SKY DIVER





§・§・§



六月の終わりから七月のあたまにかけて,期末テストの日程が発表になった。
これが終わると球技大会があって,夏休みになるというのもあって,学校全体が変な熱気に包まれている。
範囲が広いこともあって,普段はテスト前だからといって特別な勉強をすることがない一護も復習がてらテキストを開く時間が長くなった。
というのもただ単に学校帰りに立ち寄る浦原の家でノートパソコンを開いて仕事をする浦原の横で,他愛ない話をしながら勉強しているというだけだったが。

「一護サン,成績いいんだ」
「別に。……教員にガタガタ云われんの嫌だからテキトーにやってるだけだし」

事実が半分と,照れ隠しが半分で素っ気無い言い方になってしまったのを気にして視線をノートから浦原に移すと,浦原は微笑っていた。

「…何で笑うの」
「かわいいから」
「…だから,それ」
「そうだ,たまには音楽かけましょっか」

一護の抗議をあっさり無視して,浦原は部屋の隅に転がされたスピーカに束ねてあったコードを接続するとその端を自分が使っているノートパソコンのジャックに差し込んだ。

「昨日ね,ふと思い立って何枚かCD落としたんスよ」

云いながら浦原がいくつかのキィを叩くとスピーカからメロディがあふれ出した。

「あ,聴いたことある」
「そう?」

頷きながら続くメロディをハミングしてみると,「そうそう」と浦原が笑みを孕んだ声で云う。

「でも,タイトル知らない」
「ビートルズ。名前くらいは聴いたことある?」
「…え,でも歌が入ってなくね?」
「あー,カヴァだから」
「カバー?」
「他の人がリアレンジしてる,カヴァー曲ってこと」

なんかきらきらした音だな,と一護はスピーカから零れ落ちる音たちに耳を澄ませた。

「…浦原さん,普段どんな音楽聴くの」
「最近のはほとんど聴かないっスねぇ。古いのばっかり」
「ビートルズ,とか?」
「ビートルズはベスト盤持ってるから。他にはポリスとか,ピーター・ガブリエル,ドノヴァンとか,スザンヌ・ヴェガ。……一護サン名前知らないでしょ」

苦笑する浦原に頷くと,「だってアタシも生まれる前のだもん」と浦原が笑みを深めた。

「音楽はココをアタシにくれた叔父の影響が結構強いんスよ。だから」
「そうなんだ」
「ん。あー,でもこの辺なら聴いたことないかな。結構CMとかで使われてる曲なんだけど」

浦原の指がキィボードの上を滑るように動いて,曲が変わる。
イントロに続いて男の低い声が流れ出し,一護はじっと耳を傾けた。

「聴いたこと…あるような」
「ないような?」
「いや,でもなんか…」
「かっこいいでしょ」

どこか得意げな口調で云う浦原に,一護は素直に頷いた。
Beautiful day,と繰り返すサビの部分しか聴き取ることはできなかったけれど,それは確かに格好よかった。

「これ,なんて人の曲」
「U2」
「ゆー・つー」
「他にも聴いてみたい?」

こくり,頷くと「じゃ,このままかけっぱなしにしておきましょ」と浦原が笑う。
テキストを解きながら時折音楽に耳を澄ませる。
そしてちらり,目を向けると,モニタを覗き込んでかたかたとキィを叩く浦原が小さな声で口ずさんでるのが見えて思わずその口元に見入ってしまう。

「…何?」

浦原は視線をモニタに向けたまま尋ね,一護は「いや,」と慌てて首を横に振った。

「アタシ,音痴だった?」
「違うって。ただ…その,覚えてるんだなって」
「昔っから聴いてるから」
「歌詞,英語なのに」
「聴いてるうちに覚えるもんスよ。……それに結構テキトーだし」
「そうなの?」
「そうそう。なんとなーく,それっぽくね」

云いながら浦原の指が卓袱台の上でリズムを取るように動き,それにあわせて低い声がメロディを辿る。
時折掠れる声は喋っているときと全然違う感じで,一護はなんだかどきどきしてしまう。

...higher now in the sky
you make me feel like i can fly
so high Elevation!

