Sugar Garden
§・§・§
「…どうしろってんだよ,んったく」
途方に暮れた声で呟いて,一護は眼前の薄汚れたガラス戸を恨めしげに見つめた。
埃で曇った窓ガラスには「新作続々入荷」「一週間三〇〇円均一」などの文字が色褪せたカッティングシートで綴られ,店の中を通りから隠している。庇になっているテントは薄汚れて店の名前も判然としない。
学校からそう遠くないところにある一軒のレンタルビデオ屋の前に一護はいた。
これから,この店を訪ねて,一本ビデオを借りてこなければならないのだった。
普通のレンタル屋でビデオを借りるだけならこんなに緊張したり憂鬱になったりしない。借りるビデオが問題なのだ。
聞いたところによると,この店はエロビ――所謂アダルトビデオ――の専門店だというのだ。
ことの起こりは今日の昼休みだった。
このところブームになっているトランプの大貧民で珍しく一護が最下位を獲った。
そう熱を入れているわけでもないのに負け知らずの一護に日頃からずるいだのイカサマだの文句を垂れていたクラスメイトたちはこぞって囃し立て「今日の罰ゲームはスペシャルだ!」と気勢を上げた。
「ちょっと待てよ!罰ゲームって帰りの荷物持ちじゃねぇのかよ!」
「フフン。ずーっとずーっと一人勝ちしてたんだからここは大人しく食らえって!」
「わけわっかんねぇなんだよそれ!そんなん聞けるか!」
「敗者に反論の余地はなし!なぁみんな!」
そーだそーだと口々に賛同する面々を前に,一護は眉間にきつく皺を結んで「もう二度とやんねーからな!」と不貞腐れたものの,結局は押し切られてしまったのだった。そして放課後突きつけられた罰ゲームの内容がコレ。
――学校の裏手の通りの先にあるレンタル屋ですんげーエロビを一本借りてくること!
ゲームを一緒にやっていた四人のクラスメイトが一斉に唱和したその内容に,一護は目を剥いた。
「バッカ無理に決まってるだろ!カード作る段階で未成年ってばれるっての」
「へーきへーき。アニキが云ってたけど,あそこカード作らなくても二百円の保証料払えば貸してくれるんだって」
「ッ!つったって顔でバレる!」
「そこを含めてなんとかするから罰ゲーム!」
ニヤニヤ楽しげに言い放つヤツらを前に,一護は頭が痛くなるのを感じた。
冗談じゃねぇぞ,おい。
肩をがっくりと落とし,何か逃れる術はないかとひとりひとりの顔をじっと見つめた一護に,メンツのうちのひとりがにこりと笑いかけた。
「ていうかさ,ゲームなんだから本当に借りられなくたって一護が店に行って頑張ったってところを見せればいいんだよ」
そうか?そういう問題なのか?
そんな思いを込めて視線を横に滑らせると,胡散臭く「そうそう!そのとおり!」と他のメンツは相変わらずのニヤけ顔で口を揃えた。
ここまで云われては仕方ない。一護は深々とため息を吐くと
「……借りれなくても文句云うなよ。行くだけは行ってくる」
そう約束したのだった。
「よっしゃ,そうこなくっちゃ!」「流石は一護!」「黒崎,オットコマエー!」口々に嬉しそうにはしゃぐメンツと足取り重く学校を出て,すぐそこの通りでひとり放り出されてから,早半時間が経過していた。
行きつ,戻りつ。
店の中を覗き込んではため息。
ドアに手を伸ばしては,唇を噛み締めて手を引っ込める。
そんなことを延々繰り返していた。
なんでこんなこと。…ちくしょう。
そう思うのに,してしまった約束を反故にすることは性格上どうしてもできなくて,一護は途方に暮れた。
すると耳に役場が鳴らす夕方四時半の放送が聞こえた。
いつまでも,こうしてたってしょうがねぇ。
行く。
それは決まってるんだ。
腹,括れよ俺!
両方の手をぎゅっと拳のかたちに握り締めて,一護は気合を入れた。
そして頭を過ぎる様々なことを一切合財無視して,店のドアの取っ手だけを見つめてそこに手を伸ばした。
力を込めて,引く。
からからから,という音に続いて,電池が切れかけているのか妙に間延びしたチャイムの音が響き渡った。
とうとう入ってしまった。
そう思うとくらり,眩暈がした。
カウンタに座っている店員らしい男がちらり,こちらを見たがすぐに興味なさそうにカウンタの上に広げた雑誌に目を戻した。
どくん,どくん,と耳の奥にもうひとつ心臓があるみたいに自分の鼓動が大きく響いた。
一護は深呼吸をするように大きく息を吸い込むと手近な棚の前に移動した。
『幼獣桃色大変化』『すけべな娘は好きですか』『濡れた体操着』などなどずらりと並んだパッケジの背に記された文字をいくつか追っただけでぐらんぐらんと視界が揺れた。
俺,マジでこれ借りるのか?
