恋は鍵屋をあざ笑う
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地下鉄の出口へと続く階段を一段抜かしで駆け上がると,どんよりと曇った空の下に出た。
そう云えば地下鉄のドアの上に設えられたモニタで流れる天気予報で気象庁が梅雨入りを宣言した,と流れていたっけ。
ここ数日こんな降りそうで,でもぎりぎり降らずに持ちこたえるという日が続いていた為,やっとか,と安堵にも似た気持ちがした。
とはいえ,一護は雨が好きではない。
遠い記憶。大切な掌を失った日の,痛みの記憶。
それと,偏頭痛。
憂鬱な一ヶ月が始まるのか,と空を見上げてため息を吐くと,角を曲がって緩やかに蛇行しながら続く坂を昇り始めた。
香ばしいにおいを漂わせる天然酵母のパン屋に,古びた建物のおにぎり屋,映画に出てくるダイナーのようなカフェに生パスタの専門店,それからコーヒー屋。
その合間に床屋やかばん屋が並ぶ,賑やかな通り。
狭い歩道は下ってくる自転車とすれ違えないほどで,その都度足を止めて道の端に避けることになる。
一護が週に二度この街に通ってくるようになって二ヶ月が経とうとしていた。
自分の用件ではない。父親の遣いだ。
この坂を上りきったところにある小さな診療所の院長が父親の知己だそうで,書類のやりとりをするのにそれまで使っていた宅配便の代わりに息子の一護が駆りだされることになった。
一護の住む街とこの街の丁度中間に一護が通う高校があって,そこまで通学定期があるから往復の交通費が安く済む,というのがその理由だった。
とはいえ,遣いを引き受けるのと交換条件に月の小遣いがそれまでの倍に上がったわけで,意味なくね?と思うのだったがそこは口を噤むことにして,一護は月曜と木曜の週二回,この街へと通っていた。
だらだらと続く坂の中ほどにあるコーヒー屋――看板によればエスプレッソを専門に扱う店らしい――の前で坂を下ってくる自転車を二台避けた。
間隔を開けてもう一台下ってくるのが見えたので,その場で足を止めたまま,見るともなしに店の中を覗き込むと,窓際の席に座るひとりの客と目が合った。
テーブルの上に新聞を広げて頬杖をついていた客は,一護と目が合うとにこりと笑った。
一護は咄嗟に顔を強張らせて視線を逸らした。
不躾だ,とすぐに後悔したけれど,時既に遅し。
近づいて来た自転車が坂を下っていくのを待って,そのまま歩き出した。
頬が熱い。
変に思われなかっただろうか,と思ったが,思わないはずもない,と思い直して気が重くなった。
でも,他にどうするべきだったのか。
笑い返す,なんて芸当は自分には無理だ。
度派手なオレンジ色の髪のせいもあって,一護の大人受けはすこぶる悪い。
大概の大人は一護を見ると目を見開き,それから眉を顰める。
学生の身でありながら,親から貰った大事な身体を損なうばか者だ,という風に見えるらしい。
一護に言わせれば髪は地毛で,それを大人の目に真っ当に映る色に染める方が「親から貰った大事な身体を損なう行為」に他ならないのだが,そんな一護の言い分に耳を傾けるような大人にはついぞ出会ったことがない。
だから,見知らぬ大人と目が合うと,自然と眉間に皺が寄るようになってしまった。そしてそのまま顔を背ける。
でも,さっきの人は。
なんで笑ったんだろう。
足に力を入れて,一歩一歩踏みしめるように坂を上りながら,一護は後ろに過ぎ去ってしまったコーヒー屋を振り返りたい衝動に駆られた。
若い男だった。でも,学生には見えなかった。
顔の造作はよく覚えていないけれども,笑った顔はやさしかったように思える。馬鹿にされたり,そういう嫌な感じは受けなかった。
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