Midwinter Firefly.





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二月半ばの木曜日。
定時後に予定されてた接待を終えてタクシーで帰宅した一護は,玄関で靴を脱ぐなりコートも脱がないままバスルームへ直行した。
栓をしてからスイッチを押し,その場で靴下を脱いで洗濯機の横の篭へと放り込む。
脱衣場に置いてあった鞄を右手に,左手でネクタイを緩めながら部屋へ入り,二人掛けのダイニングテーブルの横を抜けて背の低い本棚で区切って寝室代わりにしているスペースへと向かった。
部屋の間取りは1LDK。家賃は九万と少し高めだけれど,会社から家賃補助が半額出るのと広々としたLDKとバルコニーが気に入って即決した。
寝室は別にあるのだけれど,ほとんどクロゼットとして使っていて,ただっ広いリヴィングを本棚で区切ってダイニングスペースと寝室に使っていた。
バルコニーへと続く掃出し窓を左手に見る向きで壁際にベッドと,あとは窓の方に斜に向けた座り心地のよい一人掛けのソファと小さなテーブル。
パーソナル・スペースとしてはそれだけあれば十分に寛げる。

クロゼットに使っている部屋の明かりを点し,脱いだコートをハンガーにかけ,消臭スプレーをしみにならないようにかけて,吊るしておく。
スーツはクリーニングに出すのでそのままの格好でベランダへ向かった。
部屋を出るとき,鞄の横に置かれた紙袋を見て一度だけため息を吐いた。

からからから,と音を立てて掃出し窓を開ける。素足にサンダルをつっかけて外に出ると,寒さに顔を顰めながら上着のポケットから煙草のパッケジを取り出した。
引き抜いた一本を口に咥え,ライターで火を点すと,ふわり火が点った一瞬だけ鼻先にぬくもりを感じた。

営業という仕事柄,仕事中は一切煙草には手をつけないことにしている。
接待の場でも然りだ。仮に接待相手が煙草を咥えても,火をつけてやることはしても,喩え薦められても固辞する。

そんなわけで,疲労もピークに達した身体で今日一服目を吸い付けると頭がくらくらするほど気持ちよかった。
勝手に口の端が引き上がる。
はっきり云って接待は面倒だし嫌いだけど,この一瞬があるから嫌々でも渋々でも座を持つことをするのだ。そんな気にすらなる。

ふぅー,と吸い付けた煙を吐き出しながら,そっと左側を窺う。
左側は石膏ボードのパーティションで区切られ隣室のバルコニーに続いている。
火災などの緊急時はそれをぶち破って避難経路を確保するため,隙間が開いていて隣のベランダがほんの少し見えるのだった。

近所づきあい,などというような大げさなものではないが,隣人もスモーカらしく一護がこんな風にベランダで煙草を吸っているとたまに鉢合わせする。
二ヶ月ほど前,大晦日の晩に初めて言葉を交わして以来,他愛ない話をしたりコーヒーをご馳走したりご馳走されたり,そんなやりとりを交わすようになっていた。

今日は居ないのか。
がっかり,というまでには至らない小さな落胆を覚えながら煙草を燻らせているとからからから,と音がして隣室の履き出し窓が開いた。

「黒崎サン?」

棚引く煙が見えたのか,名を呼ぶ声に「こんばんは」と応えると「こんばんは」と笑みを孕んだ声がした。

「お仕事,今帰りっスか」
「接待で,粘られちゃって」
「わあ,大変だ」
「浦原さんも仕事?」
「あー,アタシは持ち帰り残業ってヤツっス」
「それも大変だな」
「職場でやるよりも家でやる方が捗るんで,ついつい持ち帰っちゃう」
「でも残業代とか付かないだろ?」
「まあね」

こんな風に会話する機会は増えたが,一護は隣人がどんな仕事をしているか知らない。
自分の仕事は営業,とそれくらいは話したような気がする。でもその気軽さがよかった。
同僚の中には合コンだ,勉強会だ,だので他業種との交流を率先して行っているのもいるけれど,一護はタイムカードを押した後は自分の時間として大切に過ごすのが好きだった。
ただでさえ仕事で毎日何人もの顧客と会い,話をすることになるのだ。定時後まで気を使って誰かと会話をするのなんて真っ平ゴメンだ,と思っていた。

