鬼灯
§・§・§
【黒崎】
眠い。眠くて眠くて堪らない――。
ともするとくっついてしまいそうな上目蓋と下目蓋を懸命に引き剥がしながら一護は電車に揺られていた。
昨夜から今朝にかけて一睡もせずに「仕事」をこなした。
本当なら一護の「仕事」自体は三時過ぎには片付いていたのだ。
完了報告の電話を上司に入れ,現場を離れようとしたとき,一護の携帯が鳴った。
馴染みの「掃除屋」からだった。
――人手が足りねぇから手伝ってけよ。テメェで荒らした現場だろ?
ぞんざいな口調にふざけんな,と返しかけたがよくよく考えたら終電もない。
一人でタクシーに乗るとどうしても酔ってしまう,というあまり他人には云えない習性がある一護はファミレスでひとり時間を潰しているくらいなら,と腹の中で算段し,是,と返事をしたのだった。
しかし,この病的なまでの眠さは徹夜明けのせいではなかった。
「仕事」の後はいつもこうなるのだ。
身体中に漲っていたアドレナリンが引いていき,まるでぜんまいの切れたブリキの玩具のように動けなくなる。
「次は空座本町――」
天井のスピーカから罅割れた声が目指す駅が漸く次に迫ったことを告げる。
一護は身を包む黒いロングコートのポケットから手を抜くと目を擦った。
親指の付け根に血がついているのに気付き,それをじっと見つめる。
怪我をした覚えはなかったし,痛みも感じない。
……ということは「標的」を仕留めたときについたのだろう。
肩に引っ掛けるように背負ったDパックの中に丸めて突っ込んであるTシャツを思い浮かべる。
三人分の返り血で元の白かった部分が見えなくなるほど汚れたそれ。
脱いだときに身体に飛び散った血もそれで拭ったつもりだったが,あんなに汚れていたら拭っているのか擦り付けてるのかわからないな,と思い出してため息を吐いた。
唇から零れ落ちたため息は全て吐き尽くす前に欠伸に変わった。
ちょうど電車は空座本町駅のホームに滑り込み,一護は涙の浮かんだ目を左手の血のついた部分を避けた手の甲で拭って手摺から身を起こした。
軋んだ音を立てて電車が停車し,まだるっこしいと思えるほどの動作でドアが開くと一護は勤務先へ向かうのか,それとも乗換えか。どちらにしろ「社会の歯車」として真っ当に流れていくスーツの群れに紛れるようにして歩き出した。
まるで迷路のような造りになっている空座本町駅を西口に抜けのんびり十分の道程を歩く。
人でごった返すコンコースを抜け薄汚れた階段を昇って地上に出ると空からは細い針のような霧雨が降っていたが,コンビニへ迂回して傘を買うのも億劫でコートのフードを被ってそのまま歩き出す。
浦原商店は一護の「上司」が営む仲介屋の屋号だった。
商店とは名ばかりで商品を売っているわけではない。
各所から持ち込まれる依頼――どこぞの誰それを殺してくれという物騒なもの――を請け,その仕事を一護に振ってくる上司,それが浦原だ。
一護より十センチほど背が高く,猫背にいつも矢鱈と高そうなスーツを纏っている。
唇の端には煙草。顎には無精髭。
だらしなく伸びた淡い色の髪はぞんざいにひとつに括っているだけのくせして妙にそれがサマになっている。
馬子にも衣装とはよく云ったもんだ,と一護は浦原を見るたびに思う。
クズでも相応の金をかければみられるようになる,その典型なのだと。
営業しているのを見たことがない中東カフェの先の角を曲がって電柱二本分の距離を歩くと事務所の入った雑居ビルに辿り着く。
その辺り一帯に犇く特にこれといった特徴もない見上げると鉛筆みたいに細長い古びたビル。その六階に事務所はあった。
黴くさい,そしていつ壊れてもおかしくないほど古ぼけたエレベータに乗り込み,六階の釦を押す。
イラつくくらいのろのろとした動きでエレベータは上昇し,三度目の欠伸がし終わった頃漸く不満そうに「チン」とベルが鳴って六階に到着した。
朝八時。
浦原が起きているかどうかは賭けのようなものだ。
昨日の電話では云わなかったが,どうせ掃除屋から連絡は行ってるのだろうし,仕事明けにここに顔を出すのは習慣になっている。
起きていなかったら叩き起こせばいい,と一護は錆の浮いたドアノブに手をかけた。
