ゆるゆると。
§・§・§
出先から直帰の許可を貰い,いつもより一時間ほど早い時間に地元の駅へと降り立った。
偏頭痛が酷い。
定期入れにいつも常備している鎮痛剤は昼で飲み切ってしまった。
頭痛が限度を越えると吐き気を催す,というのを知ったのはいつだっただろう。
自慢にもならないそんな知識,どこでひけらかすつもりなんだ。
何はともあれ,今日はもう帰れる。
コンビニに寄って晩飯を買い込んで――否,洗濯機だ。洗濯機を回さないと明日の分はあっても明後日着る下着がない。
それもコンビニか。
最近のコンビニは本当に何でも売ってるから便利だよな…。
視界の端に明かりの点った自社系列のコーヒーショップの看板が目に入ったが,とてもじゃないが顔を出す余裕はない。
階段を降りきったところで太いため息を吐いて,本屋と駐輪場の間の路地へと足を踏み入れた。
三月上旬。
日中はうっすら汗ばむほど暖かい日もあるが,日が沈むと一気に気温が下がり,マフラーすら恋しくなる。
首筋を撫でる冷たい夜風にぞくりと背筋を震わせながら,一護は真っ直ぐに家路を辿った。
駅から十五分。築十五年の古アパートは商店街を抜けて更に十分ほど歩いた先にある。
商店街と云っても近隣に次々建設されるスーパーマーケットに押され気味で,シャッターが閉まったきりの店もちらほら見える寂れた商店街だ。
一護も八百屋の店先に艶やかな林檎を見れば買ってみようか,という気にもなるが,常連らしい主婦と店の親父が話しこんでる様を見ると邪魔をするのも忍びない,と自分に言い訳するようにそのまま通り過ぎ隣のスーパーのドアを潜ってしまう。
ビニル袋に詰められた林檎は四個で三百円。蜜などというものには程遠く,おせじにも美味しいと云えるものではないと買う前からわかっているのだけれど。
全ては便利さが先に立つ,とそういうことか。
ずきずきと痛む頭を巡るあれこれは建設的とは程遠く,もういっそ黙れ!と自分に自分で癇癪を起こしそうになる。
とにかく,この頭痛だ。
鞄を右手から左手に持ち替えて,痛むこめかみに触れようとしたとき,つきん,と太い棘が突き刺さるような痛みを感じて一護は呻いた。
頭痛だけじゃなかった。腕もだ。
腕,というか肩と云うか,いっそ背中全部と云おうか。
とにかくその辺り一面の不調は随分前から自覚していた。
肩こりだとか痛いだとかを通り越して,最近では感覚がなくなるほどだった。
それでも熱いシャワーをしばらく当てて一晩ぐっすり眠ればなんとか次の日も動ける。
なまじ動けてしまうから不調を放置するのだけれど。
わかってはいても医者に見てもらう時間は――とため息を吐いて顔を上げた先に点る看板を見て一護の足が止まった。
ダークグリーンのテントに白抜きで書かれた文字は「浦原整骨院」。
腰痛,神経痛,捻挫,骨接ぎ,などと治療項目が書かれている。
一護は感覚のない肩と,さっき感じた突き刺さるような痛みを思い出してテントの下の硝子戸の向こうを窺うようにじっと見つめた。
待っている患者は居ないようだった。
診療時間は朝の九時から夜の八時まで。
コートのポケットから取り出した携帯電話で時間を確認すると七時半までまだ少し間があった。
携帯電話のフラップを閉じ,ポケットに戻そうとするとまた肩がつきん,と痛んだ。
一護は呻く代わりに顔を歪めて痛みを遣り過ごすと身体の向きを変えダークグリンのテントの下の硝子戸を潜った。
こじんまりした院内は天井近くにテレビが据え付けられNHKのニュースが流れている。
テレビの下には町内のお知らせや「骨接ぎだより」と書かれた業界紙(?)のようなものが提げられ,その下の本棚には女性週刊誌や週刊の少年漫画のバックナンバが数冊ずつ並んでいる。
「イラッシャイマセ」
カウンタの向こうからかけられた声にびく,と肩を揺らしながら顔を挙げると,白衣姿の一護より少し年嵩の男が目に入った。
男は白いシーツのかけられた治療台に横たわる患者の背を指圧しながら「少々お待ちください」と耳に心地良く響く声で云った。