「でも,接待っていうとする側の人はあんまりごはん食べられなかったりすんじゃないスか?」

衝立越しに聴こえてくる声に,一護は吸いつけていた煙草から口を離して「あー」と云った。

「まあテキトーには摘んでたけど,食ってばっかじゃ接待になんないからな」

改めてそう口にすると「小腹が空く」というほどではないが,なんとなく物足りなさを感じた。
部屋からは風呂の沸いたのを告げるアラーム音はまだ聞こえてこない。
一護は視線を衝立の方へ向け,その隙間へと呼びかけた。

「浦原さんさ,もう部屋戻る?」
「いや,まだもう少し」
「じゃ,ちょっと待ってて」

云うなり一護はエアコンの室外機の上に置いてあるキャンベル・スープの空き缶に短くなった煙草を投げ込み,一度部屋へと戻った。
鞄の横に置いてあった紙袋からボトルひとつとリボンのかけられた包みを手に,キッチンへ向かう。
冷蔵庫を開けて牛乳の紙パックを取り出し,マグカップふたつに並々と注ぎ,リボンを解いた包みからうさぎと犬の形をしたチョコレート風味のマシュマロを取り出した。
得意先の開業医の奥方の手作りのマシュマロだった。

一護の仕事は医薬品メーカの営業で,MR(メディカル・レプレゼンタティブ/医薬情報担当者)と呼ばれている。
他業種の営業と違って自社の製品をプレゼンし取り扱って貰うのはもちろんのこと,医薬品に関する情報を医師などに提供し医薬品の適正使用を促す役目も負っている。最近では後発医薬品の普及なども著しく自社製品が他社のものと比べていかに優れているか効果や効能を詳しく説明できるだけの専門知識が必要とされていた。
といっても,同じ効能を謳った製品で,そこまできっちり差など出るものではない。
結局は顧客との信頼関係が第一となり,足繁く通い心を通わせ,自社の製品の取扱をお願いすることになる。
頻繁に通い顔を覚えて貰うと,仕事外の話もするようになり,お茶を出してくれる奥方や事務員とも言葉を交わす機会も増える。
鞄の横に置かれた紙袋の中身は,そんな女性たちからのプレゼントだった。

流石にカップに浮かべるにははみ出てしまう大きさだったので半分に千切って浮かべ,電子レンジで一分ほど加熱する。
膜が張るぎりぎりまで温められた牛乳にマシュマロが溶けて浮かんでいる。
そこに,昼過ぎに立ち寄った取引先の受付の子から貰ったチョコレートリキュールを少し垂らす。
そしてスプンでぐるりと混ぜると白いミルクにチョコレート色がきれいなマーブル模様を描いた。

湯気を立てるカップふたつを手にバルコニーへ戻る。

「お待たせ」

声をかけながら衝立越しにカップを差し出すと「わ,甘い匂い」と嬉しそうな声がした。

「ホットミルク?いや,ほっとチョコレートかな」
「チョコレートマシュマロとチョコリキュールを少し入れてある。でもチョコレートがっつり溶かしたわけじゃないからそこまで甘くねえと思うんだけど」
「リキュール。道理でいい匂いだ」

ずず,と小さな音がして「美味しい」と笑みを孕んだ声が聞こえて来た。
その声に目を細め,勝手に笑みが浮かぶ口元に煙草を押し込んで火をつけた。一口吸い付けてから自分のカップに口をつける。
マシュマロだけじゃ弱いか,とリキュールを垂らしたのは正解だった。
鼻をくすぐる湯気に混じった匂いはくらりとくるくらい甘いが,口をつけるとそうでもなく,決してしつこくないやさしい甘さにほう,と息が漏れた。