つーかどれにしたらいいんだよ。
下手なの選んで「オマエの好み?」とか云われたら俺死ぬ。
絶対死ぬ…。
深刻な悩みは眩暈を吹き飛ばし,一護は真剣な面持ちでパッケジの背をひとつひとつ目で追った。
なるべく当たり障りのない題名を。誰に見られても,そう恥ずかしくない名前のヤツを。
『奥まで見ちゃイヤ』『エロエロ☆ラッシュアワー』『スイーツパラダイス・女体盛り』そこまで目で追って一護は泣きたくなった。
どこを見ても直截過ぎる言葉の羅列。タイトルを目が拾って不埒な熱がもやっとするより先にげんなりしてしまう。
萎える心を蹴飛ばすように叱咤してタイトルを読み,移動した三つ目の棚でとうとう一護は力尽きた。
濡れた砂が詰まったように重たく感じる腕をのろのろと上げ,掴んだ一本のビデオテープ。そのパッケジには「もぎたてオレンジ☆果汁で濡れ濡れ」と記されていた。
何がもぎたてだよ。
何が果汁で……だよ。
そうは思ったが,これ以上この場に居たくなかった。
しかし,ビデオテープを選び取ってからがまた問題だった。
借りるためにはこれをあの店員がいるカウンタまで持っていかなきゃならない。
カードなしで貸してくれるように告げなければならない。
そのことを思っただけで,一護はビデオテープを放り出してその場から逃げ出したくなった。
棚の影からこっそりとカウンタを窺う。
店員は頬杖をついてつまらなそうに雑誌のページを捲っている。
手を止めると,頬杖をついたまま,くああ,と欠伸を漏らした。
淡い色の髪にフレームの上の部分がプラスチックで他はぐるりと銀縁の眼鏡。
服装は黒いTシャツの上にチェックガラのシャツを羽織っている。
眼鏡はオッサンくさいし顔はよく見えないけど,結構若いような気がする。
観察している一護の視線に気づいたのか,店員がちらりと目を上げた。
一護は慌てて棚の影に身を隠した。
俺,何隠れてんだ?
心臓がどきどきと鼓動を早めるのを感じながらも一護は唇を噛み締めた。
ちくしょう。
もういい。
さっさとケリつけてやる!
勢いづけるようにフン!と息を吐き出し,一護はズカズカとカウンタに歩み寄って無言でパッケジを突き出した。
「イラッシャイマセ」
店員が棒読みの声でそう云った。
顔が,真っ赤になっていくのがわかる。
早く,云わないと。
カードはいらないって。
そんで金払って,受け取って,早く帰りたい…!
最後の「早く帰りたい」その一心で一護は顔を上げて店員を見た。
そして口を開きかけたのだが,店員が眼鏡の向こうからちらりと寄越した視線に顔がぶわっと赤味を増すのを感じ,それきり云おうと思ってた言葉が喉の奥に落っこちてしまった。
店員は笑っていた。
馬鹿にした感じじゃなくて,なんかいいものを見たみたいな,楽しげな顔で。
もうやだ…!
堪らない,とすっかり心が挫け踵を返そうとした一護を,店員の声が止めた。
「えっと,こちらはレンタル,ですよね。カードはどうします?」
「い,いらないっ」
「そうですか」
店員はあっさりそう云ってカウンタの下から青い袋を取り出してビデオテープの横に置いた。
え,貸してくれんの?
マジ?
こんなあっさり?
思わず顔を上げて店員の顔を見た。
店員は変わらず笑っていた。
そして目をほんの少し細めると,更に言葉を継いだ。
「いちおうルールなんでお伺いしますけど,お客サン,おいくつで?」
やっぱり来た!
しかしその質問は想定の範疇にあった。
ここまで来たら引き下がるわけにはいかない。
一護はごくりと喉を鳴らして唾を飲み込むと,店員をにらみつける勢いでまっすぐに見つめた。
「じゅうはちっ」
「お生まれは西暦何年?」
「……一九八×年」
「干支は?」
えと。
えとって何だ?
