SWINGS AND ROUNDABOUTS
extra
§・§・§
二週間ぶりに訪れるマンションのエントランスで,一護は小さく深呼吸を繰り返していた。
会うのは約十日ぶり。
十日前の金曜日の深夜,一護が眠れずに課題をやっていると携帯電話が振動した。
フラップを跳ね上げると,ディスプレイに映ったのは「浦原」の文字。慌てて電話に出ると,酷く疲れた浦原の声がした。
「一護サン?」
「って,どうしたんだよ。こんな夜中に」
「いや,ちょっと疲れちゃって」
「お前,声変だぞ」
「少し,会える?」
「は?お前今何時だと」
「すぐ近所にいるの。顔見るだけでいいから…」
浦原が最後まで云い終わる前に,一護は電話を切って立ち上がった。
下だけジーンズに履き替え,寝巻きのパーカの上からコートを着込む。
首にぐるりとマフラーを巻きつけて,そのままそっと家を抜け出した。
玄関から出ると,家の前の通り先に,見覚えのある車が停まっていた。
そして,その傍らにぽつん,と立ち尽くす浦原。
思わず駆け寄ると,浦原がゆっくりとした動作で振り返り,一護が口を開くより先に強く抱きしめられた。
「…何かあったのか」
「仕事で,ちょっと」
「揉めてるのか」
「いえ,面倒なことになってるだけで」
「それを揉めてるって云うんじゃねえのか。普通は」
何があったのか気になったが,それを浦原が語ることはない,とわかっていた。
浦原の客と云うのは一般的に「やくざ」と呼ばれる業種の人間たちで,そういう人間に絡む話をすることを浦原は嫌っていた。
浦原の客のうち何人かとは一護も交流があったが,浦原が口を噤むということは一護に聞かせたくない内容の仕事なのだろう,と察して一護は黙った。
代わりに腕を伸ばして浦原の背中に回す。
そのままぎゅ,と力を篭めると,腕の中で浦原が小さく息を吐くのがわかった。
「…あんまり無理すんなよ」
一護の言葉に,浦原は応えなかった。
諾も,否もなく,ただ「ありがとう」とだけ,泣きたくなるほど頼りない声で囁いた。
そのことがあったから,今日の誘いを受けたときに一護にしては珍しく二つ返事で応じたのだった。
浦原には云っていなかったが外泊の許可も取り付けてあった。
407と浦原の部屋のナンバーを打ち込み,呼出釦を押す。
するとしばらくの後,ランプがグリンに代わり「どうぞ」と声がした。
開いた自動ドアの隙間を潜り抜けるようにして足早にエレベータを目指す。
ちょうど停まっていたエレベータに乗り込み,四階の釦を押すと,両手をコートのポケットに突っ込み,階数表示が増えていくのをじっと見守った。
エレベータが止まる。
ワイヤ入りの強化硝子の向こうに浦原の姿を見つけて,一護は顔を顰めた。
下はわからないけれど,硝子の向こうの浦原は上着も着ずにネクタイを外したシャツ一枚の姿だった。
ドアが開くのを待って「お前,そんな格好で」と文句を云おうとすると,云い終わるより先に抱き寄せられた。
「会いたかった」
「わ,わかったから,とりあえず離せ。お前ここどこだと思ってんだ」
「誰もいないのは確認済みっス。だから大丈夫」
「そういう問題じゃねえ!今居なくたって出てきたらどうする!」
云いながら浦原のシャツの袖を何度も引っ張ると,漸く腕の力が抜けた。
「っつーかお前風邪引くぞそんな格好で」
「だって,早く会いたかったんスもん」
「さっさと部屋もどれ馬鹿」
云いながらも,顔が赤くなっている自覚はあった。
それを隠すようにマフラを引き上げ,一護はずかずかと通路を進んだ。
部屋の中はほどよく空調が行き渡り,一護はほっとしながらコートを脱いだ。
ソファの上には浦原が脱いだコートとスーツの上着が放り出されている。
その横の床には蓋の開けられた鞄も。
「帰ったばっかだったのか?」
「いえ,草臥れてちょっとソファに座ったらうとうとしちゃって」
「昨日,寝てねえのか」
「最後の詰めで,ちょっとね」
「電話してきたときまだ仕事終わってなかったのか」
一護が顔を顰めると,浦原が困った風に眉を下げて,それからゆっくりと一護の前に立った。
「ああでも云わないと,終わらせられる自信がなかったんスよ」
云いながら,浦原の手が一護の頬に触れる。
ゆるく曲げた指の背で頬を撫でられ,一護は眉間の皺を解いた。
言葉の代わりに,腕を持ち上げて浦原の首へと回す。
そして,驚いた風に目を見開いた浦原に,黙ったまま唇を押し当てた。
「…云うの忘れてた。おかえり」
すると,浦原の顔がくしゃりと歪み,そのまま強く抱きしめられる。