「…なんか」
「ん?」
「浦原さんの声だと,何て云ってるかわかる気がする」
「それはアタシの発音がアレだからじゃない?」
「ち,ちがうって!ちゃんと上手いって!」
「オヤ,褒められた」

茶化すように云う浦原に,またしても頬がかっと熱くなる。
でも事実だし,と一護は口を尖らせて「嘘じゃねーし」と重ねて云った。

「そういえば一護サンヒアリング苦手だって」
「短い文はなんとかなるけど,長くなるとどこから訳せばいいか迷ってるうちに終わってんの」
「多分慣れてないだけだと思いますよン,それ」
「慣れ…の問題なのか?」
「そうそう。音楽でも映画でも,聴くともなしに聴いてれば単語も拾えるようになるし,単語が拾えるようになればなんとなく意味もつかめるようになってくる。そうすれば戸惑うことも減るからきっと苦手じゃなくなる」
「…云われてみれば英語なんか普段聴くことほとんどない」
「今度映画,字幕隠して観てみる?」
「そしたら何云ってるかわかんねーじゃん」
「表情とか仕草とかで結構わかるもんスよ。何度か観てよく知ってる映画だったら尚のこと」
「…まず何度か観るところから始めないとダメだと思う」
「夏休み入ったら試してみる?」
「つきあってくれんの?」
「いつでも大歓迎」

胸の奥がくしゃっとなるような,じっとしていられないような気持ち。
嬉しい,というのとも少し違うし,なんて言葉がぴったりくるのか,一護は上手く表すことができない。
勝手に緩む頬をぐっと押さえ込もうとして失敗して,目を伏せて「ありがと」と小さい声で礼を云う。

「早くテスト終わるといいっスね」

耳に心地良く響く浦原の声。
一護は頷きながら,口にはしなかったけれど「でもこうやって仕事する浦原さんの横で勉強するのも嫌いじゃない」と思った。
浦原さんもそうだといいな,と思って,ちらり視線を向けると再び作業に戻った浦原がそれに気づいて目を上げ「こういうのも悪くないけどね」と笑う。
一護はびっくりしながらも頷いた。

「…俺も,今同じこと考えてた」
「気が合いますね」

うん,うん。
何度も頷きながら,途中になってたテキストに目を落とす。
いつもならかったるいだけのテスト勉強がこんな風に楽しくなるなんて,浦原さん効果は絶大だ。
そんなことをひとりごち,でも「ぜってー云えない」と一護は唇を引き結んだ。






週末を挟んで四日間の日程で行われた期末テストが終わり,翌週はテスト返しで一週間が過ぎていった。
ほとんどの教科が普段と変わらなかったが,英語だけがいつもより少しだけ点数がよかった。
普段なら半分できれば上等のヒアリングがほんの少しだけ出来がよかったというのもその一因で,一護はこれもまた浦原さん効果だ,と返された七十八点の答案を前に頬を緩めた。
誰かの影響を受けるとか,誰かの真似をするとか,そういうのは格好悪いことだと思っていた。
けれど,浦原と一緒に居ると同じものを観てみたい,同じものを聴いてみたい,という気持ちに駆られる。
浦原がいいと思うものは一護にとっても大体においていいもので(商売であるエロビデオとそれにまつわるさまざまなアレコレだけは未だに理解できなかったが)どんどん興味を惹きつけられる。
そうして浦原からいろいろなものを教えられることによって,一護は自分の世界がどんどん広がっていくのを感じていた。

その日の夕方,いつものように浦原の元を尋ね,昼間浦原が外出のついでに買ってきたドーナツを齧りながらコーヒーを飲んだ。
部屋の中には低く音楽が流れていて,会話が途切れると一護はそれに耳を澄ませた。
そうしているうちに,ふと気がついたことがあって浦原を見た。

「そういえば,さ」
「ハイ?」
「前に,浦原さんの部屋入った時にギターケースみたいのがあったけど」
「あー,ありますねえ。もう随分と長いこと触ってないけど」
「やっぱり弾けるんだ?」

思わず身を乗り出してそう尋ねた。

「弾けるっつっても学生の頃ちょこっとやっただけだし」
「でも,弾けるんだ?」
「ちょ…一護サンなんでそんな食いつくの」
「弾いてるとこ,見たい」
「え」

それはちょっと…,と珍しく浦原が言葉を濁す。
困った風な素振りが珍しくて,一護は思わず声を上げて笑った。

「笑うなんて酷い」
「だって,浦原さんが困った顔すんの珍しいから。……でも見たいってのは本当なんだけど」
「もう十年近く触ってないから,指動かないっスよ。今度すこし練習しておくから,そのうちにね」
「約束?」
「……一護サンのお願いじゃ仕方ない」

