in the air.





§・§・§



3years ago...






みーんみんみんみんみん,みーんみんみんみんみん…
最初は心地良かった蝉時雨はほどなくしてただの騒音になった。

暑い…。
こめかみに伝う汗を手の甲で拭って,浦原はくぐもった咳を零した。

八月半ばの日曜日。時刻は昼を回ったところ。
つまり太陽は頭のちょうど真上から凶暴なほどの日差しを叩きつけてくる時間帯なわけで。

我ながらばかだった。そう思う。
思うがしかし,動けないものは仕方がない。

拙い。これは,かなり拙い。
せめて電話…と動きの鈍い腕を持ち上げかけて,あるべき場所にポケットがないことに気づく。
当たり前だ。白衣は職場の中でしか着ていない。どうせ昼を買いに出るだけだから,とポケットに携帯を入れたまま脱いで,自席の椅子の背に引っ掛けたまま来てしまった。
悉くツイていない。自業自得といえばそれまでだけれど,こんな弱った身で自分を責めて何になる。

せめて水分を,と思い自動販売機を視線で探すが,たった数十メートルの距離が途方もなく遠く感じられた。
あそこまで歩けるか。無理な気がする。ていうか,蜃気楼じゃないの。砂漠でオアシスの幻を見るような。
ばかな考えばかりが頭の中を巡り,身体はぴくりとも動かない。
自分の身体が濡れた砂の詰まった麻袋かなにかのように感じられ,息をするだけでごっそりと体力が削られる心地がした。

嗚呼…。
どうしよう。こんなことなら,飽きたとか,体温調整とか,ばかなことは考えず職場の三件隣のコンビニで買って済ませればよかった。
体温調整なら食事を終えた後屋上に上がって煙草でも吸えばよかったんだ。

一日中エアコンの風に晒されていることから来る冷え性じみた症状を何とかしたくて,外に出てきたのだけれど明らかな失敗だった。
元から仕事の疲労と,寝不足とで軽い夏バテの症状が出ていたのだ。
食欲は軒並み落ちて,脳の栄養不足を賄うのにブドウ糖のタブレットを口に放り込むような始末。
朝は栄養ドリンク。夜は栄養補助食品。顔色か少し落ちた体重のせいか,おせっかいな上司に突っ込まれ必要最低限のカロリは摂っている,と説明したら鰻屋を予約されそうになった。
美味いものは好きだ。三十路半ばの独身,特定の恋人もなしともなれば金を使うところなど限られていて夕食は近所の割烹で晩酌がてら済ませたりする。
だけれど,こんな体調で鰻はきつすぎる。
始業前の慌しいときだったので,有耶無耶に言葉を濁して逃げ,昼は声を掛けられる前に外に出た。
その結果がこれだ。

「…参ったなァ」

呟く声は自分でも呆れるくらいにヨレていた。
座っているのは,駅前の広場のど真ん中に設えられた噴水を取り囲むベンチのひとつだった。
同じように並ぶベンチには駅から出てきて鞄の荷物を整理しているご婦人がひとり居るきり。
それもすぐに立ち去った。当たり前だ。こんな日差しの中,せめて背後の噴水が動いていてくれたら少しは違うかもしれないが,不幸なことに雨不足だか節電だかで止まっていた。

暑い。
暑い。
頭が,くらくらする。
本格的に拙いかもしれない。
「熱中症」の三文字が現実味を持って迫ってくる。
せめて日陰に。
そう思うのに,脚に力が入らない。
こんなところで倒れたら,午後の講義が…。

焦りに顔を歪めた刹那,目の前に影が差した。
そして,視界に青い色が。
何,と顔を上げると「あんた,大丈夫か」と声をかけられた。
太陽を背に見下ろす顔には覚えがあった。
浦原がここにやって来たときから居た,チラシ配りの青年だ。
駅前を行き来する人に声をかけ,手にしたチラシを配っていた。
年の頃は二十代半ばだろうか。ただのフリーターにしては,身形のよい青年だった。
こざっぱりした服に身を包み,頭の天辺から照りつける日差しに鮮やかなオレンジ色の髪が映え,暑さなどまるで気にならないような溌剌さがあった。
「若いっていいなァ…」などと眺めていたのだけれど。