耳元で継がれるただいまの一言に,一護は浦原の見えないところで小さくため息を零した。
浦原が服を着替え,荷物を片付ける間に一護はコーヒーの準備をした。
昨日電話で云っていた土産というのは,どうやらチョコレートらしい。
「コーヒー飲んで,ゆっくりしたらごはん食べに行きましょ」と云いながら台所に立とうとする浦原を「土産貰うんだから俺が淹れる」と一護が追い払ったのだった。
コーヒーを注ぐカップは黒と赤。
それはふたつとも一護がクリスマスに贈ったものだった。
黒い方が浦原の。赤い方はこの家に唯一一護が置いている「一護専用」のもの。
黒いカップの表面に刻まれた金色の文字を見つめながら,丁寧にコーヒーを落としていると片づけを終え,ラフな服に着替えた浦原がそっと一護の背後に立った。
腰へと腕が回されるのを感じ,そのままやわらかく抱き込まれる。
「火傷したらどうすんだ,馬鹿」
気配でわかったから気をつけてはいたけれど,一護がそう叱ると,肩口に額を押し付けるようにして浦原が「離れていたくない」と囁いた。
ぶわ,と体温が上昇するのを感じる。
耳が熱い。頬も。額も。全身が熱い。
けれども,わざと素っ気無い声で身を捩ると「コーヒー冷めるぞ。とにかくあっち行け」といいながらスリッパに包まれた浦原の足を踏んづけた。
「足踏むのは酷い」
詰る浦原に「知るか」と顔を顰め,一護はカップに口をつけた。
向かいで浦原も両手で包み込むようにしてマグカップを持ち,一口啜って「おいしい」と頬を緩める。
向かい合う二人の間には,一目で上等と知れるチョコレートの箱が置かれていた。
七つ並んだチョコレートのうち,左端のに手を伸ばし,摘んで口へと運ぶ。
香ばしい匂いが口の中に広がり,歯を立てるとオレンジの甘さがふわりと広がった。
「美味い」
一護の言葉に,向かいで浦原が目を上げる。
「よかった。なんかすごい行列,と思ってみたらこのお店で。なんか美味しいらしいってみんな云ってるから並んでみたんスよ」
「…並んだ,ってお前がか?」
「だって一護サンへのお土産だもん。それくらいしますよン」
甘やかに笑う浦原を見つめ,一護は眉間に皺を寄せた。
浦原の,こういうところが叶わない,とつくづく思う。
なんのてらいもなく動けてしまうところが。そしてそのことを口にしてしまえるところが。
第一,夜中にあんな電話をかけてくるくらい多忙を極めていたはずなのに。
「一護サン?」
「…俺,なんも用意してねえぞ」
「え?」
「……今日,バレンタインだろ。だけど」
お前も,そういうことされたらやっぱ嬉しかったりするのか。
そう尋ねたかったけれど,一護にはできなかった。
嬉しいに決まってる。
現に今,一護だって嬉しく思っている。
好きな相手が自分の為に何かをしてくれるということ。
それに無理が伴うと知ってしまうと,素直に喜べない部分もあるけれど,でもそれでも,どうしたって嬉しいことにはかわりがない。
「でも,来てくれたし」
「…そんなの」
「明日学校なのに,門限過ぎちゃうのに,アタシのこと,心配してきてくれた。アタシにはそれだけで十分っスよ」
一護が唇を引き結んだまま口を噤むと,浦原は困った風に首を傾げて,それからチョコレートの箱へと手を伸ばした。
七つ並んだうちの真ん中。真っ赤なハート型のチョコレートを摘むと,「一護サン」と一護の名を呼んだ。
チョコレートを摘んだ指は,ちょうどテーブルの真ん中辺りで止まっている。
それが意味することを解した一護は,椅子から立ち上がるとテーブルに手をついて唇を寄せた。
真っ赤なハートに歯を当てて,舌先の上でとろける甘さを味わう。
浦原が目元で笑うのを見て,そのまま更に伸び上がって手を伸ばす。
浦原の頭の後ろに手を回し,軽く引き寄せながら唇を重ねると,睫の触れる距離で浦原が大きく目を見開くのがわかった。
溶けかけたチョコレートを舌先で押し込むように浦原の口の中へ落とし込み,そのまま甘ったるい舌で浦原の舌を絡め取る。
深く深く,何度も口付けた後,一護は目を眇めるように細めたまま「これで勘弁な」と囁いて笑った。
「幸せすぎて,心臓止まっちゃいそう」
「死ぬなよ」
「もちろん」
「今日,泊まってく」
「え?」
聞き返すんじゃねえよ,と一護が眉を顰めると,浦原は一瞬で蕩けるような笑顔に変わり,「とりあえず,夜ごはん遅くなってもいい?」と甘くかすれる声で囁いた。
Fin
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