はぁ,とため息を吐く浦原に意地悪がしてみたくなって,一護は徐に右手を浦原の方へ伸ばした。
ゆるく拳をつくって小指だけを立てる。
それを見て浦原が「ゆびきり?」と苦笑を深くする。

「約束にはつきものなんだろ?」

に,と口の端を引き上げて云うと「一護サン絶対楽しんでるでしょ」と恨みがましい声で云われた。
事実だから否定のしようがない。
伸ばされた浦原の指が一護の小指に絡む。

「あー,今夜から特訓かなあ」
「じゃ,明日とか?」
「それは無理!」
「わかってるって」

くすくす笑う一護に,ため息を吐く浦原。
まるでいつもと逆だな。
そう思うと可笑しくて仕方がない。
浦原はそんな一護を恨めしげに見つめたが,手に取ったシナモンドーナツにかぶりつくと釣られたように笑い出した。






一護の学校の球技大会は四日間の日程で行われる。
一人当たり参加する競技は二種から三種。一護はサッカーとドッジボールとバスケットボールに参加することになっていた。
日程の組み方によっては一日に三試合から四試合こなすこともあって,サッカーでグラウンドを駆けずり回った半時間後には体育館で駆けずり回っている,なんてことにもなりうる。
そんなわけでいつもよりすこし早い三時前,浦原の店までやってきたのはいいけれど一護はくたびれ果てていた。

「眠そうっスね」

卓袱台の向こうで浦原が苦笑している。
一護は「ごめん,」と謝りながら目元を擦った。

「アタシ仕事してるから寝ててもいいっスよ」
「…や,それなら帰るし」
「帰っちゃうの?」
「だって,邪魔だろ?」
「邪魔ってアタシが云った?」

じ,と浦原に見つめられ,いつもなら顔を赤くするところだけれど眠気がかなり限界近いところまできていてそれどころじゃない。
一護は小さく首を横に振ると「云ってない,けど」と呂律の怪しい口調で応えた。

「音が気になるようだったら,二階のベッド使ってもいいし。シーツ変えてあるからそっちいく?」
「…ここでいい」

一護はごそごそと身動ぎすると,自分が使っていた座布団を引き抜き半分に折って左手で押さえつけた。

「うらはらさん,ごめん。……ありがと」
「オヤスミナサイ」
「おやすみ」

そう広くない部屋のため,卓袱台の縁に沿うようにして一護は身体を伸ばして横になった。
部屋の中は低く音楽が流れていて,浦原がかたかたとキィボードを叩く音と一緒にそのメロディを辿るでもなく耳を澄ませているとあっという間に眠りに落ちていった。

オムニバス形式の映画のような夢を見た。
音声はなくて,球技大会の試合の一場面だとか,浦原と出かけた映画館での一コマだとか,風呂上りに腰にタオル一枚巻きつけただけの格好でリヴィングに乱入してくる父親のどうしようもない姿だとか。
いつの間にか姿を消した生徒指導の教員に技術室で嫌味を垂れられる場面,なんてのまで見て,夢だとわかっていても一護は顔を顰めた。
こんなしょーもない夢を見るくらいなら起きてしまえ,と思うのに,身体が動かない。
起きたい。嫌だ。もう寝てたくない。
まるで金縛りのように言うことを利かない身体に痺れを切らし,一護は癇癪を起こした。
と,瞼に何かが触れる感触。
瞼だけじゃない。額や,眉間にも。
知らない感触じゃない。
ああ,これ,浦原さんの指だ。
触れてくるものの正体を見極めた途端,嘘みたいにくっきりと目が覚めた。
どれだけ頑張っても押し上げることができなかった瞼がするりと開いて,卓袱台に頬杖をついて見下ろしてくる浦原の目とぶつかった。

「あ,起きた」

肘をついた手で笑みを浮かべる口元を支え,目元もやさしく綻ばせた浦原に,一護は「おはよ」と照れくさいのを堪えて云いながら身体を起こした。

「俺,どんくらい寝てた?」
「一時間も寝てないっスよ。ほら」

浦原に促され時計を振り返ると確かにまだ四時前だった。

「ほんとはもう少しそっとしておこうと思ったんだけど,――なんかよくない夢見てるみたいだったから」

心配そうな声音に,一護はどうしようもなく心がくしゃくしゃになるような感覚を覚える。
でも,変な心配かけたら悪い,とわざと大仰に眉間に皺を寄せて「風呂上りの親父が出てきた」と記憶の中でも特に鮮明な一場面だけを口にした。

