1st
§・§・§
今年の秋は雨が多い。
秋と云えば抜けるように晴れた青空が売りなんじゃないのか。
一護はバスから降りると走り去るバスの震えるようなエンジン音を背中で聞きながら傘を開いた。
ぱらぱらと不規則なリズムを刻む雨音はそれでも途切れることがない。
時刻は午後四時少し前。
あと一時間もすれば辺りは真っ暗になる。そんな時間。
雨の日は夕方もなくなるな、と飽きもせず雨粒を振り撒く灰色の空を見上げて一護はため息を吐いた。
バス停から家までは五分ほど。
慎重に歩かないとすぐに制服の膝下辺りまでが濡れてしまう。
うっかり水溜りに足を踏み入れようものなら革靴の中まで水が滲みてなんとも惨めったらしい気持ちになる。
そういった不便さを差し引いても一護は雨の日が嫌いだった。
よくないことは雨の日にばかり起こる。
母をなくした日も、それから「アイツ」がいなくなった日も雨だった。
沈みかけた気持ちを嗜めるように深いため息を吐き歩き出す。
水溜りを避け、泥水を跳ねさせなように気をつけながら。
そうするとどうしても俯きがちになる。
顔を上げるのは家の前まで辿り着いたとき。
見慣れた玄関を潜る前に、ほんの一瞬足が止まる。
見上げる先にあるのは隣の家、その二階の窓。
いつもカーテンが閉じきられたその部屋に今日もカーテンが降りていることを確認して、ほっとするような、苛立ちを抱え込むようなもやもやした気持ちで玄関を潜るのがこの数週間ばかりの習慣になっていた。
しかし、今日は――。
見慣れた窓はカーテンが降りている。
そのまま視線を自宅の玄関に移そうとして一護はぎくりと身体を強張らせた。
隣の家の玄関に人影。
ひょろりと背の高い、まるで寝起きのようなぼさぼさ頭。淡い色の髪。
心臓がぎゅっと引き絞られるように痛んだ。
ヤバイ、と思ったときには遅かった。
足なんか止めるべきじゃなかった。
さっさと傘を畳んで家の中に入ればよかった。
後悔というのはいつでも後からするものだ、などと意味のないことまで頭の中で浮かべ、打ち消すように焦りが募っていく。
それでも足は動かなかった。
凍りついたように動かない、動かせない視線の先、見つめ続ける背中がゆっくりと振り返る。
そして一護を見て、同じように動きを止めた。
距離にして数メートルを隔てて見詰め合う。
早く、早く家に。
そう思うのにやっぱり身体は動かなかった。手も、足も、首すら。
動いたのは唯一、唇。
「…浦原」
二年ぶりに自分の声が呼ぶその名を聞いたとき、一護は深くにも泣きそうになった。
やばい、と思ったそのすぐ後にやってきたのは後悔の大津波だった。
視線の先、驚いたように見開かれていた目が、ゆっくりと細められる。
目を凝らすのとは違うやり方。
やわらかく、見つめるこっちの気持ちまでするりと解いてしまうような、笑い方。
「一護サン」
小さな、小さな声で名を呼ばれる。
気付いたら一護は笑っていた。
眉間には深い皺が刻まれたままなのに、勝手に顔が笑っていた。
玄関に施錠を終えた浦原が一護の方へと歩み寄る。
すぐ傍までやってきた浦原は、一護の記憶の中の姿より背が高くなっていた。
見上げる格好になったのがバツ悪く、一護は笑みを引っ込める。
「お前、傘は」
「バスに置いてきちゃって」
肩を竦めるように云った浦原に傘を差しかけてやりながら一護は自然と叱るような口調で云った。
「あほか。――って出かけるところじゃねえの?」
「ええ。駅前までちょっと」
自分の手にある傘を貸してやる、という選択肢がどうして思いつかなかったのか。
一護は数分後自分の頭を殴りつけたいような後悔に駆られることになる。
けれどもこのときは何も考えず、思いついたままを口にしていた。
「雨、夜に向けて強くなんぞ。夜更けに台風来るって」
「そういえばそんな話を聞いた気も?」
「……付き合ってやるよ」
「え」
「駅前だろ。俺も本屋に用事あるから」
バスはすぐに来た。
夕方駅前で買い物を済ませようと云う乗客たちで座席は全て埋まっていた。
暖房で温まった空気と重たい湿気でバスの中は息苦しい。
一護は喘ぐように息を継いで、数分前の行動を激しく後悔していた。
隣に立つのは浦原。浦原喜助。
一護の幼馴染だった。
十歳のとき、ずっと更地だった隣の敷地に家が建った。
そこに越してきたのが二歳上の浦原だった。
いかにも仕事ができそうな両親に連れられて挨拶に来た浦原を父親の影からちらりと見たとき、一護は「すげえ頭の色」とだけ思った。