「あ,そういえば今日ってアレか。バレンタインか」

思い出した風に云う浦原に,一護は喉を鳴らして笑った。

「今思い出したみたいに云うんだな」
「だって無縁っスもん。朝から会議と納品と打合せって自席に戻る間もなく飛び回ってて,打合せの後はそのまま直帰しちゃったし」
「明日会社行ったら机の上に山できてるんじゃね?」
「え,嫌だなあソレ」

浦原の声が本気で嫌そうなのが可笑しくて,くすりと笑みを零すと「黒崎サンは偉いっスね」としみじみした声がした。

「偉い?何が?」
「こうやって貰ったの,ちゃんと食べてあげるんでしょ」
「正直貰わずに済めばそれに越したことねんだけどな。くれるもん断るわけにもいかなないし。捨てるのは気分悪ィし。来月のこと考えると気が重くなる」
「三倍返し?」
「流石に三倍は無理だけど,一応返さないと。会社の子にはテキトーなのでいいけど,問題はお客んとこで貰ったヤツがな…」

云いながらカップに目を落とす。
マシュマロをくれたのは壮年の開業医の奥方,自宅で週に何度かお菓子作りの教室を開いているという謂わばセミプロで,いつだか話の流れで一護が趣味で料理をするという話をして以来,仕事の話を終える頃を見計らって新しいお茶を出してくれその場に同席しあれこれと話しかけてくれるようになった。
顧客は地域でも評判の腕のよい医師だったが味には無頓着らしく「張り合いがないのよ」と苦笑しつつ一護相手に楽しそうに料理を話をする奥方を横目にいつもにこにこと耳を傾けている。
出入りのMRは何人かいるらしいが,中でも一際一護を気に入り取り立ててくれているのは,愛妻家所以ということらしい。
その奥方は,一護にマシュマロを渡してくれながら「来月楽しみにしてるわね。是非手作りで」と微笑んだ。
抱える顧客の中では五指に入る上得意だし,そんな風に云われて買って済ませるのは不可能に近かった。

「菓子は専門外なんだけどな…」
「え?」
「や,なんでもね。こっちの話」

云って,ホットミルクを啜ると「はー,でも本当に美味しい」としみじみした声が聞こえて来た。

「寒いところで飲むから,余計だよな」
「そうなんスかね。さっきまでずーっとコーヒー飲んでて,舌なんかすっかり麻痺したと思ってたのにじーんて滲みる心地」
「コーヒー,あんま飲み過ぎよくないぜ」
「って云いますよね。でも仕事中はどうしても」
「胃が荒れるっつーのもそうだけど,胃が荒れると口臭が酷くなったり」
「え,それほんと?」
「あぁ。浦原さんも煙草吸うだろ?普段から結構気をつけてるとは思うけど,胃が荒れるとそれだけじゃどうにもなんなくなっから気をつけた方がいい」
「うわ…,いいこと教えてもらった。ありがとうございます。気をつけよう」

真顔で云っているのが伝わってきて,一護は脅しすぎたかな,と苦笑いした。

「家で飲むならほうじ茶とかどう。冷めても味落ちないし。カフェイン入ってないと駄目?」
「んー,カフェインは錠剤でも摂るからなくても大丈夫,かな」
「錠剤…」
「あ,たまにっスよ?こう,眠気がどうしても飛ばないときとか。常用はしてないっス」
「ならいいけど。カフェイン中毒ってかなりクルから」
「あれって,慢性的に摂ってるとなるんじゃ?」
「長期に渡って摂取し続けることによって起きる慢性中毒とは別に,位置dに多量のカフェインを摂取したせいで起きる急性中毒もあんだ。最近たまに栄養ドリンクなんかの飲みすぎて,とかニュースで報道されたり聞いたことねえ?」
「あんまりテレビ観ないんで」

申し訳なさそうな声音に,一護は「まあ俺も観ないけど」と苦笑混じりの声で応えながらなるべく専門用語を省いて説明した。
カフェインによる急性中毒は一般的な成人で一時間以内に体重一キロに対して6.5mg以上摂取した場合に約半数が,17mg以上を摂取した場合はほぼ百パーセントの確率で急性症状を発生すると云われている。
浦原の体重は外見からして七十キロ台前半というところか。七十五キロと換算して,指を動かしながら暗算して487.5mg,と答えを弾き出す。
一番メジャどころのS社製のカフェインの錠剤は確か一錠で200mgの無水カフェインが含まれていたはず。

