WALK





§・§・§



時刻は午前八時二十二分。
開け放たれた教室のドアに手をかけ,一護は目を眇めた。
視線の向かう先には窓際の一番後ろの席。そこに,一護の知らないヤツが座っていた。


空座学園高等部,一年三組。それが一護の所属するクラスだ。
クラスメイトは一護を含めて三十五人。
縦に六つ並んだ席が間隔を空けて六列並んだ教室の一番奥,窓際の列の後ろから二番目に一護の席はある。


入学式の翌日,初めてのLHRで行われた席替えで,一護は見事この席を引き当てた。
黒板に描かれた席の配置図に自分の名前を書き込み,ラッキィ,と呟きながら,一護は引き当てた席の後ろの机の分に引かれた斜線に目を留めた。
そういえば三十五人の生徒に対し,机は三十六個ある。
座る者がいないのなら,運び出してしまえばよさそうなものだけど,と考えたが,バランスが悪くなるとか某かの理由があるんだろう,とそのまま目を逸らした。


そして約一ヶ月。
毎日学校に通ううちに,その空席はいつしか当たり前のものになっていた。
だから今,一護は柄にもなく驚いていた。
視線の先,どれだけ目を凝らしても空白のはずの窓際の一番後ろ,そう,一護の席のすぐ後ろに座っている男子生徒の姿に見覚えはなかった。


――誰だ?
転校生?と思ったが,そういうのは普通朝のSHRのときに教員と一緒にやってくるものだろう。


いつもよりざわついている教室の中,耳を澄ませば誰も彼もが声を顰めてその見知らぬ生徒についての推測や噂話をしていた。
聞こうとしなくても耳に飛び込んでくる下世話な話の断片を意識してシャットアウトしながら,一護はさっさと教室を横切った。


そこに座るソイツは周囲のざわめきなんて耳に入らないかのように気負わない表情で窓の外を眺めていた。
度派手なオレンジ色の頭をしている自分が言うことではないが,スクリーンで観る異国の俳優の金髪よりもまだ淡い色の髪と眠たげに伏せられた瞼。
ぼんやりとした面差し。
人目を引くナリをしているくせに,どこか他人の介入を拒む空気を纏いつかせてソイツはそこにいいた。


元から気易い性質でもないし,気にはなったものの馴れ馴れしく声をかける気にもならず,一護は無言で教室を横切ると自分の席の椅子に手をかけた。
がたん,という音がいつもより大きく響いた気がする。でも,それだけだった。


鞄を机の横に引っ掛け,後ろの席に座るソイツと同じように頬杖をついて窓の外を眺めた。
どこまでも続く青い空。
そしてその下には学園のトレードマークとなっている桜の巨木が植わっている。
花はとうに終わり,青々とした葉が五月の風に揺れるのを眺めているうちに,見知らぬクラスメイトのことはするりと一護の頭から抜けていった。


シン,と静まり返った教室内。
誰かが漏らす小さなため息と,後はシャープペンシルが答案用紙の上を滑る音だけが響いている。


一護は「全校一斉学力テスト」と題打たれた三枚つづりの問題用紙を裏返すと小さく欠伸を漏らした。
一時限めから得意の教科,というのは幸先がいい。
チャイムが鳴るまではまだ二十分ほどある。


窓の外は相変わらずよく晴れた初夏の空が広がっていて,肩に降り注ぐ陽射しは暑く感じられるほど。
その真っ青な空を刷毛で刷いたような雲がゆっくり流れていくのを見ていると眠たくなった。


目尻に浮かぶ涙を擦りながら欠伸を零す。
そして机に突っ伏して目を瞑ると,カリカリ,とあちこちから聞こえる答案用紙の上をシャープペンシルが滑る音を子守唄にうとうととした。
あっという間に時間は過ぎ,終了を告げるチャイムに起こされた。


「――はい,そこまで。答案は後ろの席の者から順に前に送って」


監督担当の教員の声にそこここから湧き上がるざわめきが被さる。
一護は裏返していた答案を元に戻し前に送ろうとして動きを止めた。
そういえば後ろにもう一人居たんだった。
答案を受け取るべく後ろを振り返ると,自分をじっと見ていたらしいソイツと正面から視線がカチ合った。


「…………」
「…………」


無言で見つめ合うことしばし。
見つめ合う,というより,傍から見たら眉間に皺を寄せた一護がソイツを睨みつけている,という風に見えたかもしれない。


目つきが悪いのは生まれつきだったが,誤解を受けるのにもすっかり慣れてしまった。
しかしこうしていつまでもにらみ合ってても仕方ない,と一護は視線をソイツに据えたまま口を開いた。


「…何だよ」
「夏みかん,みたいっスね」


笑わないままソイツが云った。
伸ばしっぱなしの淡い色の髪の下に素通しに近い眼鏡のレンズが垣間見える。


目,悪いのか。とどうでもいいことを考えた。
そのせいで「夏みかん」というのが自分の髪に対しての言葉だ,と気付くのに数秒の時が要った。


髪のことを云われるのは正直好きではない。
中学に上がるくらいからそこら中のイキがった連中にそれをネタに絡まれ,つけねらわれ,生傷の耐えない日々を送っていた。
子供の頃から空手を習っていたこともあり腕に覚えがないわけでもなかったからヤラれたら倍返しくらいのことはしていた。
それでもことあるごとに論われる髪の色は,いつの間にか一護の中で小さなコンプレックスになっていた。


しかし,だ。
相変わらずこちらを,というより一護の髪を眩しそうに見つめるソイツから,悪意のようなものは感じられなかった。


顔を隠すように長く伸ばされた前髪と素通しに近い眼鏡のレンズの向こうで笑うみたいに細められた目。
そしてやわらかく緩んだ口許。
威嚇することすら一瞬忘れ,一護はバツの悪さに小さく舌を鳴らすとソイツから視線を逸らし,机の上に伏せられていた答案に手を伸ばした。


「美味しいですよね。夏みかん」


背けた視界の端ぎりぎりに辛うじて引っ掛かるそいつの口の端に浮かべられた笑みが深くなる。
知るかよ,と一護が黙って答案を引き寄せようとすると,ほんの僅か縮まった距離を一気にゼロにするようにすい,と顔を寄せられ,目を覗きこむようにして「嫌い?」と尋ねてきた。


うすいレンズの向こうから自分を見つめる一対の瞳。
目元は笑っているのに,まるで硝子玉みたいな目玉だった。


「別に」


会話はそれで終わった。
一護は引き寄せた答案を表に返して自分の答案を重ねて前の席に送った。
答案を重ねるとき,下にしたそれの左端に筆圧の薄い,それでいてきれいな文字で「浦原喜助」と書かれていたのが目に入った。


浦原喜助。
ウラハラ・キスケでいいんだろうか。
なんで今まで登校してこなかったのか。
病気か。怪我か。それとも他の理由があるのか。
いくつもの疑問が浮かぶが,あの硝子玉みたいな目が脳裏をちらついてもう一度振り返る気にはなれなかった。


それに,お節介は柄じゃない,ともやもやと蟠る気持ちをため息に混ぜて吐き出すと,トイレにでも行くか,と席を立った。
教室を出るとき,何となく肩越しに振り返ると,朝と同じようにソイツ――浦原は頬杖をついて窓の外をぼんやり見ていた。












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