「飲める?」

そう云われて,差し出された青色がスポーツ飲料のボトルであることに気が付いた。
答えに詰まっていると,自分の飲んでいたボトルを小脇に抱え,差し出したボトルを一度引っ込めると封を切ってから渡してくれた。

「…アリガトウ,ゴザイマス」
「こんなところにずっと居たら,熱中症になっちまうぞ」
「実は,なりかけて」
「あ?」
「一度腰を下ろしたら立てなくなっちゃって…。せめて水分をって思ったんスけど,自販機まで歩ける気がしなくって」
「あんた,アホか!」

喋るよりまず飲め!冷たいから一気に飲むなよ。少しずつな。飲んだら少しじっとしてろ!
捲くし立てるように叱られて,呆然としているうちに青年はどこかへ走っていった。

若いっていいなァ…。
先ほど口にした台詞を,胸の裡で繰り返す。
一口飲んだスポーツ飲料の甘さと冷たさは,干からびそうになっていた浦原にあっという間に滲み込んだ。
喉を鳴らして飲み干したかったが「一気に飲むなよ!」という青年の言葉に従って,一口ずつゆっくりと飲む。
ぶれ気味だった視界がようやく静止するころ,コンビニの袋を提げた青年が戻ってきた。

「大丈夫か」
「おかげさまで…。スポーツドリンクがこんなに美味しいものだなんて知らなかった」
「バッカ。そんだけ身体がヤラレてるってことだろ。コレも使え」

パシ,と音がして青いぐにぐにしたものを渡される。
それは手の中であっという間に冷たくなった。
パッケジの表面には「パンチ・クール」「熱中症対策」「食べられません」の文字が並んでいた。
さっきの音は袋状のパッケジを叩いて内包される袋を破いた音らしい。

「首の後ろにそれ当てとけ。足りなかったらもう一個あるから」

仕草で示され,云われたとおりに保冷剤を当てるとぞく,と寒気がしたのも一瞬。
身体の芯に篭っていた嫌な寒気は逆にほどけて消えていく心地がした。

手で保冷剤を押さえたままずるずるとベンチの背に凭れかかる。

「きもちいい…」

思わず解けた声が出た。
目を閉じて冷たさに浸っていると,パシ,ともう一度音がして,閉じた瞼の上にもつめたい塊を載せられた。

落ちないように押さえてくれる手に甘えたまま,数分。
首の後ろの保冷剤が温くなる頃にはすっかり調子を取り戻すことができた。

「アリガトウゴザイマス。助かりました」

ほどけた声で礼を云うと,心配そうに覗き込んでいた青年の表情がほんの少し緩んだように見えた。

「気をつけろよ。自殺行為だぜ」
「身に滲みました。冷房の空気が嫌で外に出てきたんスけど,まさかあんな短時間で熱中症になるなんて」

改めて礼を云い,スポーツドリンクと保冷剤の代金を支払いたい旨口にすると,途端に青年の眉間に皺が寄った。

「別にいいって。俺が勝手にしたことだし。つーか,店にレシート投げてきちまって値段も覚えてねえから」
「でも…」

流石にそんなわけには,と浦原が言い募ると,青年は腰からぶら下げたバッグへと手をやり「それならコレ」と先ほど道行く人々に配っていたチラシを差し出した。

「先週オープンしたんだ。もし行き着け決まってなかったら今度寄ってみて」

つるりとしたコート紙には一面粒子の粗いモノクロの写真が印刷されていた。
手書きっぽいフォントで記された文字は「salon de mono-chrome」と読める。
地図は浦原の職場から程近い場所に星型の印がつけられていた。