陽射しに透けると眩いほどのオレンジ色の髪を持つ自分に云えたことではないが、それでも明るいブラウンと漆黒の髪の両親の背後に所在無げに立つ浦原のまるで真冬の夜空にぺたりと張り付く薄っぺらい月のように淡い色の浦原の髪はすごく異質なものに見えた。
同じ小学校に通っている以上、学校内でも時折浦原の姿を見かけた。
移動中の廊下だとか、登下校の昇降口だとか。
浦原はいつも一人だった。
友達、いねーのか、と一護は盗み見るようにその姿を見たが、だからと云って自分からわざわざ話しかけるような真似はしなかった。
そういうのは単なるおせっかいだと思っていたし、浦原は別に寂しそうに見えなかったから。
ひょんなことから口を利くようになって、それからはあっという間に親しくなった。
クラスの誰と居るより浦原と居る方が一護は好きになった。
友達とは違う、もっと近い存在。
浦原は一護にとってそんなかけがえのない存在になっていった。
あの日。二年前の夏の日、浦原が一護に何も告げず姿を消すまでは。
二年間の留学。
どこの国へ行ったのかすら一護は知らない。
留学したという事実は父親から聞いた。
それ以上の情報は一護が自分でシャットアウトした。
他の誰かから浦原のことを聞きたくなかった。浦原の口から聞かなきゃ意味がなかった。
つり革にぶら下がるようにして腕の影からちらりと浦原を盗み見る。
浦原はぼんやりと天井近くに貼られた路線図を眺めていた。
その横顔が青ざめているように見えて、一護はぎくりとする。
「おい、浦原」
「…はい」
「酔ったのか」
「……少し」
帰ってきた声は掠れていて、バスの揺れに合わせてゆらゆらと揺れる身体はつつけばすぐにその場に崩れ落ちそうな頼りなさだった。
ぴんぽーん、とチャイムが鳴る。誰かが降車釦を押した合図だった。
一護は車内をぐるりと見回し、後ろから二番目の二人掛けの座席に座る親子連れが降りる準備をしていることに気付いた。
「動けるか。後ろから二番目。あそこ次で空くから」
こくり、頷く浦原の横顔は青ざめているのを通り越して紙のように真っ白だった。
降りた方が早いか。
フロントガラスの上の電光掲示板で次のバス停を確認する。
住宅街のど真ん中じゃ降りても休める場所がない。
どうするか、と迷っているとバスが減速し、「笠咲三丁目〜。内科・小児科専門、スズキ医院前です」というお決まりのアナウンスが聞こえてきた。
身体の重たい動物が歩みを止めるようにバスが停車すると狙っていた二人掛けだけでなく後部座席に座っていた乗客も降りていった。
一護は浦原の腕を支えるようにして最後部の五人掛けの席に腰を下ろした。
浦原を先に行かせ、自分は真ん中に腰を下ろす。
壁に寄りかかろうとする浦原の頭に手をやり、引き寄せるように膝を枕にするように身体を倒させる。
身じろぐ浦原に「駅まであとちょっとだし、他の席も空いた。紙みたいに真っ白な顔してるくせに遠慮なんかしてんな馬鹿」と叱るような口調で云うと、浦原は大人しく一護の膝を枕に横になった。
目蓋の上に手の甲を載せ、ぐったりとしている浦原を見下ろして一護は浦原に気取られないように小さく息を吐いた。
そう云えばコイツ、バス駄目だったっけ。
特に雨の日。
本好きで暇さえあれば図書館に入り浸るくせに、雨の日だけはバスに乗るのが嫌だという理由で家から出ようとしなかった。
思い出すと口の端が緩んだ。
鼻を擦ることでそれを隠して、ぐったりしている浦原に呼びかける。
「相変わらずなのな」
「……ゴメンナサイ」
「誰も謝れなんつってねーだろ。あと二つ。もつか?」
「こうしてると、楽なんで。でも一護サン、重くない?」
一護は何も云わなかった。
具合悪いヤツが気なんか使ってんじゃねーよ、と胸の裡だけで零し、額に張り付いてしまっている髪を剥がすようにそっと梳いた。
触れているのに、触れている気がしないやわらかな髪の感触。
心地いい、というには淡すぎる感触だったが、一護はその感触が好きでしょっちゅうこうして浦原の髪に触っていたことを思い出した。
するり、するり、指を潜らせるように髪を梳いていると強張っていた浦原の身体から力が抜けていくのが膝越しにわかった。
罅割れた声のアナウンスが入る。
浦原の髪に触れるのと逆の手で結露した窓を拭い、外の景色を見る。駅まではあと少し。
それまでに少しでも浦原の顔色が戻ればいい、と思いながら一護は鮮やかな色彩を放つ花たちが滲んで見える花屋の店先をぼんやりと見ていた。
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