「え,お父サンが?」
「タオル一枚腰に巻いただけで,聞くに堪えない下品な歌を歌いながら俺と妹たちがテレビ見てる居間に踊りこんでくるっていう。……いや,音は聞こえなかったから歌の本当のところはわかんねーんだけど,でもあれは絶対歌ってた」
「…なんだってそんな夢を」
「俺が聞きたいよそれ。……でも,浦原さんが起こしてくれたから助かった」
「もう眠くない?」
「夢はサイアクだったけど,身体は楽ンなった。ありがと」
「どう致しまして」

肩を竦める浦原を見て,一護は意識の端に引っかかるような違和感を覚えた。
あれ,なんだろう。
じっと浦原を見ると,「何?」と云う風に目顔で尋ねられる。
それにも応えず違和感の正体を探っていた一護は思わず「あ」と声を上げた。

「浦原さん,さっきまであっちに居たよな?」

見つめる浦原の背景がいつもと違うのだった。
丸い卓袱台を前に,いつもは一護が部屋の入口を背に,浦原の背には店へと続く暖簾の下がった入口がある。
なのに今はいつも一護が座る位置のすぐ横辺りに浦原が居た。

「だって,ひとりで仕事してるの寂しかったから」
「ご,ごめん」
「せめて一護サンの寝顔を見ながらにしようと」
「や,それは」
「ついでに写真撮っちゃった」
「は?写真!?」

ふふふふ,と笑いながら浦原は卓袱台の上に転がしてあった携帯を手元に引き寄せ,フラップを開いて笑みを深くする。

「ちょ,消して。それ消してってば!」
「そんな勿体ないことできません」
「もったいないとか意味わかんねーし!」
「アタシの宝物」

ぱちりと閉じた携帯にちゅ,と唇を落としながら浦原が云う。
それを見た瞬間,一護は頭が真っ白になった。

「い,いいいい,意味がわかんねーし」
「わからなくてもいいの。あー今日はいい日だなあ」
「いや,ちっともよくねえから!俺サイアクだ!っていうかそれ,チョサッケンのシンガイとかになるんじゃねーの!?」
「それを云うなら肖像権でしょ。肖像権ってのは大雑把に分けると人格権と財産権とに分けられる。一護サンが気にしてるのは多分人格権の方になると思うんだけど,ええと,わかりやすく云うと被写体としての権利ね。でもこれって公開されることによって被写体に何らかの被害が及ぶことが想定されてるものだから,アタシは公開する気さらさらないし,あくまで個人利用の範囲を出ないから法的にもクリアできちゃうっていうね」
「浦原さん…法律とかにも詳しいのか」

云ってることの意味の半分も理解できなかったが,半ば勢いに気圧されるように一護は呆然と呟いた。
けれども浦原から返ってきたのは「いや,」という否定の言葉で。
え?と一護が訝るように視線を向けると,くすくす笑いながら卓袱台の上に広げていたノートパソコンを一護の方へくるりと向けた。

そこには百科事典のwebサービスのページが開かれ,「肖像権」と大きな文字で見出しが打たれていた。

「絶対怒られるだろうなって思ったから先手打って調べてみました」

悪戯っ子のような,というには性質の悪すぎる表情を浮かべて浦原が云う。
一護は返す言葉も見失ってがっくりと項垂れた。

「もうぜってー油断しねえ。浦原さん性質悪い。悪すぎる…」
「ごめんね?」
「謝るなら消してくれって」
「だから,ごめんね?」

云うなり伸ばされた手が,一護の頭をそっと撫でる。
やさしい掌の感触に何もいえなくなりながらも,一護はなけなしの気持ちを奮い立たせて浦原を恨めしげに見た。

「お詫びに美味しいコーヒー淹れてあげる」
「なんでそんな写真なんか欲しがんの」

一護の問いに浦原は答えない。
ただ,口元に笑みを湛えてやさしい目で一護のことを見つめている。
頭を撫でる掌のやさしい感触と相俟って,一護の中でぐるぐると渦巻いていた恥ずかしさや焦りや怒りのような感情たちがするするとほどけていく。
浦原さんに何されても,なんか俺本気で怒れない気がする。
気がするだけじゃなくて,多分それは本当だ。
一護は目を伏せて太い息を吐き出すと,そのまま唸るように「消さなくていいからせめてどんな写真かだけは見せてくれよ」と云った。
「じゃないと気になって眠れなくなる」と付け足すと,俯いた視界に開いた浦原の携帯が差し出された。
横を向いて眠る自分の顔。
少なくとも涎は垂れてなくてほっとした。
どの夢を見ていたときかわからないけれど,眉間の皺もそんなに酷くない。どちらかというと笑ってる風にも見える。
思っていたよりも酷くなくてほっとした。
安堵をそのまま顔に出し,静かにため息を吐くと浦原が「かわいいでしょ?」とどう頑張っても応えようのない問いをぶつけてきた。

