抒情詩


西條 葎





† † †



――耳を劈かんばかりの蝉時雨と,ふやけた脳に突き刺さるような踏み切りの警鐘。
照り付ける太陽に焼かれたアスファルトから立ち上る熱気に晒されて,脳がどろりと融けていくような感覚に陥る。


暑い,と口にするのも億劫になるほどの猛暑。
それ自体が発光するかのように眩い夏空を翳した手の下から見上げて一護はうんざりしたため息を吐いた。


カン・カン・カン・カン,という甲高い警鐘が止んで,ゆっくりと遮断機が上がる。
ペダルを漕ぎ出すと,視界の端に昼休憩を摂っている工事現場が目に入った。

















足元に張り付く影から逃げるように防錆塗料のすっかり剥げ落ちた鉄製の階段を二段飛ばしで駆け上がる。
載ってきた自転車は塀の影にチェーンをかけておいてきた。
どうせたかが一時間のこと。それにこの炎天下の中ご苦労にも自転車泥棒に精を出す輩がいるとも思えない。
最後の一段を蹴り付ける様に上がって,その勢いで正面に続くモルタル敷きの通路の一番奥まで駆け抜ける。
ドアノブを握って右に回すと,何の抵抗もなくドアはすんなり空いた。


「…いらっしゃい」


すぐ傍から声がする。
しかし真夏の太陽に晒されていた目が部屋の中の薄暗さに馴染むことができず,ハレーションを起こしたように視界がチカチカと瞬いて声の主の顔を見ることは叶わなかった。


「…暑」
「っスね。麦茶,飲む?」


からん,とグラスの中で氷が涼しげな音を立てた。
しかし,一護は――。


視界の利かぬまま蹴り飛ばすように靴を脱ぎ,声のする方に手を伸ばす。
触れたのは首筋。
肉体労働者特有のしなやかな実用的な筋肉の感触を掌に感じ,込み上げる衝動のままに引寄せる。


感覚で見当をつけた辺りに唇を寄せると,後ろ髪にくしゃりと指が差し込まれ,痛いほど上向かされて口付けられた。


「麦茶より,こっち?」
「…当然,だろ」


うらはら。
唇で名を呼ぶとようやく取り戻しかけた視界に,男の笑い顔が映る。
それを認めた瞬間、腹の底で燻っていた欲望が瞬時に暴発するのを感じた。


触れる唇に歯を立て,差し込まれる舌に自らのそれを絡める。
無造作に括られていた男の髪に手を差し込み,くしゃくしゃに掻き混ぜながら伸び上がって鼻先に噛み付き更にその先を強請る。
浦原の手が一護のTシャツの裾にかかり,一息に脱がされる。
一護も動揺に浦原の身体を包むTシャツの裾に手をかけ,ズリ上げるように「早く脱げ」と急かした。
その間も唇は離れることはなく。


台所からガラス戸一枚隔てた狭い四畳半。
浦原の足が部屋の隅に畳まれていた布団の端を蹴り上げて広げる。
その上にどさりと一護が倒れこむと,そこからはもう言葉もなくただ獣のように貪り合うだけだった。


身体の深くで繋がりながら,一護は自分に圧し掛かる浦原に手を伸ばす。
頬を伝う汗が顎先にたどり着き,無精に伸ばされた髭を伝って滴り落ちんとしている。
頭を浮かせて伸ばした舌先でそれを掬い取ると,見下ろす浦原の目が眇めるように細められた。


抱え上げられた脚が畳に擦れるほど大きく開かされ,深くを抉るように穿たれる。
筋の引き攣れる痛みが齎される快楽に溶けていき,喉から零れたのは甘く掠れた息だけだった。


「…もっと?」
「ん…」


頷きながら首に回した腕に力を込める。
もうどちらのものともしれない汗ですべり,侭ならないのが歯痒かった。


脳が融ける。
骨も,全部。全部,融ける。


締め切られた窓の隙間から蝉時雨が入り込む。
部屋の隅に置かれた扇風機が気怠げに首を振り,ぶうん,ぶうん,と鈍い音を立てる。
ちりーん,と軒先に吊るされた風鈴が,気温とも太陽の眩さとも縁遠い涼しげな音で鳴る。


けれどもどの音も一護は聞いていなかった。
耳元で継がれるは,は,という荒い息。
そしてぐちゃぐちゃと聞くに堪えない濡れた音。
そんなものたちばかりを拾って,羞恥に晒され興奮を煽られてどんどん深みに嵌っていく。


「――りねぇ」


もっとだ。
もっと――全部寄越せ。
抱き寄せた身体の鎖骨に額を擦り付けながら軋るような声で強請ると,首筋を辿っていた唇がふ,と離れそこに強く噛み付かれた。

















「大丈夫?」
「…あぁ」


一護の平らな腹の上に頬をぺとりとつけて浦原が問う。
無精に伸ばされた髭が声に合わせて皮膚を擽り,その感覚に眉間に皺を寄せながらそれでも一護は答えた。


時間にして小一時間。
二度,吐精した。
それが多いか少ないかはわからない。


身体の芯を抜かれてしまったような疲労感がある。
爽快感はない。
ただ,空っぽになってしまった。そんな感覚があるだけ。


「そろそろ時間,スね。シャワーどうします?」
「浴びる」
「じゃあ一緒に」


ひっそり笑う声がして,手首を掴んで引き起こされた。
されるがままに立ち上がると,腰を抱かれて口付けられる。


「止めろ」


掌で邪険に押し遣って,縺れそうになる足で浴室を目指す。
コックを捻ると壁に固定されたシャワーヘッドから冷たい水が迸り,心臓がきゅ,と縮み上がった。


血の気が音を立てて引いていき,そしてゆっくり戻ってくる。
まるで蘇生するようだ,とぼんやり考えていると背後で扉が開く音がして,腰に腕が回されると同時に背中に張り付く体温を感じた。


