――俺は,アンタとは行かない。
俯いた眉間に寄せられた皺。
掠れた声。
握り締められた拳。
嗚呼,これは夢だ。
目の前に立つ自分より僅かに小柄な青年の姿を静かな目で見つめる。
――アンタのやり方にはついていけない。アンタとは考え方が違いすぎる。俺は,俺を信用してくれた人たちをカードの一枚として見ることなんてできない。喩え無理だとわかっていても守りたい。守ることに全力を注ぎたい。それが工作員として不適格だというのなら俺には。
――キミはいいエージェントですよ。
悲痛な声を遮るように響く穏やかな自分の声。穏やかなだけで感情の微塵も滲まない,作られた声。
視線の先,青年の顔がくしゃりと歪む。
――でも,もう無理だ。無理,なんだ。これ以上,アンタと一緒にいたらきっと俺は駄目ンなる。
かけるべき言葉はなかった。
冷たく重い沈黙が降りる。
自分の言葉を待っているのだ,ということはわかっていた。けれどもかけるべき言葉などどこにも見当たらなかった。
――それに,心当たりに連絡してもう次の仕事も貰ったんだ。
沈黙に耐えかねたように,言葉が継がれた。
そう。それはよかったですね。
そう云ってやるべきなのかもしれない。
かもしれない,ではない。
そうなんだろう。
けれども喉が閊えたように舌が凍りついたように言葉が唇を動かすことはなかった。
表情を殺したまま視線を足元に落とす。
ひび割れたコンクリートの地面の上,瓦礫の破片が小石となってそこここに転がっている。
ゆっくりと足を上げ,つま先でそのうちのひとつを軽く蹴る。
かつん。
微かな音がした。
視界の端,青年が顔を上げる気配がする。
しかし浦原はその顔を見ることなくゆっくりと踵を返した。
「どこにいても,最善を尽くすことを忘れないで」
一時の感情に流されないで。
世界はキミが思うよりもずっと悪意に満ちている。
利用し,利用され,傷つけ,傷つけられ。
アタシはキミが傷つくところは見たくない。
だから守る力を与えようと思った。
他ならぬキミ自身を守る力を。
けれども結局はアタシの思惑から大きく外れて,キミは「誰かを守る力」を欲するようになった。
その細い二本の腕で一体どれだけのものが守れると?
その掌から零れ落ちたものを思うたび,どれだけ傷つくかわかっているの?
…でも,きっとそれすらすべて許容するように笑うんでしょ。
キミは,そういう子だ。
ねぇ,黒崎サン――。
言葉にならない思いを,たった一言に託した。
この想いが届けばいい。
そう願うような気持ちで。
同時に,届くことがないとそのことを確信した上で。
――07:12 am...
心地よりまどろみをぶち破るのはいつだって電話の音と相場が決まっている。
そんな暮らしをもう十数年来続けていた。
作戦中以外はとことん寝汚く目覚まし時計の類では一切起きることができない浦原のため,必要に応じて毎朝秘書が電話を寄越すのだ。
そしてその習慣は四年前に作戦部門から後方支援に異動になって以来はほぼ毎日になっていた。
今朝もまた,まだ眠りの殻を半分引き摺ったまま浦原はベッドサイドのナイトテーブルに手を伸ばすとそこから携帯電話を取り上げた。
半目で背面液晶を確認すると,そこには秘書の名ではなくR.Matsumotoの文字。
そのままぱちん,と携帯電話を開き「…はい,どうも」と寝起きのせいで低く掠れた声で出るといつもなら冗談のひとつも飛ばしてくるハスキィ・ボイスが切羽詰った響きでもって響いた。
「今,どちらにいらっしゃいます?」
「…家,ですけど」
「オフィスにはどれくらいで?」
「小一時間,てところですかね。…って一体何があったんスか?だいたい今,何時――」
「三十分が限界です。電信を送りますので,他に先んじてご覧になられたい場合はすぐさま局に向かってください」
「え,ちょっと松本サ…」
名前を呼び終えるより先に通話が切られた。
浦原は枕に顔を半分埋めたまま深く深く苦いため息を吐いた。
通話が切れた携帯電話の液晶モニタには07:12 amの文字が浮かんでいた。
十分後,浦原は愛車であるポルシェ911カレラ4Sの運転席にいた。
マカデミアン・メタリックのスポーツカーはスコッチ・ウィスキを少々嗜む以外にほとんどと云ってよいほど何物にも興味を持たない浦原の唯一の嗜好品だった。
猫科の肉食獣が獲物を見つけた歓喜に唸るような低い音を立てて六気筒ボクサーエンジンが始動するのをシート越しに身体中で感じながら浦原はサングラス越しにルームミラーを覗き込む。
小さく息を吐いて車を発進させ,マンションの地下駐車場から出るとゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
視線をフロントガラスに据えたまま助手席のシートの上に投げ出しておいた携帯電話に手を伸ばす。
リダイヤル釦を押して待つこと二コール。
回線が通じ「今,どちらです?」と先ほどと変わらず緊迫感の滲む声が応答した。
「そんなことより,一体なんだってんです?」
「届いた電信を読んでください」
「先に概要だけでも。…まだ頭がよく回ってなくてこのままだと局に着く前に事故っちゃいそうなんスよ」
「……斬月が」
囁くように紡がれたひとつのコードネームに浦原はぞわり,皮膚が粟立つのを感じた。
小さく息を呑み「彼がどうかしましたか?」と冷静な声で返す。
「これ以上のことは今は。これ,携帯ですよね?後ほど安全な電話でご連絡ください」
「諒解」
ぱちんと音を立てて携帯電話を閉じ,助手席に放りながら更にアクセルを踏み込む。
日曜の朝,ゆったりとドライヴを楽しむ車たちを次々と抜きながら浦原はちらりとルームミラーに目をやる。
濃い色のサングラス越し,眉間に皺が寄っているのが見えた。
ち,と小さく舌を鳴らし深く息を吸い込む。
ギアを叩き込みながら急加速し,隣の車線を走る連なった二台が背後に消えていくのを横目にスーツの内ポケットからつる草の彫金が施されたシガレット・ケースを取り出す。
その表面をそっと撫でると指先でぱちんと留め金を外し,小さく揺すって飛び出た一本を口に咥えるとライタで火を点した。
深呼吸をするように深く吸い込むと肺腑にニコチンが滲みていくのがわかる。
もう一度ルームミラーを覗き込むと,そこにはいつもの自分がいた。
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