「どこをどう見たら可愛く見えるんだよソレが。浦原さん医者行って目とか診てもらった方がいいんじゃねーの」
「オヤ,酷い云われようだ」

くすくす笑いながら浦原は携帯のフラップを閉じると卓袱台の上に置き,立ち上がった。
一護もワンテンポ遅れてそれに続きながら,先に台所へ向かう浦原の後を追う。卓袱台の横を通り過ぎるとき,一瞬だけ携帯に目をやったけれど約束は約束,と頭を過ぎった悪い考えを向こうに押しやった。

俺の寝顔が可愛いとか,ほんとに意味わかんねーし。
……まぁ起こしてくれたのは助かったけど。
丁寧にコーヒーを淹れる浦原の手元を見ながら一護はひとりごちる。
どうせ説明されたって理解することなんかできるはずもないから,全ての不満をため息に押し込んで吐き出した。

「そういえば」

挽いた豆を平らに均したドリッパの上に細く細く湯を落としながら浦原が云う。

「一護サン,来週誕生日でしょ。何か欲しいものある?」

え,と云ったまま一護は驚いて視線を浦原の手元からその顔へと移した。

「な,なんで知ってんの。俺,云ったっけ」
「前に生徒手帳見せてくれたじゃないっスか。あれに書いてあった」
「そ,そんなのよく覚えてんな…」
「何かお祝い,欲しいものある?」

鼻先を擽る香ばしい匂いを静かに吸い込みながら,一護は首を傾げた。

「き,急に云われても」
「じゃあコレ飲みながらゆっくり相談しましょ」

ぽん,と頭を撫でられ,浦原がカップのひとつを差し出してくるを受け取って,一護は両手で持ったカップの中を覗き込みながら卓袱台へ戻った。
心臓がどきどきしている。
誕生日を覚えてもらっていたのが嬉しいのと,祝ってくれると云われてもどうしていいかわからないのと。
戸惑いよりも嬉しさの方が圧倒的だったけれども,表情に出やすいところに戸惑いがあるせいか,上手く顔に出せない。
困ってるけど,困ってるわけじゃないんだ。
一護は浦原に誤解されたくなくて俯いたまま腰を下ろした。

「…いーちごサン」

浦原の声がする。
一護はコーヒーカップを両手で包み込むように持ったまま,唸るように詫びた。

「ごめん」
「どうして謝るの」
「……嬉しくないわけじゃないんだ。でも,なんか…そういう顔ができなくて」

眉間にぎゅっと皺を寄せて,嬉しくないもへったくれもないだろう。自分でもそう思う。
こういうときに素直に笑ってありがとう,と云えたらいいのに。本当に自分でもそう思う。
けれどもどうやってもそれが上手くできない。

「あーよかった。迷惑って云われたらどうしようかと」

傍らから聞こえてきた声に,一護は慌てて顔を上げた。

「違ッ」
「うん,わかってる」

卓袱台に頬杖をついて,空いた片手を伸ばしてくる浦原は微笑っていた。
伸ばされた手が頬に触れて,眉間に触れて,「わかってるから,大丈夫」と聞いてるこっちが泣きたくなるようなやわらかい声で云う。

「一護サンくらいの年頃の子に,どんなもの贈ったら喜んで貰えるかわからなくて,ここしばらく随分とリサーチしてたんスけど,いっそ正面から聞いちゃった方がいいかなーって手抜きしちゃった」

触れていた指が離れていくのと同時に,浦原が小さく肩を竦めて云う。
一護は触れられた箇所が火照るように熱い,と大きく息を吸い込んで,コーヒーを一口啜るとカップの中で波立つコーヒーを見つめたまま「どんなもんでも」と小さな声で呟くように云った。

