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§・§・§
月が変わり浦原は高校二年生に進級した。
クラス替えはあったものの,成績順に割り振られる為顔ぶれに大した変化はない。
出席番号順に決められた席は廊下側の後ろから二番目。
せっかく陽気のよい季節なのだから窓際がよかった,とそれだけが不満だった。
新学年になって最初の学力テストが始まり,昼で学校が終わると浦原はいそいそとバスに乗り込んだ。
青白い顔をしてテスト勉強に励むクラスメイトもいるが,浦原は至って暢気なものだった。
成績は上の中。トップを目指したいという欲はまったくなかったし,現状をキープするだけなら夜に二時間も復習すれば事足りる。
そんなことより半日で放校になるということはその分長い時間をアルバイト先で過ごせるということで,浦原にとってはそちらの方がよほど重要だった。
バスの最後列の窓際の席に腰を下ろし,そわそわしながら窓の外を流れる景色を眺める。
金色の粒に彩られたような初夏の景色。八百屋の店先に積まれた野菜や果物がやけに鮮やかに目に映る。
しばらく後バスが高架下へと差し掛かり,窓の外が暗くなったせいで硝子に映るにやけたじぶんの顔と思いきり目が合ってしまった。
誰に見られ入るわけでもないのに頬がかっと熱くなる。
窓から目を逸らし正面を向く。
昼時のバスは空いていて,停留所の案内もどこか長閑に響く。
ピアノ教室まではあと三つ分。
――黒崎サン,もう来てるかな。
脳裏に浮かぶ鮮やかな彩に無意識にまたふにゃりと頬が緩んだ。
「オハヨーゴザイマス」
ロッカに鞄を置き,事務室へと顔を出すと自分の席で耳かきを使っていた京楽が顔を上げた。
「おはよう。今日は随分と早いね」
「今日からテストなもんで,半日で終わっちゃうんスよ」
「テストかあ。懐かしい響きだね。でも大丈夫なのかい?」
「春休みの課題の範囲がメインなんで,一通りは頭に入ってるし」
「賢いんだねえ,喜助くんは」
目元を綻ばせて云う京楽に嫌味は皆無だ。
褒められたこそばゆさに苦笑しながら,「郵便物取ってきますね」と浦原はその場を逃げ出した。
事務所を出るときちらりと黒崎の席を見たが,いつもなら置いてある車のキィ・ケースがなかった。
まだやってきていないんだろうか?それとも外出している?あ,お昼か。
午後一番のレッスンは一時からの予定となっており,まだ二十分ほど時間がある。
郵便物を整理して午後イチのレッスンが始まったら鞄の中に入れっぱなしのカロリーメイトを食べよう。
そんなことを考えながらポストに向かう。
蓋を開けるといつものことながら溢れるように郵便物が落ちてくる。
ほとんどがダイレクト・メールの類だけれど,その中でもスコアのものなどは一応京楽と他の講師陣の目を通してもらうことになっていた。
封筒の束を抱えて事務所に戻ると,京楽は他に人がいないのをよいことにデスクに脚を上げて電話をしていた。
浦原は抱えた封筒の束をデスクの上に置きながら今日のスケジュール予定が書かれたホワイトボードを振り返る。
午後一番にレッスンの予定が入っているのは一人きりだった。
1とナンバリングされたドアは既に閉められている。
無人のときは必ずドアは開けてあるので,既に講師が中で準備に取り掛かっているらしい。
気になったのはもちろん黒崎の欄。
午前中のレッスンには斜線が引かれていた。午後一番のレッスンにも。
何かあったんだろうか?
