Kurosaki Coffee Roster
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Side I.
時刻は午後十六時。
隣のパン屋での店番を終え自分の店へと戻り,ドアの鍵を開けていると「ナイスタイミングね」と常連のお客に声をかけられた。
やわらかそうなショールにすっぽりと包まった老婦人は駅前のデパートの紙袋を提げ「あんまりにも寒いから,家に帰る前にコーヒー頂こうと思って」と笑顔で肩を竦めた。
「いらっしゃいませ。すぐにご用意します」
一護も笑みを返して荷物が置けるように二人掛けのテーブル席へと案内した。
二時間ほど店を空ける間も暖房は入れっぱなしにしてあるせいで店の中は寒くない。
小振りなガラスに注いだ水と,メニュを持って席へ向かうと,老婦人は淡く色のついた唇に指を当てしばし逡巡するようにメニュを覗き込んだ。
「月替わりのブレンドはどんな感じ?」
「寒い時期なんで,重めだけど甘い後味の残るように仕上げてみました」
「あら,おいしそう。じゃあそれと…いつものビスコッティお願い」
「かしこまりました」
一礼してテーブルを離れ,キッチンへと入る。
電動のミルへ一人分の豆を淹れ,湯を沸かす。
カップとサーバを温め,ドリッパにフィルタをセット。
挽きたての豆をフィルタに落とし,平らにならしてから一呼吸置いて,抽出に入る。
豆の外縁に近い位置に,ぽとり,ぽとりと湯を落とす。
ゆっくりと円を描くように,全部で六回。
そしてきっちり二十秒蒸らし,今度は豆の真ん中に静かに湯を注ぐ。
店で使うケトルは以前修行した店で使っていたものを譲ってもらった特注品で,市販のどのケトルよりも細く湯が注げるように工夫が施してあった。
サーバから温めてあったカップにコーヒーを移し,地元の作家が焼いた味わいのある皿にビスコッティを三本載せて一緒に運んだ。
「ごゆっくりどうぞ」
言い置いて席を離れると,老婦人は,冷えた指先を温めるように両手でカップを持ち,静かにコーヒーの香りを吸い込んだ。
カウンタに戻った一護はやりかけだった豆のハンドピック作業を再開させた。
店の中に流れるインターネットラジオのヴィンテージロックチャンネルに耳を澄ませながら,竹で編まれた笊に開けたコーヒー豆から未熟なもの,虫食いのあるもの,混入物などを弾いていく。
淡い色の豆の中にうす桃色の羽根を見つけた。大きさは小指の先ほどの,小さな羽根。
ピンセットの先でそれを摘むと,そっと掌の上に置いた。
息を吐いたら飛んでいってしまいそうで,潰さないように手の中に握りこみ,レジの下から木工ボンドを取り出す。
レジの後ろの壁に掛けられていた白く塗られた板を降ろし,そこにボンドで羽根を止める。
そこには,小石や貝殻,小さなネジなどハンドピックの途中で見つけた様々な混入物が等間隔に留められていた。
もちろんある程度の検閲を受けて出荷されているものだから,そうそう見つけられるものではない。
それでも,店をオープンしてから二年の間で,四号サイズのカンバスと同じほどのボードの四分の一ほどが埋められていた。
しばらくすると「ごちそうさま」と老婦人が立ち上がり,カウンタへとやってきた。
ビスコッティとコーヒーで代金は五百円。
それから注文した月替わりのブレンドが美味しかったから,と豆を二百グラム。
豆の挽き加減を尋ねられたので,店では中挽きで出している旨応えた。
「また増えた?」
豆をパッキングしながら老婦人の方を見ると,レジの後ろの壁を指差している。
そこには先ほど一護が羽根を貼り付けたボードがあった。
パッキングした豆を手提げの紙袋に収めながら「ちょうどさっき羽根を見つけて」と応じる。
「板が全部埋まったら,額縁に入れて飾るといいんじゃないかしら。このお店の歴史であり,まるで標本みたい」
「まだまだ先は長いけど,考えてみます」
微笑みながら老婦人を見送った後,テーブルを片付けていると「寒い寒い!」と云いながら新しいお客がやってきた。
side U.
「…大分日差しが強くなったなあ」
頬にふきつける風に目を細め間の抜けた声で呟くと,浦原は紙コップに嵌められたプラ蓋の飲み口に口をつけた。
ずず,と音を立ててコーヒーを一口。
行儀が悪い,と自分でも思うけれど,猫舌なのだ。
なるべく多くの空気と一緒に口に含まないと舌や唇を火傷してしまう。
ぼんやりと見上げた空は雲ひとつない晴天。所謂「五月晴れ」というヤツだ。
午後一番,来月下旬着工予定の児童館の改修工事の現場視察へ出向いた帰りだった。
落札予定額の積算は資料に基づいて部下が行うけれども,形式的なものでも課長である浦原自らが一度は現場へ足を運ばねばならない。
まったくもって無駄な仕事であるけれど決まりは決まりで,役所という組織にはこのテの無駄が積み重なってできている。
それに,こうして気分転換ができるため無駄だとは思うが浦原は決して嫌いではなかった。
帰庁時刻は余裕をもって十五時としてある。まだ三十分ほど時間があった。
ずず。また音を立ててコーヒーを啜る。
苦いだけで香りは薄く,美味くもなんともない。
それでも多少なりとも気分が晴れるのだから,コーヒーと云うのは不思議な飲み物だと思う。
ふう,と息を吐いて,また空を見上げる。
浦原が居るのは職場である町役場から徒歩五分ほどの距離にある小さな児童公園で,午後二時過ぎという時間のせいか,それともたまたそうなのか,遊ぶ子どもも見守る親の姿もなかった。
それでも。
上着のポケットに忍ばせてある煙草のパッケージを脳裏に浮かべる。
煙草が吸いたい。すごく吸いたい。よく考えたら今日は視察の為に昼休みも短縮で摂らざるを得なくて貴重な午後の一服もできていなかった。
本当ならばコーヒーショップで一服するつもりだったのだ。
しかし,トイレで水漏れが起こりその修繕工事の為とテイクアウトのみでの営業となっております,と店員に素っ気無く云われ,カップ片手に店を後にした。
こんなことなら隣のハンバーガーショップに入ればよかった。そう思ったが,後の祭り。
そして人気のない公園のベンチに腰を下ろしてコーヒーを啜っている。
新たにやってくる人の姿も見えないし,一本くらいいいのではないか。
そう囁く自分の声を,浦原はため息でもって黙殺した。
壁に耳あり障子に目あり,と云う言葉がある。どこに人の目があるかわからない。
政権が変わり経済政策の影響で少しずつ上向いてきているとは云え,長く続く不景気によって市民の公務員への風当たりは強くなるばかり。
二言目には「税金泥棒」なんて罵詈雑言が投げかけられる。
浦原自身空座町内に住んでいて,毎月振り込まれる給与から住民税も所得税もきちんと納めているというのに。
不平不満を覚えないわけではないが,愚痴など垂れるだけ無駄だと知っている。
だから,コーヒーと一緒に飲み込んで,ゆっくりと腰を上げた。
歩きながらコーヒーを啜ると,気をつけていたのに火傷をした。
「あち」と呟いて顔を顰め,指先で痛む唇に触れる。
道路わきに植えられた花水木の葉を風が揺らし,ついでとばかりに浦原の髪も舞い上げて去っていく。
職場に戻ったら。
纏めるべき視察報告書の内容をぼんやりと頭に羅列しながら,浦原はプラ蓋に開いた飲み口へ向けてふうふうと息を吹きかけた。
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