巧く漢字変換ができなくて「えと…?」と聞き返すと「ナニドシ?」と問いが重ねられた。
えとは干支,ということらしい。
西暦までは計算しておいたがこの質問は想定外。
慌てて自分の齢から逆算した。
「…ね,ずみ?」
漸く弾き出した答えを云う声は,混乱と緊張と焦りのせいでまったく自信がなく,語尾が疑問形になってしまった。
店員は一護の目をじっと覗き込むように見ると,眼鏡のブリッジに手をやり,ふわり,目元をほころばせた。
「ぶっぶー。ハイ,失格。残念ながらお貸しできません」
店員の言葉に一護は目を見開いた。
「え,ちょっと待てよ!子じゃねぇの…?」
云いながら両手の指を折りながら子丑寅…と数える。
「あ,亥か!」
「いいえ?」
「うっそ!ちょっと待てよ。……あ,逆なのか。未の前が午,その前が巳,辰,で卯。卯?」
「ハイ,その通り。正解は卯年。年齢詐称するならその辺もちゃんと詰めておかないと」
くすくすとおかしそうに笑いながら云うと,店員はカウンタの上に置かれていたパッケジを手に取り,背後の棚に戻そうとした。
「ち,ちょっと待って!」
気づいたらそう,叫んでいた。
「ハイな?」
振り返った店員に一護は捲くし立てる勢いで頼み込んだ。
「それ,借りて行かないと駄目なんだ。だから頼む!」
「…駄目も頼むも,未成年に貸したりしたらアタシの手が後ろに回っちゃうんスよ」
「絶対バレないようにするから!」
顔の前で両手をバシッ!と合わせて拝んだ。
よくよく考えれば一護は制服姿で,店に入った段階から店員は一護が中学生だとわかっていたんだろう。
それでも邪険に追い返すことなく,叱り付けるでもなく,きちんと喋ってくれた。
一護はそこに一縷の望みをかけたのだった。
ぎゅっと瞑っていた目をそっと開いて店員を見るとパッケジで肩をとんとん,と叩きながら片方の眉をひょい,と上げて一護を見た。
「想像するだに,罰ゲームか何か?」
一護は目を見開いてこくこくと頷いた。
なんでわかったんだろう?
「…なるほどね。で,うちの店で借りて来いって?」
「最初は本を買ってくるって話だったんだけど,なんかごちゃごちゃ云ってるうちに『オマエ映画好きだからビデオ借りて来いよ』とかって話になってて」
「……脈絡ないっスね」
その通りだ,と一護も思っていたので同意を示すべく深々と頷きながら「でも,明日持って行かないとヤバいんだ」と言葉を重ねた。
店員は「事情はわかりました」と云った後,肩をとんとん,とやっていたパッケジをカウンタの上に斜めに立てるように置いて指先でくるりと回した。
「でもね,コレ,キミが観るようなのじゃないっスよ?」
「え?」
「『もぎたてオレンジ果汁で濡れ濡れ』なんて可愛いっぽいタイトルっスけど,中身かなりエグいもの。性経験に未熟な少年が観たら,トラウマになって勃たなくなっちゃうかも」
「へ?」
「ナンパからハメ撮り,玩具…イワユル大人のオモチャってヤツで前も後ろもめちゃめちゃにした後にいきなりSM調教が入って浣腸,排泄,スカトロ。スカトロって意味わかる? 出したものを食べるの。そういうの平気?」
「え…」
言葉が出なかった。
云われてる言葉の半分も理解できなかったが,とにかくものすごくヤバイ代物らしいというのはよくわかった。
さぁぁ,と音を立てて顔から血の気が引いていく。
そんな一護の顔をちらりと見た後,店員はふ,と笑って再び口を開いた。
「まぁね,事情が事情っスから?こっそり貸すのは吝かじゃないっスけど,後のことは責任持てませんよー?」
店員の声が遠くなる。
一護にはビデオを見た友達連中が「オマエこういうのが好きなわけ?」「エグ!」「いよ!この変態ムッツリスケベ!」などと口々に云うのが聞こえた気がした。
「じ,じゃあ他の!」
「他の…ねぇ。基本的にうち,マニアックなのしか置いてないんスよ。キミがさっき最初に見てた棚は全部幼児愛好でしょ。で,そっちの棚が同性愛。アニメのもあるけど,そっちは半端なくエグくて触手,ふたなり,獣姦,部分調教。そんなのばーっかり」
にっこり笑って首を傾げる動作とは裏腹に,店員の口からこぼれた言葉は,一護の度肝を抜いた。
どれを選んでも「ヘンタイムッツリスケベ」の称号からは逃れられそうになかった。
勘弁してくれよ…。
泣きたい心地で店員を見ると,店員は苦笑を浮かべたやさしい顔で一護を見ていた。
「やめといたら?」
その言葉に膝から力が抜けた。
ずるずるとへたり込み,カウンタに突っ伏す。
白い合板のカウンタはぺたりと張り付けた頬に冷たくて気持ちが良かった。
「止めといたらってそうできたら苦労しねぇよ。罰ゲームなんだぜ」
泣き言めいた声に,店員から返ってきたのは予想外の言葉だった。
「本なら貸してあげられますよン。アタシがさっきまで読んでたのはどう?」
顔のすぐ横にばさり,と雑誌が置かれた。
一護の目の前で店員の指がぱらぱらとページを捲り,ほら,と雑誌の向きをくるりと変えた。
――長い,指。
ぽつり,そんなことを思った。
って俺,何考えてんだ?