気になるものの,事情を尋ねられる京楽は未だ電話中だ。
浦原は落ち着かない気分のまま郵便物の処理に取り掛かった。
楽器店からのもの,譜面を扱う業者からのもの,調律師の派遣協会からのもの。
業務に関係するものに混じって新築マンションの案内に産地直送の野菜や果物の案内。果ては墓地の新規募集まで。
不要なものは封を切らずにゴミ箱に放り込む。
嵩はあっという間に四分の一になった。
あて先が講師になっているものはそれぞれのデスクに,最後に店宛となっているものを抱えて京楽の席へと向かった。
「――うん,こっちのことは気にしないでいいからたまにはゆっくり休みなよ。大丈夫,生徒さんにも連絡しておくし。くれぐれも無茶はしないようにね」
労わるような声を耳が拾い,浦原はちらりと京楽を見た。
誰と話してるんだろう。
「それじゃあお大事に」
云って,コードレスの受話器がデスクに戻される。ふぅ,とため息を吐いた京楽は,物問い顔で自分を見つめている浦原の視線に気付くと「一護くん,風邪だってさ」と云った。
「え,風邪?」
「ほら,ここのところ二,三日調子悪そうにしてたじゃない。ずーっと咳止めドロップ持って歩いてたし」
云われてみれば,思い当たる節がいくつもあった。
黒崎の傍に行くと感じる甘い匂い。
愛用の香水と,煙草に混じって馴染みのない匂いがしていた。
微かに薬臭いような。アレは咳止めドロップの匂いだったのか。
いつにも増して口数が減っていた。
仕事が忙しいのだろう,と遠慮して浦原もあまり話しかけずにおいたのだけれど,具合が悪かったなんて。
「熱はさほどでもないらしいんだけど,喉がイカれちゃって酷い声してたよ。昔から気管支があんまり強くないんだよね。一護くん」
そんなわけで午後のレッスン予定の生徒さんたちに講師都合によりレッスンお休みさせて貰う旨連絡頼んでいいかな。
京楽の声に頷きながらも,浦原の頭の中は黒崎のことで一杯だった。
もしかして黒崎の口数が少なかったのは,喉が辛かったのと,それ以上に自分に風邪を感染さないようにするためだったのかもしれない。
もっと早く気付いていれば。
そう思うものの,実際に気付いていたところでできることなど高が知れている。
酷い声をしてたって。大丈夫なのだろうか。
黒崎サン,一人暮らしだって。薬とか,食べ物とかあるのかな。
名簿を捲って記された電話番号に連絡する間も浦原は気になって仕方がなかった。
態度には出していないつもりだったのだけれど,そんな上の空の様子を京楽にはしっかり見られていたらしい。
午後三時を回ったところで「あ,このスコア」とクリアファイルに入った譜面を手に京楽が浦原を見た。
「これ,一護くんが頼んでたヤツだ。なんか急ぎの仕事で使うらしいんだよね」
急ぎの仕事,というのはピアノ教室の仕事ではなく黒崎が個人で請け負っている仕事の方を指す。
聞けば黒崎はピアノ教室の講師として働く傍らスタジオ・ミュージシャンとしても登録していて掛け持ちで仕事をしているらしい。
「喜助くん,これ一護くんに届けてくれない?」
「え,」
浦原は唐突な言葉に驚いて返す言葉を見失った。
「ボクが行ってもいいんだけど,そうすると夜になっちゃうし。スポーツドリンクでも買ってお見舞いがてら頼むよ」
「でもあの,黒崎サンち知らないし」
「あー,地図書くね。お金払うからタクシー使って」
メモ用紙に住所とマンションの名前,それから簡単な地図を描いて貰い,浦原は背中を押されるようにピアノ教室を出た。
手にはスコアの収められた封筒を抱えて。
駅へと向かう途中で拾ったタクシーに乗り込むと,十分足らずで黒崎の住む町内に入った。
浦原は道の先にドラッグ・ストアの看板を見つけるとその前でタクシーを停めてもらうよう運転手に頼んだ。
代金を払ってタクシーを降りドラッグストアに向かう。
自分が風邪を引いたときに欲しくなるものを考えながらスポーツ飲料と栄養ドリンクを買い込む。
ゼリータイプの栄養補助食品も手にとりかけたが,迷った末に棚へと戻した。
ドラッグストアを出ると,地図を頼りに黒崎の住むマンションに向かった。
辿り着いたのはこげ茶色のタイル張りの瀟洒なマンションだった。
メモによると部屋は二階。エントランスはあるものの,オートロックの設備はないので浦原はそのまま部屋へと向かった。
心臓が馬鹿みたいにどきどきする。
もし,寝ていたらどうしよう。邪魔したら悪いし,でも,届け物もあるし。
それよりも具合は大丈夫なんだろうか。
熱は?酷い声をしていた,と京楽が云っていたけれど,煙草吸って更に悪化させてたりしないだろうか。
ヘヴィ・スモーカというより,チェーン・スモーカなのだ,というのは黒崎本人の言。
ピアノ教室に詰めているときは極力吸わないようにしているが,それでもレッスンにぽかりと空きができたりすると三階の物置部屋でこっそり吸っているのを知っていた。
家には至るところに灰皿が置いてあるらしい。
風邪のときくらいは控えていてくれるといいのだけれど。
初めて尋ねる不安と,それから体調への心配で顔を曇らせたまま浦原は201のプレートが掛かったドアの前に立った。
インタフォンに指を寄せ,そのまま動けなくなる。
とりあえず,一度押してみて,少し待って応答がなかったら帰ろう。
寝ているかもしれないし。起こしてしまったら悪い。
じ,と釦を見据え,添えた指に力を入れる。
閉ざされたドアの向こうでチャイムが響くのが聞こえた。
少し待って,というものの,どれくらい待てばいいのだろう。
ドアを見つめたまま動けなくなる。
どうしよう。どうしたら。
浦原は押してしまってから途方に暮れた。
がちゃり,唐突にドアが開いた。
驚いて「ひっ!」と素っ頓狂な声が出てしまった。
開いたドアから顔を覗かせたのは,黒崎ではなかった。
浦原は混乱した。
「誰だ,お前」
それはこっちが聞きたい。
京楽に貰ったメモが間違っていたのだろうか。それとも自分が部屋を間違えた?
そのとき,ドアの横に掲げられている表札に気がついた。
そこに刻まれた文字はKurosakiとなっている。間違えたわけではなさそうだった。
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