「え?」
「…浦原さんが選んでくれたものなら,どんなもんでも嬉しい…よ」

恥ずかしさと居た堪れなさで,声はどんどん小さくなって,語尾など掠れて消えてしまった。
それでもそう思う気持ちに嘘はなくて,きちんと伝えなきゃ。そう思ったから一護は言い切った。
浦原は何も云わなかった。
自分でも呆れるくらい小さな声だったから,聞こえなかったんだろうか,と心配になって一護がちらりと目を上げると,卓袱台の上に両肘をついて顔を覆っている浦原が見えた。

「う,浦原さん?」
「……反則」
「え,反則って何が」
「そんなかわいいこと云われたらアタシどうしたらいいの」

苦しげにすら聞こえる声だったけれど,声よりも,浦原が口にした内容の方がとんでもなかった。

「か,かわいくねえし!もう!いつも云ってんだろそれ止めてくれって!」

ぎゃー!とただでさえ赤かった顔を真っ赤にしながらの一護のもう抗議もよそに,浦原はコーヒーカップに口をつけてこくりと喉を鳴らすと,深々とため息を吐いた。

「なんか切れちゃいけないものが切れるような心地がした…」
「意味わかんねーし」
「一護サン心臓に悪い」
「俺はホラー映画に出てくる殺人鬼かなんかかよ」
「ホラー…そういえば最近観てないなァ。そうだ,一護サン今度一緒に」
「パス!」

云うなり一護は仰け反るように身を引いて,両手を胸の前で交差させ,バツ印を作った。

「あ,そっか。怖いの駄目だっけ」
「べ,べつに駄目じゃねーけど!」
「でもパスって」
「駄目じゃねーけど!なんでいちいちあんな心臓に悪いもん観て楽しいのか俺にはわかんねーんだよ!」
「あー,ジェットコースタに乗るよな気持ちに似てるんじゃないかなあ」
「全然違う。ちっとも似てねぇ。ジェットコースタは気持ちいいじゃん」
「オヤ,そっちは好きなの?」

一護はこくりと頷きながら仰け反った身体を元に戻した。

「落ちるヤツは身体の中身がふわって浮かび上がるような感じが面白ぇし,ぐるぐる捻ったりするのはGが掛かったり風がすげーのが気持ちいいし」
「……ゴメンナサイ理解できません」
「え,浦原さん嫌いなの絶叫マシン」
「お腹痛くなるでしょアレ」
「えー,なんで」
「だいだい待ち時間が嫌。心臓が痛くなる。それにあの身体拘束するヤツが嫌」
「……アレなかったら落ちるだろ」
「乗らなきゃ落ちませんよ」
「それを云ったら身も蓋もねぇけど」

眉間に皺を寄せ,忌々しそうに云う浦原が珍しくて,可笑しくて,一護はくすくす笑う。

「浦原さんにも苦手なもんとかあるんだな」
「そりゃありますよン。アタシだって人間だもん」
「他にもなんかある?」
「んー,早起きとか?」
「違くて,もっとこう…見たら『ぎゃ!』てなるようなもん」

一護が見つめる視線の先,苦手なものねぇ…と呟いて考え込むように浦原が目を伏せる。
目にかかる前髪の下,古臭いデザインの眼鏡のレンズの向こう,うすい瞼の下に瞳が隠れるのを一護はじっと見つめた。
引き結ばれた口元から「んー」と小さく唸る声。
わくわくしながら答えを待っていると,不意に浦原の目が上がり一護を見た。
どくん,と心臓が跳ねる。

「な,なに?」
「そんなの聞いてどうするの」
「え,や,どうするって…。……どうもしないけど」
「ほんとに?」
「しないって。ただちょっと興味があるっていうか」
「新聞屋のバイクの音が嫌い」
「え?」
「苦手なものでしょ。あとは今はあんまりみないけど,テレビの放送が終わった後の砂嵐…ってわかる?」
「砂嵐…?」

一護が首を傾げると,浦原は「最近は夜通しやってますもんね,テレビ」と苦笑を浮かべた。

「昔はね,明け方四時くらいになるとテレビの放送って一回終了してたんスよ。あの放送終了音と,その後の砂嵐の音が苦手で」
「そうなんだ」
「新聞屋のバイクの音もそうだけど,なんていうか世界に置いてけぼりにされたような心地になる」