慌てて顔を起こして傍らに置かれた雑誌を見る。
そして一護はそのまま硬直した。
白い小さな三角形のビキニで豊満な胸のほんの一部だけを隠した女が,脚を,アルファベットのMの字のかたちに開いて突き出した舌で自分の指先を嘗めていた。
その,モザイクのない局部を凝視してしまい,一護の頭が真っ白になる。
つい先ほど引いた血の気が今度はかぁぁ,と音を立てて足元から頭に上る。
動けない。
目も逸らせない。
「これねー,裏モノなんスけどなかなかの出来で。他のページもすごいのたくさんあるから,ビデオの代わりにはなるんじゃないかと」
ビデオの代わり,の一言が一護の金縛りを解いた。
確かにこれだけすごい本なら誰も文句を云わないだろう。
すっげーエロいけど,変態くさくはないし。
「い,いいのか?」
「いいっスよ?」
あっさりと頷いた店員が,まるで神様みたいに見えた。
「ありがとう!」
ぺこりと頭を下げると,視線がまた開いたままだった雑誌のページに釘付けになってしまった。
うわ…違う!
観たいんじゃないんだ。
でも,目が離れねぇ…!
助けてくれ!
そう思いながらもどうにもできないでいると,店員の手がすっと伸びてさっき置いた青い袋に雑誌を入れてくれた。
「はい,ドウゾ」
「明日,必ず返すから!」
「あぁ…いつでもいいっスよ?」
「や,そんないつまでも借りてるわけにはいかねぇよ。悪いし」
一護が真顔で首を横に振ると,店員はくすりと笑って「だってほら,ねぇ?」と意味深に視線を流した。
「なに?」
「キミだって,ゆっくり見たいでしょ?」
ぎょっとした脳裏にさっき見たばかりの真っ白い女の身体が浮かび上がる。
顔がぼん!と爆発したみたいに赤くなるのがわかった。
「違ッ!俺は違う!」
「まぁまぁ。キミくらいの年頃だとどうしたって興味湧くのは仕方ないことですし?」
「違うってば!」
「じゃあなんでそんなにぎゅっと抱きしめてるの?」
云われて視線が落ちた。
知らず知らずのうちに,一護は雑誌の収められた青い袋を胸にぎゅうぎゅうと抱きしめていた。
「ち,ちちちち,違うんだって」
首を横にぶんぶんと振りながらも,本の収められた袋を持った手をどこにやっていいかわからない。
泣きそうに顔を歪めた一護を,店員は目に涙が浮かぶほど気前よく笑った。
「笑うなよ!」
「あぁ…スミマセンね」
云いながらもくつくつと喉を鳴らしている店員に一護は地団太を踏みたいような心地に駆られた。
「…あ,ところで」
目尻に浮かんだ涙を拭いながら店員がようやく笑いを引っ込めて一護を見た。
「…なんだよ」
「キミ,お名前は?」
名前?
そう思ったものの隠す必要もないか,と一護はそのまま自分の名を口にした。
「黒崎一護」
「イチゴ?」
「果物じゃねーからな!漢数字の一に守護の護!」
「はぁ,一護サン,ね」
なるほど,と納得した風の店員にフン!と鼻を鳴らすと仕返しとばかりに一護も名を尋ねた。
「アンタは?」
「アタシのことは店長,とでも読んでくださいな」
「俺だけ名乗ってアンタは名乗らないのかよ」
思わず口を尖らせた一護に,店員…もとい店長は「自分の名前,あんまし好きじゃないんスよ」と苦笑を返した。それからカウンタに身を乗り出すと不貞腐れ顔の一護の顔をじっと覗きこんだ。
「でもま,それ返しに来てくれたときにでもお教えしましょ」
「…なんだよそれ」
「オヤ,もう六時近くになりますよン?帰らなくて大丈夫?」
「げ,もうそんな時間かよ!あ,ええとそしたらこの本!借りていくから。で,明日必ず返す!約束な!」
云いながらドアに向かう一護を追うように店長はカウンタから出て店の入口までついてきた。
「はいはい。またね,一護サン」
「またな!」
条件反射で返しながら,なんであのひと俺のこと名前で呼ぶんだ?と気になったが,勢いよくぺこりと頭を下げると一護は家に向かって駆け出した。
門限前になると親父が玄関前に陣取るから,その前には帰らないと。帰ってこの本を隠さないと。
さきほど頭を過ぎった些細な引っかかりは目前の心配事にあっという間に霧散してしまった。
|
|