う ら さ ん ぽ
§・§・§
【一日目】
明かりを落とした部屋を立てた膝の上に載せたスマートフォンから零れる光がまだらに染めている。
流れているのは古い映画で,趣味が合わないのか笑いどころも泣きどころも見出せないままただだらだらと時間だけが過ぎていく。
時刻は午前二時を回っていた。
明日は授業は午後からだけれど,クリーニング店の配達のアルバイトが朝八時から入っていた。
六時半には起きないといけない。
燃えるごみの日だから出かける前に忘れずに出さないと。
大学生になると同時に実家を出て一人暮らしを始めて八ヶ月。
住まいは父親の知人の持ち物であるワンルームマンションを相場の半値ほどで貸してもらっている。
学費は親掛かりだけれど,その他の生活費の一切はアルバイトで賄っていた。
週三日のクリーニング店の配達のアルバイトに,夜はダイニング・バーのウェイター兼洗い場。
勿論本業の勉強も疎かにはしていない。
「暇」や「余裕」なんて言葉とは無縁の八ヶ月だった。
新しい環境に慣れるのに時間が要ったというのもあるし,特殊な事情があるとはいえ長男の身でありながら家業の医院を継げないことに引け目もあった。
ひとつひとつは些細でも,塵も積もればなんとやらで,一人になるといろいろ考えてしまいここ数日眠れない日が続いていた。
定期的に不眠に陥る傾向は子どもの頃からあった為,対処法も心得ている。
焦らないこと。眠れないなら起きていればいい。身体が音を上げれば否応なしに眠れるのだから。
生あくびをぷかりと放つ。
壁に凭れた背中が痺れていた。
けれども身体を起こすのも億劫で,目尻に浮かんだ涙を指先で払って,胡坐を掻いた右脚を立てて膝を抱えた。
小さな画面の中では主人公が遠く離れた恋人を思って涙を流している。
恋愛,なぁ。
そんなことをしている余裕はない。(そんな余裕をもってはならない)
バイトと勉強で手一杯だ。(手一杯にしていないとならない)
顔が歪む。
ここまでくると強迫観念じみている。
強迫観念とは,本人の意思と無関係に頭に浮かぶ,不快感や不安感を生じさせる観念を指す。
強迫観念の内容の多くは普通の人にも見られるものだが,普通の人がそれを大して気にせずにいられるのに対し,強迫性障害の患者の場合は,これが強く感じられたり長く続くために強い苦痛を感じている。ただし,単語や数字のようにそれ自体にはあまり意味の無いものが執拗に浮かぶ場合もある。
大学のテキストにあったくだりを思い出す。
名前のない不安や苛立ちに名前をつけた途端それは病気になる。
気持ちが沈んでいれば普段は素通りできる些細なことにも苛々するし,そんな自分に不安になったりもするだろう。
大丈夫だ。自分はまだ。まだ,というより,全然。
それにしてもつまらない映画だ。
再び込み上げた生あくびをぷかりと放とうとしたとき「ずび」と微かな音を耳が拾った。
ずび?
まるで…喩えるなら鼻を啜るような。
寒い日に空腹で駆け込んだラーメン屋で湯気のもうもうと立つラーメンを食べた直後などにやるように。
あーラーメン食いてえなあ…。
ぼんやりと,画面に目を向けたまま思考がずるずると逸れていく。
小さな画面の中では相変わらず陳腐に感じられるほどの切ない場面が繰り広げられているが,一護はラーメンのことしか考えられなくなった。
十一月になってどんどん空気が冷たくなっていき,ラーメンの美味しい時期になった。
澄んだスープの鶏がらベースの醤油ラーメン。トッピングはメンマになるとにほうれん草。海苔はあってもなくてもいい。
テーブルに備え付けてある胡椒をぱっぱっと振って,熱いところをずるずるっと食べたい。
「ずび」
熱々のラーメンへ焦がれつつあった頭がぴたりと動きを止めた。
気のせいではない。確かに聞こえた。
鼻を啜る音。
念のため自分で試したが,鼻づまりの気配は微塵もないため「すん」と音ともつかない音がしたきりだった。
気の…せい,だよな?
一人暮らしの部屋の屋根裏に他人が住み着いていた,という海外のニュースを思い出してぞっとした。
思わず天井へと目を向けるが,この家の点検口はバスルームと玄関先にしかないことは引越のときに確認している。
いやでもまさか。
脚立などないが,バスルームのならば浴槽の縁に登れば届くかもしれない。
確かめるべきか?
もし誰か居たら?
通報…騒ぎになる。部屋を貸してくれている人にも迷惑になるかもしれない。
それは困る。
が,万が一のことがあったら。
ぐるぐるといろいろなことが頭を過ぎり,気持ち悪くなってきた。
とりあえず,確かめよう。
そう思い腰を浮かしかけたとき,「ずび」と三度目の音を耳が拾った。
風呂場じゃない。天井裏でもない。近い。
はっとなって周囲を見回す。
と,一護が座るベッドの上,枕のところにちょこん,と小さな影を見つけた。
「…虫?」
思わず呟いた。
と,その声が聞こえたかのように影がこちらを振り返る。
一護は自分の目が信じられなかった。
もしかしたら眠れない眠れないと思って起きている今こそが夢なんじゃなかろうか。
じゃないととてもじゃないが,説明がつかない。
こちらを振り返った「それ」は人型をしている。
ただ,小さい。十センチくらいか?
