た瞬間,一護は父親の言葉を正しく理解した。
このままこの家で暮らすことはできないのだ,と。
赫眼。虚種の特性が一護の左目にはっきりと現れていた。
一護は目を伏せると心配げな顔をする遊子の頭をそっと撫でた。
「目,覚めたから様子見に来ただけだ。ちゃんとタオルかけて寝ねえと,寝冷えすんぞ」
「もう,身体平気なの?」
「ああ」
「よかった。心配したんだよ。明日の朝ごはんはお兄ちゃんの好きなもの作るからね。明太子とじゃがいものオムレツと…」
「サンキュ,遊子」
一護の言葉に安心したように笑顔を浮かべ,遊子は再び眠りへと落ちていった。
それを見届けた一護は奥歯をきつく噛み締めたままもう一度窓ガラスに映る自分の顔を見,そしてそのまま部屋を出て,玄関に向かった。
父親に頼るようにと云われた浦原商店の所在は知っていたが,そこに足を向けることもなく,一晩中歩き通して都下最大の繁華街を擁する四区にたどり着いた。
国道沿いの塗装の剥げたガードレールに寄りかかって,目の前を行き来する人間をただ眺めていた。
男も女も,年齢も,姿の美醜についても何も感じない。
ただ,募る食欲だけを感じていた。
あの肉は硬そうだとか,やわらかそうだとか。美味そうだとか,不味そうだとか。そんなことばかりが頭を過ぎる。
人を襲うのか。
脳裏には小学校の頃見せられた「虚種から身を護るには」という教育ビデオの映像が浮かんでいた。
人気のない暗がりを一人で歩いていると,どこからともなく伸びて来た腕に捕まれて,路地へと引きずり込まれる。
その後には悲鳴。そして何かを引きちぎるような音。咀嚼する音が響く。
左目の色はいつの間にか戻っていたが,念のため薬局で買った眼帯をつけていた。
行き交う人々は,眼帯のせいかぼんやりと佇む一護に一瞥は向けるものの,すぐにその視線を逸らし去っていく。
ここに自分たちの天敵が居るとも知らずに。
手を伸ばし,腕を掴み,引き寄せてその首筋に齧りつけば,この身を焼くような飢餓感から逃れることができる。それは予感ではなく確信だった。
しかしそれをするつもりはなかった。
どれくらいの間こうしていれば死ねるだろう。一護の頭にはそれしかなかった。
時間の感覚が麻痺して,昼と夜の境目がなくなった。
視覚も聴覚も嗅覚も鈍り,ただ飢餓感だけがそこにあった。
しかし,欲よりも消耗が勝り指一本まともに動かせる気がしなかった。
食べたい食べたい食ベタイ肉ヲ啜リタイ血ヲ。
声をなさない叫びが頭の中に反響している。
瞬きすらできず,朦朧とした視界に顔がひとつ現れた。
「こーんにちわ」
にこりと笑うその顔は,一護とそう齢の変わらない少年のもの。
小柄で中世的な容姿と,それにぴったりの人懐こい笑顔を浮かべているが,一護を見つめる目は少しも笑っていない。
本能が危機を察知し頭の中で警鐘が鳴り響く。
危険だ,逃げろ,と。
しかし一護は動かなかった。
「あれあれ,ボクの声聞こえない?」
わざとらしく首をかしげた少年は一護をじっと見つめていたが,すぐにまたにこりと笑顔になり「ボクさ」と一護に語りかけた。
そして次の瞬間,頬に強烈な一撃が来た。
「ボクさ,無視されるってのが一番嫌いなんだよねッ!」
頭がもげるかと思うほどの衝撃。一護は簡単に吹っ飛ばされ,人気のない歩道に倒れ込んだ。
意識が遠ざかるのを感じる。
餓死上等,と思っていたが,どうやら一護に攻撃を加える少年は虚種で,一護はこれから喰われることになるらしい。
衝撃で鼓膜がイカれかけた耳にわんわんと不快に反響する声がそう告げていた。
殴られ,蹴られ,踏みにじられる。挙句には足首を掴んで振り回された。
そのままアスファルトに背中からたたきつけられ,頭を強打した。
真っ赤に染まる視界で
――死ニタクナイ。
そう思った。
「――なっ,隻眼!?」
視界に映る少年の顔に驚愕が浮かぶ。
顔を殴られたときに紐が解けた眼帯が,足をつかんで振り回されたせいでどこかへと飛んで行ってしまったらしい。
セキガン…は隻眼。
妹の部屋の窓に映る自分の顔を思い出す。左目だけが不気味に赤く染まった自分の顔。
虚種の特性は,交戦及び捕食時にはその眼球が赤く染まることから「赫眼」と呼ばれている。
てっきり頭のイカれた人間――餌だとばかり思っていたのに。
少年の驚愕の理由はそんなところだろうか。
鼓動が頭に響く。ずくずくと,血液の流れる音がする。
目を見開いた少年の顔。その下に恐怖が滲むのを見,一護は顔を歪めた。
「人の店の前で大暴れするとか,マジ迷惑」
白崎は隙間なくタトゥの彫り込まれた腕を曲げ,首の後ろを揉みながらかけていたサングラスを指先でちょい,と押さえるようにずらした。
人間では決してありえない真紅の双眼を細い路地に折り重なるように倒れる二人の男に向け「もったいないなァ,こんなきれーな色して」と云いながら歩み寄った。
もう一人を組み敷くようにして倒れ込む男はあちこちが血で汚れてしまっていたが,鮮やかなオレンジ色の髪をしていた。
指を潜らせるようにくしゃりと梳くと,顔を顰めるように眉間に皺が寄った。
「あ,生きてんじゃん。つーか人じゃねえの?変なニオイしてんな。って,こっちは…」
云いながらしゃがみ込んでもう一人の男の顔を覗き込む。
一見しただけで左腕と左脚,更には首があり得ない方向へ捻じ曲がっていた為そうだとは思ったが,覗き込んだ顔は充血した眼球が半ば零れ落ちそうになっていて確かめるまでもなく絶命していた。
「ん,こっちはちゃんと死んでんな」
よしよし,と頷いた男は,ポケットから取り出した携帯電話を耳に当てると,コール音が途切れると同時に口を開いた。
「ヘイヘイ,オレ。素材イチに怪我人イチ。誰か寄越せよ。あ,怪我人はオレが運ぶからいい。裏口開けといて」
云うだけ云って通話を切ると,口の端を引き上げステップを踏むような軽い足取りでオレンジ色の髪の持ち主へと近づいた。
「痛くてもちょーっとだけ我慢してな」
気遣うようにそう告げると,腕を掴んでその身体を肩へと担ぎ上げた。
担がれた男の口からくぐもった呻きが漏れる。
誰だ,と問われた気がした。
しかしそれには応えず「助けるから大丈夫」とだけ云って,男はそのまま路地の奥へと姿を消した。
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