そういう浦原の声は寂しそうで,一護は何も言えなくなる。
ごく偶にではあるけれど,喉の渇きを覚えて明け方前に目が覚めて水を飲みに居間に下りたときなどに一護も新聞屋のバイクの音は聴いたことがある。
けれどもそんな風に感じたことはなかった。
聞くともなしに聞き流して,水を飲み終えたコップをシンクに放り込んだまま部屋に戻ってまたベッドに潜り込んでしまう。
でもそれは,そうできるのは,自分がひとりじゃないからかもしれない。
一護はそう思った。
しん,と静まり返った家の中でも,耳を澄ませれば父親のいびきが聞こえてきたり,壁やドアを隔てた向こうに妹たちの存在を感じられる。
そうやってすぐ傍に家族がいるから寂しく感じないのかもしれない。

「…寂しい?」

一護がそう尋ねると浦原は驚いたように目を見開いた。
そしてじっと見つめる一護の目を見て,ふっと視線を落とすと

「寂しい…か。どうなんだろ。そうなのかな。そんな風に考えたことなかった」

どこか戸惑うような歯切れの悪い口調で云い,考え込むように口を噤んでから「ああでも」と顔を上げて一護を見た。

「一護サンがここに泊まってくれたときは何も感じなかった」

一護は頬がかっと熱くなるのを感じた。
そんな風に云われてなんて答えればいいのかわからない。
云われたことが恥ずかしいというよりも,いちいち過剰に反応する自分を見られるのが恥ずかしくて,ふいっと顔を背けながら唸るように云った。

「そりゃ浦原さん映画の途中で寝てっからだろ。新聞屋の音聞こえてねーんだよ」

一護の低い声に浦原は「あ,そっか」と腑に落ちたように笑い出す。
一護はふん,と鼻から太い息を吐き出して,コーヒーに口をつける。
そのまま浦原の方を見るとまだくすくす笑っていて,なんだかなぁ,という気持ちになった。

「一人で暮らすようになって随分と経つから,寂しいとかそういうのはないと思ってたんスけどね」
「……高校ンときからだっけ」
「そ。高校二年のときから」
「最初の頃も寂しくなかった?」
「そんな風に感じたことはなかったなぁ。掃除とか洗濯とかごはん食べたりとか面倒だなって思ったことはあったけど」

思い出すように云う浦原の口調に無理や嘘は感じられなかった。
一護は自分が感じたのが思い過ごしだったのかな,と思いながらも,でも,と違和感を覚える。
浦原さんって結構寂しがり屋だと思うんだけど。
やわらかな笑みを浮かべる顔をじっと見つめる。
だから俺なんかがしょっちゅう出入りするのもこうやって迎えてくれるんじゃないかな。
しかしそれを確かめることはできなかった。

「何?」

一護の視線に気づいた浦原がそう尋ねるのに,一護は首を横に振った。

「なんでもない」
「そう?」
「うん」

もっと一緒に居られたらいいのにな。
そう思った。
けれどももう夜更けに家を抜け出すことはできない。
一緒に居たいと思っても,自分の我侭が結果浦原に迷惑をかけるようなことがあってはならない。
なんかいい方法があればいいんだけど。
小さく息を吐いて温くなってしまったコーヒーを啜った。






翌週の木曜日,一護は十五歳になった。
朝一番妹たちにおはようとおめでとうを交互に云われたのを皮切りに,父親には背中が赤く張れるほどつよい力でバン!と叩かれながら,学校でも仲のよい友人たちに口々に祝いの言葉を向けられた。
放課後,友人たちからプレゼントとして贈られたCDやコミクスの新刊,早売りの漫画雑誌が詰まって重たい鞄を肩に掛け,一護はどきどきしながら浦原の家へ向かった。

鍵の開けっ放しの玄関のドアを開け「こんにちはー」と声を掛けながら靴を脱ぐ。
廊下の先の茶の間から浦原がひょい,と顔を覗かせ「イラッシャイ」と迎えてくれた。

茶の間に入ると浦原は卓袱台の前ではなく台所に立っていた。

「一護サン,コーヒーでいい?」

肩越しに振り返りながら尋ねられたのにうん,と頷きながら一護も鞄を下ろすとまっすぐに台所へ向かう。
少し離れた傍らで浦原が丁寧にコーヒーを淹れるのを眺めていると,不意打ちで浦原が「オメデトウゴザイマス」と囁くような声で云った。