右に捻るように回すと鍵はかかっていずドアはそのまま開いた。
正面,窓を背にどっしりとしたマホガニー材のデスクにだらしなく脚を投げ出し新聞を読んでいた浦原がちらり,目を上げる。
「オハヨウゴザイマス。それからお疲れ様。黒崎サン」
煙草を咥えた口元と,こちらを見つめる目元がやわらかな笑みを刻む。
一護は露骨に眉間に皺を寄せ,舌打ちした。
これはただのクセで別に意味などない。
浦原のすることなすこと癇に障る。ただそれだけだ。
「人が朝まで寝ずに仕事してたってのにテメェはのんびり新聞読んでんのかよ」
「朝までかかったのはキミがお人好しだからデショ。ちゃんと檜佐木サンにバイト代貰った?」
掃除屋――昨日現場にやってきたのは檜佐木と阿散井の二人組だった。
齢も近いし気も合う。
文句を云いながらも適確に仕事をこなす二人の指示に従って手にした報酬は受け取ったまま二つに折ってコートのポケットに突っ込んであったがいくらか数えてはいなかった。
手にした感じから恐らく五万から十万の間。
それが多いか少ないかはどうでもよかった。
俺は別にコイツみたいに守銭奴じゃねぇし――。
一護は相変わらず目元で笑いながらこちらを見つめる浦原の視線を避けるように顔を背けるとコートを着たまま,身体を放り出すようにソファにどっかと腰を下ろした。
身体をすっぽりと包み込むようなソファの背に凭れかかり,部屋の中をぐるりと見回す。
このソファも,床に敷かれた絨毯も,浦原が脚を投げ出しているデスクも,天井に設えられた照明器具も,何もかも通りから見上げたこのビルの外観にはまったくそぐわない。
ラグジュアリーとかそんな言葉が似合いそうな,まるで高級マンションのような内装。
ここが賃貸なのか浦原個人の持ち物なのか一護は知らない。
仮に賃貸だとしてこれほどまでに勝手に手を加えてしまってもいいものなのだろうか,と首を傾げたくなる。
客が来るわけでもねーのに,と一護が文句を云うと浦原は「体裁ってのが必要なんスよ。商売には」と笑う。
「例えば待合室が小奇麗な歯医者と黒光りしたゴキブリが運動会してる歯医者,黒崎サンならどっちに罹ります?」
「…俺は虫歯になんかならねー」
「モノの喩えっスよ。――薄汚い歯医者に行く?」
「……行かねぇ」
「デショ?」
ほーらね,と満足そうに笑みを深める浦原に一護は苛立ちを覚えるが返す言葉が見つからない。
一事が万事こうなのだ。
暇さえあれば酒びたりで,いい加減頭のひとつもイカれておかしくない暮らしをしているくせに,浦原の口は滅法よく回る。
どれだけ一護が文句を云ってもまるで子どもの駄々のようにやんわりと往なされ,最後には煙に巻かれてしまうのだった。
つくづく腹の立つ,と太いため息を吐いているとソファの背がぎし,と軋み,見上げるとそこに凭れた浦原と目があった。
なんだよ,と睨みつけるとなんでも?と笑う目元が返してきて,また腹の底がじくりと波打つ。
「ところで,首尾は?」
「……電話しただろ」
「終わった,てそれだけじゃないっスか。何か変わったことは?」
尋ねられても思いつくことがない。
別に,と素っ気無く答えるとそれは何より,とやわらかな声と一緒に頭をくしゃりと撫でられた。
フードを被っていたせいですっかりぺたん,としてしまった髪に浦原の長い指が梳くように絡められる。
その感触に一護は身体の底で蟠っていた眠気がぶわりと膨らむのを感じ,ぱし,と振り払った。
浦原の方を見ずに立ち上がる。
入ってきたのとは違う,並んだふたつのドアのうち,窓に近い方へ歩き出すと背に浦原の声がかかった。
「寝てってもいいっスけど,服脱いでからベッドに入ってくださいねン」
「…なんでだよ」
「雨。また傘もささずに歩いてきて。服濡れてるでしょ」
「そんなに濡れてねー」
「脱いでなかったら脱がしますよ?」
「…………」
前に同じことを云われて無視したときの悪夢が脳裏を過ぎる。
一度寝入ると一護は大概のことでは目覚めない。
それをよく知る浦原は,言いつけを無視した一護にとんでもない悪戯をしかけたのだ。
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