待つのならばいっそ出直そうか,と思った一護だったが,「コート,よかったら横のハンガー使ってくださいね」と云われ,思わず頷いてしまい結局そのままコートを脱いで合皮張りのソファに腰を下ろすことになってしまった。
テレビから聴こえてくるG20の国際会議がどうとか,そんなニュースを聞き流しながら本棚にあった漫画本を一冊引き抜いてページを捲る。
繁華街の片隅で深夜の間だけ開く食堂を舞台にしたその漫画は,お世辞にも上手いと云える絵ではなかったがどことなく味があって,また出てくる料理がどれもこれも美味そうで思わず生唾がこみ上げてくる。
ごくり,と喉を鳴らして飲み下しながらページを捲っていると,「先生,いつもありがとね。すっかり軽くなったよ」としみじみした声が聞こえて来た。
どうやら先客の治療が終わったらしい。
「ハイ,じゃあ佐藤サン今日も四百円で」
「んじゃ,これで丁度ね。あ,それから先生,これうちの女房の実家から送られてきたもんなんだ。少しだけど食べてよ」
「カステラっスか?いつもいつもスミマセン」
「何云ってんだよ。先生のおかげで大分腰痛マシになって,女房の機嫌も急上昇ってね」
「佐藤サン,若いなあ…」
「冗談だって」
げらげらと豪快に笑いながら先客が出て行くと,白衣姿の「先生」は漸く一護に向き直った。
「お待たせしちゃってスミマセンね。ええと…初めての方っスよね」
「あ,はい」
一護は膝の上に開いていた漫画を閉じて本棚に戻すと慌てて立ち上がった。
「でしたらお手数ですけどコチラにお名前とフリガナ,それから生年月日を。あと保険証はお持ちっスか」
一護は頷きながら財布から保険証を取り出し「先生」に渡すとボールペンを受け取りカルテと思しき用紙に名前と生年月日を記入した。
「クロサキ,イチゴさん。書き終わったらどうぞコチラへ」
先を行く健康サンダルの後に続いて治療室へと足を踏み入れる。
学生時代保健室にあったようなカーテンで間仕切りがされたベッドが三つ,あとは医療器具なんだろうか。機械仕掛けのベッドがひとつ。
奥の扉には「お手洗い」とプレートが張られ,その横には木製のビーズが連ねられた暖簾の下がった入口があった。休憩室かなにかだろうか?
そんなことを考えながら一護は真ん中のベッドへと案内された。
先生の手がベッドの下から籠を取り出し,上着と鞄と眼鏡,それから腕時計をはずしておくようにと指示された。
シャツ姿になって,ベッドに腰を下ろすと,隣のベッドに先生が腰を下ろしぺこりと会釈してきた。
釣られて一護も会釈とすると,また肩がつきん,と痛んだ。
「ええと,黒崎サン。今日はどうされました?」
最初に聞いたときも思ったが,先生の話す声はひどく耳に心地良い声だった。
一護は言葉少なに腕と肩と背中の不調を説明し,ここ一週間ばかりは腕を動かすと太い棘が突き刺さるような痛みがあることを訴えた。
頷きながら聞いていた先生は,立ち上がると一護にベッドにうつ伏せになるように指示し,ベッドの足許の壁際に据え付けられた機械の横の棚から板状のものを持ってきた。
そしてそれをうつ伏せに横たわった一護の背中に乗せ,ベルトのようなものを襷掛けに回して固定した。
ベッドの胸の下と額の位置にはクッションが当てられ,横を向かずにうつ伏せになれるようになっていた。
これから何をされるんだ,と不安が脳裏を過ぎったとき,頭の上で再び先生の声がした。
「まずは温めて血行をよくしてからほぐしていきますね。十五分ほどこのままで。苦しかったりしたら云ってください」
程なくしてぶいーん,と背中に載せられた板が振動しだした。
同時に少しずつ温まっていき,まるでほかほかの布団に入っているような心地がした。
治療室の中はずっとAMのラジオがかかっていて,一護はタイトルも知らないような歌謡曲が流れていたが,それがふっと止むと耳に心地良いR&Bに変わった。
治療室にいる患者は一護ひとりで,もしかしたら気を使ってくれたのかな,と気になったが,一曲を聴き終えるより先に一護はうとうとと眠ってしまった。
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