Dreieck vier





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徹夜で仕上げた仕事をメールに添付し送付した午前五時。
しん,と静まり返ったダイニング・キッチンで黒崎は込み上げた欠伸とため息を一緒くたに吐き出しながら疲労で鈍く痛む目頭を指先で揉んだ。
コーヒーが飲みたい,と部屋を出てきたが,きれいに磨かれた台所を見たらやる気がなくなった。
煙草のフィルタを噛み締めながらシンクを離れ,壁にかけられたカレンダーの前に立つ。
日付欄が大きく数字がくっきり読みやすい,という理由だけで取引先のひとつから毎年貰うカレンダーには,三人分の文字であちこちに書き込みがされている。
火曜と土曜には浦原の文字でアルバイトのスケジュールが。
八がつく日に「特」という字がまるで囲ってあるのは甥っ子の字で,「これ何スか?」と矢印付きで浦原が尋ねた下には「スーパーの特売日だろ。いい加減覚えろ馬鹿」と無愛想極まりない甥っ子の口調のままの書き込みがされている。
思わずくつりと喉を鳴らして,二人分の文字が並ぶ箇所を指でなぞった。

休日前ともなるとなんだかんだでぎゃあぎゃあと騒ぎながら明け方まで映画を観ていたりしてることもあるが,今日は早々に引き上げたらしい。
昨日一日二人と会話した記憶がないので,もしかしたら切羽詰っている自分に気遣って大人しくしたのかもしれない。
甥っ子である白崎も,その友人である浦原も,それぞれに所謂「問題児」だったが,こういうところは余所んちのクソガキよりも何倍も可愛い,と黒崎は思っている。

今日は十八日。
込み上げた欠伸が,煙草を咥えているせいで中途半端に逃げていく。
じわり,目尻に浮かんだ涙を眼鏡の上から人差し指で擦りながら「18」の場所を見ると自分の字で「逆撫・18時」と書かれた下に「メシいらねー」と書かれていた。

なんだ?
と首を傾げじっと見つめること数秒。
忘年会だ,と漸く思い出した。
十一月下旬辺りから仕事の電話をしていてもあちこちから忘年会の誘いを受けることが多くなる。

「十二月ってのは教師も走るくらい忙しいから「師走」って云うんじゃねーのかよ。どいつもこいつも飲む話ばっかしやがって」

毒づいても,縦横問わず人との繋がりから仕事を請けている身としては「面倒臭ぇ」の一言で切って捨てるわけにもいかない。
酒が嫌いなわけでもないし,行けば行ったでそこそこ楽しい時間が過ごせるはずだ。
萎える気持ちを奮い立たせるようにそんなことを考えながらカレンダーを睨みつける。
今日の主催はカレンダーを寄越したデザイン事務所のもの。
一緒に参加する予定だった知人のカメラマンからは急な仕事が入ったから,参加は見合わせるとさっきメールが届いていた。
こちらが仕事中であることを見越して携帯ではなく仕事用のアドレスに連絡を寄越す辺りが黒崎のことをよく知っている人物,と云えた。
しかし,黒崎に連絡してきたとなると,恐らく主催側には不義理だなんだと喚かれるのを見越して連絡してない,ということでもある。

「…面倒押し付けやがって」

煙草の吸い過ぎで掠れた声で呟くと,黒崎はふ,と動きを止めた。
脳裏を過ぎった思いつき。
明日はいちおうオフということになってはいるが,だからといって明け方まで引っ張られて折角の休日をまるまる寝て過ごすというのも馬鹿らしい。
だったら防波堤として――あの二人を連れて行くか。

口の端を引き上げる。
店は「逆撫」,デザイン会社の社長である平子の行きつけの居酒屋だ。
こじんまりとした店は所謂「アットホームな雰囲気」が売りで,平子に何度か連れて行かれたときも家族連れの客もちらほら見えた。
そしてこれが一番の肝だったが,未成年連れで参加すれば早めに抜ける言い訳も立ちやすい。

そうだ。そうしよう。
平子の事務所の社員は誰も彼も気のいいヤツらではあったが,揃いも揃って酒癖が悪い。
絡み上戸に泣き上戸,怒り上戸に脱ぎ上戸。
どちらかと云えば静かに飲むのが好きな黒崎は,正直ついていけないテンションでもある。

誰か一人とサシで飲むならまだマシなんだけどな。
思い出したくもない去年の惨状にため息を吐きながら,黒崎は首の後ろに掌を当てて太いため息を吐いた。
そして煙草の穂先に灰が長く伸びていることに気づくと,テーブルの上の灰皿へと手を伸ばし,躙るようにして火を消した。
とりあえず寝よう。
今から寝れば,多分朝飯には起きられるはずだ。
昨日一日ろくなものを食べていない胃袋は「朝飯」という単語を思い浮かべただけでぐぅ,と不満を零すような音を立てる。
冷蔵庫をあければ何かしらはあるだろうが,甥っ子の城たる台所を乱すのも気が引ける。
というよりも,もう眠気が限界だった。

眼鏡を外してシャツの襟元に引っ掛ける。
瞼の上から左,右,と交互に眼球を押して,じんわりと響く痛みに顔を顰める。
部屋に戻ったらメールが送信済みになっているかどうかだけ確認して,そのままベッドにダイヴだ。

壁際のスイッチで明かりを消すと,一瞬で部屋は薄闇に閉ざされた。
十二月ともなると五時過ぎではまだ朝日の欠片も見えない。
そんなことを考えながら黒崎は自室のドアへ手を掛けた。