「気持ちいい?」
「…張り付くな」
「どうして」


答えなどわかっているくせに。
そんな恨みがましさを込めて肩越しに振り返ると,伸ばされた手がこめかみに触れ,そのまま壁際に押し付けられた。


「…ね,どうして」


見上げる瞼の縁を舌先でなぞられ,目を瞑る。
触れるか触れないかぎりぎりの距離で触れてくる舌先の感覚に身体の芯が甘く疼くのを感じた。


「そん…なの」


足りてねぇからに決まってんだろ。
掠れて上擦った声に,くつり,喉の鳴る音が重なる。
捕らえられた顎先を無理矢理上向かされ首筋に歯が立てられる。
腰を抱く掌が背骨から尾てい骨へを滑らされ先ほどまで散々浦原自身をくわえ込んでいた箇所に指を感じた。


「…ッ」


びくん,と身体が震えてしまう。
首を振り,ギチリと歯を噛み締めたその隙から止めろ,と唸る。
けれども浦原は水の滴る耳殻を甘く噛みながら動じない風でひっそりと笑った。


「足りないんでショ」


真上から覗き込むように見下ろされ,ゆっくりと指を含まされる。
ふざけるな,と唇が言葉を紡ぐより先に,あぁ,と快楽に解けた声が零れ落ちた。


違う。そうじゃない。
そんなんじゃ足りないからだ。
指なんか――。
嗚呼。
わかってるくせに。
わかってる,くせに。


脳裏で明滅する言葉はどれひとつとして音を結ぶことはせず,ざぁぁぁというシャワーの音に紛れてくちゅくちゅと濡れた卑猥な音が響くのを聞くばかり。
奥歯を噛み締め,握り締めた拳で浦原の背を殴りつける。
耳元で「痛い。止めて」と笑みを孕んだ声がして,後ろに含まされた指が鉤のように曲げられた。


喉から引き攣れた声が漏れ,浦原の背に縋りつく。
途切れ途切れの声が酷く耳障りだった。


結局手指だけで散々いいように煽られて玩ばれて僅かばかりの精を吐き出し,一護は浴室の罅割れたタイルの床にぺたりとへたり込んだ。
傍らに立つ浦原が一護の精に塗れた指をすぐ横で漱いでいる。
そしてきれいになった指で梳くように一護の髪を漱いだ。


「……足りた?」


ぽつり,零された言葉に,ひくり,背が揺れる。
顔を上げかけて,それを止め,一護は両の足首を掴むとふ,と息を吐いて笑った。


「全然」


返す言葉に,浦原の笑う気配が重なる。


「下着とTシャツ,出しておきますね」
「あぁ」
「アタシこのまま仕事戻りますけど,鍵」
「ポストん中だろ。わかってる」


床に胡坐をかいたまま俯いて頭の天辺から水を浴びる。
背後に立つ浦原に返す声は,僅かに掠れていてももう熱には浮かされていない。


「今日,夜は?」
「バイト」
「そう」
「あぁ」


がちゃり,と音がして背後の扉が閉じられる。
ざぁぁぁぁぁと頭上から降り注ぐシャワーの水音がボリュームを増した気がした。


この,感情はなんなんだ。
揺るく頭を振ると,こめかみを,額を,冷たい雫が伝った。


浦原と知り合ってたった一ヶ月。
けれども身体を重ねた回数はその日数を軽く凌駕している。


恋とか,愛とか。
そんなものとはまったく異質な,バケモノじみた欲望。
浦原を見ると,否,その気配を感じただけで頭がおかしくなる。


全部暴いて,暴かれて。
貪って,貪られて。
骨まで噛み砕いてやりたいと。骨ごと噛み砕かれてしまいたいと。
そんな気狂いじみた感情に揺さぶられてしまう。


どれだけ身体を繋いでも尽きない欲望。
全部吐き尽くしたと思っても,その僅か後にはもうこうして欲しくて堪らなくなっている。


一護は深く息を吐くと,手を伸ばしてシャワーのコックを捻り,降り注ぐ水を止めた。
浴室の外に置かれていたバスタオルで水気を拭き,前回か前々回かやってきたときのものだろう。
洗濯済みの自分の下着を身につけた。
そのまま重たい身体を引き摺って布団の上げられた座敷に戻る。
つけたままにされていた扇風機の前に腰を下ろし,ジーンズを身につけた。


扇風機はぶうん,ぶうん,と鈍い音を立てながら,ゆっくりと首を振る。
頬を額を撫ぜる風は,涼というよりもただ,溶けかけたゼリィのような生温い部屋の空気をゆっくりと攪拌する程度の効果しか齎さない。
じっとりと浸み入るような暑さに顔を顰めて,一護は低く呟いた。


「全部,夏のせいだ」


声に出してそう断じてしまうとまるでその通りのような気になった。


そう,すべてはこの暑さのせい。
それだけ。
それだけだ。


でも,もし本当にそうならば。
一護は肩にひっかけたバスタオルで首筋を伝う汗を拭った。


「夏が,終わったら」


全部終わってしまうのか。
もう,顔を見ることもなくなって。
キスすることも,抱き合うことも,なくなって。
この部屋に来ることも――


「……なく,なる?」


呟く声に答える声はなかった。
ただ,窓の外,つくつくぼうしの鳴く声が夏の終わりが近いことを告げていた。







>> to be continued.