「美容室?」
「そ。二人でやってる小さい店だけど,今ンとこ予約もそんな入ってねえから,ぶらっと寄ってもらっても大丈夫なんで」

営業時間は朝の十時から夜の八時まで。カラーとパーマの場合はその一時間前が締切。
定休日は火曜日。
チラシに記されている内容を頭に刻み込むように読み取った後,顔を上げて青年を見た。

「是非」

え,と青年の目が見開かれる。

「たぶん,一週間後くらいになると思うんスけど,是非寄らせて頂きますねン」

浦原の言葉に,見開かれていた目がすう,と細められ嬉しそうな笑顔になった。

「お待ちしてます」

きっと営業用なのだろう。耳に心地のよい声で丁寧に返され,浦原は微笑んだ。

「あの,お名前お聞きしても?」
「名前?俺の?」
「お店を訪ねたときに,」
「あー,まあわざわざ指名してもらうようなアレもないんだけど,な。さっきも云ったけど二人だけでやってる小さい店だから」

いいながらも青年はチラシを筒状に丸めて突っ込んであるバッグの下,半端な丈のチノパンツの尻ポケットから名刺入れを取り出すと,一枚渡してくれた。
黒い紙片には白い文字で店の名前と「黒崎一護」と記され,漢字の上にはアルファベットで「Ichigo Kurosaki」とルビが振られていた。

「クロサキ…イチゴ,さん?」

名を呼ぶと,青年の目が驚かれた風に見開かれた。

「初対面でそう読めたの,あんたで二人目だ」
「え,でもココにルビが」
「発音。名前の方,みんな苺とおんなじ読み方すんだよ」

顰め面でそう云われ,なるほど,と腑に落ちた。
確かに字面だけみれば「イチゴ」=「苺」となるかもしれない。
浦原が口にした読み方は「苺」ではなく「越後」に近い。
文字由来の読み方をしただけなのだけれど。

「黒崎サン。本当にお世話になりました。おかげで仕事に戻れそうっス」
「あんま無理すんなよ。職場どこだかわかんねえけど,やばそうならタクシー使って戻った方がいい」
「そうします。お礼は今度お店に寄らせて貰ったときに改めて」
「髪切らせてもらえれば,礼なんてそれで十分だって」

眉間に皺を寄せたまま笑う顔に,思わず視線が釘付けになる。
何,と云う風に首を傾げられ「いえ」と慌てて首を横に振った。

掴まえたタクシーに乗り込むと,貰ったチラシを改めて広げた。
名刺の方は折れないように大切に財布の中にしまった。
黒崎サン。黒崎,一護サン。
美容師さんだったなんて。
姿のよいひとだ,と思ったけれど,職業を消けば納得だった。
お洒落な職業なのに,全身安物で見るからによれっとした自分にも声をかけてくれて。
いつから自分の存在に気づいていたんだろう。
浮浪者と間違えられなくてよかった…。
顎に触れると,三日サボった結果の無精髭の感触があった。

ちょうど一週間後は夏期講習の中休みで,浦原も二日連休が摂れることになっていた。
出勤はしなくてもどうせ講習後期の準備で寝たいだけ寝たら後はだらだらと仕事をして過ごす羽目になるんだろう,と思っていたのだけれど,思わぬ予定ができた。
知らず知らずのうちに口元に笑みが浮かんでいた。
ガード下に差し掛かったせいで窓ガラスに自分の顔が映り,浦原はそのことに気が付いた。
窓から目を逸らし,シートに深く背を預け目を瞑る。
瞼の裏にはまるで花のような鮮やかな彩があった。

美容室で髪を切るなど,何年ぶりだろう。
転職してからはずっと面倒で伸ばしっぱなしか鬱陶しくなると自分で適当に切っていた。
わざわざ店を探していくのが億劫だったし,生来の癖っ毛のせいで適当に切ってもなんとなくそれっぽく見えるので不便はなかったのだけれど。
とりあえず。
職場に戻ったらおせっかいな上司を捕まえて明日の昼は鰻を奢って貰おう。
来週店を訪ねたときには少しでもマシな姿を見せられるように。






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