一護の枕に腰を下ろし,片方に膝にもう一方の足首をひっかけるようにして,棒のようなものを手にしたまま後ろについて身体を支え,一護を見ている。
「虫だなんて失礼な」
「…喋った」
「そりゃ喋りますよン」
云いながら,その小さな物体――動き,喋るのだから物体とは呼ばないのか。動物?いやでもあからさまに人型をしているし。生物,なら問題ないか?
ぐるぐるぐるぐる,目が回りそうだった。
ベッドの上にぴょん,と飛び降りた「それ」はとことことこと一護の方へやってくると,「ヨイショ」と掛け声をかけて一護の膝によじ登った。
子どもの頃,友人が飼っているハムスターと遊ばせてもらったことがある。
小さな手足で身体の上を走られるのがひどくくすぐったかった。それに似た感覚。
呆然とする一護の視線の先,それはちょこちょこと一護の身体の上を移動し,立てた膝にうんしょ,よいしょ,とよじ登り始めた。
くすぐったさに振り払ってしまいたくなったので,首のところの服を摘んで膝の上へと運んだ。
「おっ!?」と声を上げた「それ」だったが,目的地らしかった立てた膝の上にちょん,と降ろすとくるりと振り返った。
「それ」と正面から目が合う。
小さいオッサンだった。
服がまず奇妙だった。甚平…いや,作務衣か?
深緑色のそれに,黒い羽織を重ねて着ている。
頭には緑と白の縞模様の帽子が載っていて,その鍔が影を作るせいで顔はよく見えない。
けれども,まるでキューピー人形のようにぽっこりした腹部は隠しようがなかったし,手にもっていた棒――どうやらステッキらしいも一護の小指の先よりも細い足先に突っ掛けた下駄といい,どう見ても「オッサン」だった。
しかも,すこぶるつきに小さい。
「コンバンハ」
「それ」もとい「小さいオッサン」は一護に向き直ると丁寧に挨拶をくれた。
一護も思わず背筋を伸ばして「こんばんは」と応えてしまう。
すると小さいオッサンがへらりと笑ったのが気配でわかった。
条件反射とは云え危機感がなさ過ぎる!一護は顔を歪めた。
だが,考えても見て欲しい。敵(かどうかはわからないが)のサイズは十センチほどだ。
掌でつぶすのは勘弁願いたいが,枕を押し付けて拘束し,ビニル袋につめて窓の外に出してしまうくらいなら容易いだろう。
……でもそのまま死なれたら寝覚めが悪い。たとえ十センチとはいえ,人型のましてや動くし喋る謎の生物だ。
袋の口は適当に解けるようにして置いた方がいいだろうか。
胡乱な視線から一護の思考を読み取ったのか場の空気を変えるように小さいオッサンが咳払いをした。
コホンコホン。
一護の思考が止まる。
唐突に歌が始まった。
タッタラ タッタラ タッタラ タッタラ
タッタラ タッタラ タッタラ タッタラ
タッタラ タッタラ タッタラ タッタラ
タッタラ タッタラ チャッ チャッ チャッ
前奏付きか。しかも長い。拳を作った右手と,ステッキを握った左手を身体の両サイドで上下させながら踊っている。
小さいオッサンはステッキを左手から右手に持ち帰ると一護の膝を蹴ってくるりと一回転を決めた。
ラ・ラ・ラ
願っちゃって願っちゃって願っちゃってーのてーーー♪
出会ったあなたは今からご主人様
使って使ってこき使え
さぁ願って叶えてひとつだけ
強欲あの子は金要求
そうボクもあげちゃう人の金
さぁねだちゃってむしっちゃってもってってのてハ・ハーーー♪
あなたの願い 叶え叶え叶えちゃいまーーす♪
余韻を残すように朗々と歌い上げ,オッサンが一護へと向き直る。
無駄にいい声だったせいもあって一護はぽかん,と見入って(聞き入って)しまっていたのに気づかれた心地がして慌てて顔を顰めた。
「どうも,ハジメマシテ。アタシは浦原喜助って云います。職業は妖精。出会えた奇跡に乾杯☆」
再びぽかん,としてしまった。
口も少し開いたかもしれない。
これはきっと夢だ。
そうだ。
つまらない映画を見ているうちにうとうとして,寝入ってしまったんだ。
夢と現実の境目を認識しないまま寝落ちたから,こんな奇妙にリアルな夢を見る。
眠れなくともやはりベッドには入るべきなのだ。
にしても,夢なら夢で,もっとマシなのはなかったのか。
深層心理の表れ?小さいオッサンが出てくる深層心理ってどんなんだ。
しかも歌って踊るオッサンとか。そんなファンキーなギャグ趣味,生まれてこの方持った覚えはない。
立てた膝の上,恭しい仕草で一礼する小さいオッサンから目が離せないまま,一護は怒涛の勢いで頭を巡らせた。
オッサンはちらり,目を上げると「大丈夫?」と小首を傾げて一護を見ている。
手にしたステッキでとんとん,と肩を叩きながら。
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