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§・§・§
その日一護はしたたかに酔っていた。
正式に飲酒が許される二十歳まではまだ二ヶ月あるが,それでもアルコールに弱い性質ではない。
体調がイマイチだったのだ。疲労が半端なかったのだ。
それでも飲まずには居られなくて,「やってくか?」左手で猪口をくいっとやる仕草に半分自棄の気持ちで頷いた。
未成年である一護に酒を勧めたのは不定期でアルバイトを回してくるコクトーという男で,空座本町の駅から続く商店街から一本奥まったところにある古びた一軒家に住んでいる。
年の頃は三十台半ばくらいだろうか。回してくる仕事の性質は悪いが,本人は至極気のよい男なので一護も懐いていた。
飲んだのは五百ミリのビールを一本と,日本酒をコップで何杯か。
普段ならばほろ酔い程度の酒量だったけれど今日はなんだかダメだった。
泊まって行けば,という誘いを「明日ゴミの日だから帰る」と座った目のまま首を横に振り,それでも飲酒運転はダメだと判断できる位の理性はあって,愛車であるクロスバイクを押しながら出てきた。
五月下旬。空には雲が棚引いて,まんまるに近い月から降り注ぐ光を中途半端に遮っている。
生温い風。心地良いとは云いがたいが,それでも火照った頬を冷ましてくれるような気がして一護は目を細めた。
一護の住まいはコクトーの家のある空座本町から空須川を渡り,空座ふれあい公園のある馬芝を抜け,三ツ宮を通って更に先,学園町にあった。
愛車であるクロスバイクに跨れば十五分の距離も,歩いて,しかも酔っているとあればその倍以上かかる。
ふらつくのは押している自転車が支えになって防げているが,それでもその自転車を押すのが重たく負担になる。
空須川を越えるくらいまではそれでも止まることなく歩いていられたが,馬芝を抜ける頃には足取りはどんどん重たくなって行った。
気持ちが悪い。頭が重い。歩きたくない。
座った目で進行方向を見て,酒気の濃いため息を吐く。
気持ちが悪いといっても吐くほどではない。頭が重いって寝不足の上に疲れてんのに酒など飲めば当たり前だ。歩きたくないっつったって自業自得だろうが。
駄々を捏ねる自分を叱るようにひとりごち,重たい自転車を押して一歩一歩前に進む。
そうするうちにぽつりぽつりと点る街燈に貼り付けられた住居表示が「馬芝」から「三ツ宮」へ変わった。
あと十分も歩けば,家に着く。
頑張れ。頑張れ俺。
無意識に掠れた声が出ていた。
ため息を吐くと,誘発されるように欠伸が漏れた。
足を止めてハンドルから片手を離し目尻に浮かんだ涙を指の腹で拭って,また歩き出す。
そんな風にしてのろのろとではあったが確実に家路を辿っていた足が止まったのは,朽ちた社の前だった。
そこは何度も自転車で通っている道だった。
そこに社があることは知っていた。気に留めたことはなかったけれど。交差点の位置を把握する程度の認識はあった。
しかし,今日に限って足が止まった。理由は,花。
街燈と街燈の切れ目にある為,社の辺りは薄闇に包まれている。それなのに,敷地の奥の方にうっすらと光が点っているように見えて一護の足を止めさせたのだ。
なんだろう,足を止めて目を凝らすと,光ではなく花だと知れた。
桜…だろうか。でも木自体は柳っぽい。枝垂れ桜と云うヤツか。
桜と云ってまず浮かぶのがソメイヨシノで,その盛りはもう随分前に過ぎた。
八重桜が散ったのも一月近く前だった気がする。こんな時期に盛りを迎える桜があったなんて。
自転車を支えたまましばらく目を細めて見入っていたが,何か誘われる心地がして,一護は自転車を社の入口に立てかけて日々の入った敷石を踏んで社の中に足を踏み入れた。
首の取れてしまった狛犬と,赤い色もすっかり褪せた鳥居と屋根が落ちかけている小さな社。いちおう挨拶が必要か,と両手を合わせてからその横を抜けて花を目指す。
賽銭入れなかったけど大丈夫かな。財布に小銭あったっけ。
そんなことをぼんやり考えながら,砂利を踏む音を聞いた。
「…すげえ」
思わず感に堪えた声が出た。
満開の枝垂桜。白とも見紛う薄紅色の花がこれでもかというほど咲き誇っている。
どこにも明かりはないのに,その花自体がうっすらと光放つようにそこだけがぼんやりと明るい。
社の屋根よりも高い位置から枝垂れる枝葉一護の胸元の辺りまである。
花に触れようとして,なにか侵しがたい気持ちになって引っ込めた。
代わりに腰を屈めると花触れないよう気をつけて枝を潜り幹のところまで進んだ。
やわらかな草の生えた根元に腰を降ろし,幹に背中を預けて満開の花を見上げる。
この世のものとは思えない,そんな美しさがあった。
どれだけ見ても,見飽きない。
ごつごつと硬い幹に背中を預けたまま,一護は花に見入っていた。
「――ぇ,ちょっと。こんなところで寝てると風邪引きますよン」
肩を揺すられ,一護は閉じていた目を開けた。
同時に鼻がむず,としてくしゃみを一発。
おかげで目が覚めた。
「…あ?」
「大丈夫?」
すぐ傍に白い服を着た若い男がしゃがみ込んでいた。
首を傾げて一護を見ている。
「……俺,寝てた?」
「寝てましたねぇ。最初見たときは死んでるかと思ってびっくりしたんスよ」
ぼんやりとする頭を振って,目を瞬く。
少しは覚めたかと思った酔いの揺り戻しで気持ちの悪さが込み上げた。
うぷ,とえずくと傍らから伸びた手が背中を擦ってくれた。
「わ…るい」
「酔っ払い?まだお酒飲める齢じゃないでしょキミ」
呆れたような口調で云われバツ悪く口を噤む。
それでも背を撫でてくれる手が優しいので,一護は気まずくなりながらも「…いろいろあって」と言葉を継いだ。
「お水持ってきてあげる。ちょっと待ってて」
そう云うと,男は立ち上がり下駄の音をからころさせながら去って行った。
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