「あ,うん,」としどろもどろの返事をしながら,一護は顔を赤くする。
ドリッパの中の挽いた豆に細く細く湯を落とす浦原がほんの一瞬だけ目を上げて一護を見た。

「どうしたんスか?何かすごく緊張してない?」

浦原にそう云われて一護は「別にっ」と赤くなった顔を背けるように俯けながら否定した。
浦原から視線を逸らしたまま,傍らから立ち上る香ばしい匂いをそっと吸い込む。
いつもならばすぐに気持ちを落ち着かせてくれるコーヒーの匂いも,今日はなんだか薄い気がする。
それでも鼻先をくすぐる香ばしい匂いを深呼吸をするように胸いっぱいに吸い込むとほんの少しではあったが動揺が治まる気がした。

「…あれ?」

深く吸い込んだコーヒーの匂いが,いつもと違う?
小さく声を上げた一護に,浦原はドリッパを引き上げるタイミングを計りながら「どうかしました?」と尋ねる。
一護は浦原の手元をじっと見つめたまま,「コーヒー,いつもと違う?」と尋ねた。

「わかります?」
「ん。何か匂いが違う」
「今日は特別なんで,とっておきのイイ豆を使ってみました」

ふふふ,と喉の奥を震わせるように笑いながら浦原は云って,「美味しく淹れられてるといいんだけど」とドリッパをガラス製のポッドからはずす。
そのとき,玄関で間延びしたチャイムが鳴り響いた。
浦原はほんの一瞬顔を上げると,壁にかかる振り子時計を見て,それから一護を見た。

「多分宅急便だ。一護サンとってきてもらっていい?はんこは電話台の下の引き出しに」
「わかった」

一護は云われたとおり振り子時計の下に置かれた電話台へ向かう。
引き出しを開けると端の黄ばんだ出前のメニュやさび付いた螺子などに紛れて白い印鑑があった。
それを取り上げて急ぎ足で玄関に向かう。

「――運輸です。黒崎さん宛にお荷物をお届けにあがりました」

ドアの向こうから聞こえてきた声に,一護は思わず足を止めた。
え,今なんて云った…?
しかしそれも一瞬のこと。
一護は我に返ると自分の靴ではなく浦原のサンダルに足を突っ込み慌てて玄関のドアを開けた。

「こちら,浦原様方,黒崎様でよろしいですか?」

運送会社の制服に身を包んだ配送員の手には掌に少し余るくらいのサイズの小包があった。
一護は戸惑いながらも「はい」と返事をしてそれを受け取った。

「こちらにサインか印鑑をお願いします」

配送員が差し出す伝票に手の中の判子を押し付ける。
すると配送員に「すみません,黒崎さんのサインもお願いできますか」と云われてしまう。

「あ,はい。すみません」

配送員が差し出すボールペンを借りて,ぎこちない手つきで浦原の印を押した横に黒崎,と自分の名を書き込む。

「ありがとうございました!」

威勢よく云って去っていく配送員の背をぼんやりと見送って,一護は玄関のドアを閉めた。
そしてそのまま上がり框に腰を下ろし,膝の上に置いた小包を見下ろす。
配送伝票には「浦原様方黒崎一護様」の文字がタイプされていた。
…っていうことはこれは自分宛の荷物なわけで。
これ,どんな顔して向こうに持って行ったらいいんだ,俺。
一護は頭を抱え込みたいような気持ちで項垂れた。
と,背中でかすかな足音を聞く。
誰かなんて考えるまでもない。
どんどん近づいてくる足音に,一護は顔を上げられないまま小さく縮こまった。

「何してるんスか。コーヒー冷めちゃいますよン?」

頭の上から降ってくる浦原の声。
一護はあ,そうだコーヒー,と顔を挙げ,そのまま仰向くように浦原を見上げた。

「浦原さん,これ」
「うん」
「…俺,に?」
「そう」
「……ありがとう」

縺れそうになる舌で,それでもなんとか礼を云うことができた。
浦原は一護を見下ろしたままひっそりと笑うと,一護に向けて手を差し出した。
一護が頷いてその手を取ると,弾みをつけて引き起こされる。
しかし,立ち上がってもその手が離されることはなかった。

「う,浦原さん!」
「ハイ?」
「手,手!」

しかし浦原は一護の必死の抗議を無視したまま一護の手を引き歩き出す。
いつもならあっという間に着く茶の間までの距離が途方もなく遠く感じられた。
心臓が壊れたように早いリズムで鼓動を刻み,全身に響き渡るその音で,足許から響く廊下の板張りの床が軋む音も聞こえない。
左手に小包,右手に浦原の手。
一護はどうしていいかわからなくて,電球が切れて随分経つという埃をかぶった廊下の明かりを睨むように見上げた。











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