「一度に二錠以上飲んだらやばい。特に錠剤だけじゃなくて他にコーヒーや紅茶,緑茶にココアも。栄養ドリンクなんかとは一緒に飲むのは自殺行為だな」
「気をつけます。ちなみに急性中毒ってどうなっちゃうんスか?」
「落ち着きがなくなったり,緊張感なんかの感覚過敏から多弁になったり,不安や焦燥感が酷くなったり。あと不眠症。重症になると幻覚や幻聴,パニック発作も出る。他に身体へも胃痛や胸痛から嘔吐したりして消化器官がヤラレたり,動悸や息切れ。トイレ近くなったりして循環器がイカレたり。重症になると痙攣起こして瞳孔開いちまったり,頭痛も。あんまひどいと病院運ばれて胃洗浄受ける羽目になる。アレはきっついぞ…」
「こ,こわいんスね…」
「眠気覚ましってんで結構みんな気軽に摂るだろ?最近増えてんだよ。中毒っつっても不可逆性――あー後遺症とかそういうのはねえけど,対症療法しかねえから体からカフェインが抜けていくのを待って時間と共に回復待つしかねえの。ほんとに気をつけて」
「勉強になったっス。一度に二錠以上は飲まない。絶対」
「っていうか,一錠にしときなよ」
「そっスね」

少し脅しすぎたか,と思わないでもなかったが,実際一護が取り扱っている商品の中でも抗けいれん薬の発注が増えていて理由を尋ねるとそうした症状で運び込まれる患者が増えているそうなのだ。
主に重篤な状態に陥るのは慢性よりも急性中毒を起こした場合だと聞く。
流石に隣人が救急車で搬入された,とか,知らないうちに自宅で冷たくなっていた,なんてのは避けたい。
袖触れ合うも他生の縁,というし。

「にしても,黒崎サン詳しいんスね」
「今云ったことの半分くらいは箱ン中に入ってる注意書きに書いてあんだけどな」
「読んだことなかったなあ。箱の方は一回何錠ってところまでは読むんだけど」
「暇なときに読んでみるといいよ。メシ食いながらとかだと不味くなっけど」
「そうします」

会話が一段落したタイミングで,パーティション越しに手が伸ばされ空になったカップが返された。

「ホットミルクごちそうさま。美味しかったです」
「こっちこそ。つきあってくれてありがとう。寒いから風邪引かないようにな。おやすみ」
「おやすみなさい」

耳に心地良い声の後,少し間を開けて隣室の掃出し窓が閉まる音を聞いた。
一護はすっかり短くなった煙草を最後の一口,と吸い付け,カップに残った冷たくなってしまったミルクを飲み干した。
少し喋りすぎたかな,という気持ちはあったが,浦原は話を聞くのが上手いのでついつい言葉が増えてしまう。
これが飲みの場なんかだったら最悪だ,と顔を顰めた。あっという間に薀蓄たれのレッテルを貼られてしまう。気をつけないと。
空になったカップふたつをキッチンで洗いながら箱にひとつ残っていたマシュマロを口へと押し込んだ。
市販品にありがちなざらつきというかチクチクすることのないどこまでもふんわりとした甘さ。
チョコレートというより,質のよいココアの風味が口に中でふわふわと溶けていく。流石はセミプロ,というべきか。
脳裏に浮かぶ品のよい微笑に,小さく肩をすくめた。ホットミルクに溶かしてしまうのは勿体無かったかもしれない。
でも,紙袋の中に収められたいくつものチョコレートたちの中でこれが一番楽しみだったのだ。
今度会ったらお礼と,そして感想を伝えないと。
洗い終わったカップを拭いて作りつけの食器棚に仕舞っていると「ピピッピピッ」と待ちかねたアラーム音が聞こえて来た。
時刻はあと数分で午前一時。
風呂に入って一時半には寝られるようにしよう。
欠伸をかみ殺しながらバスルームへと向かった。






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