HUSH'
西條 葎
§・§・§
午前十一時半。
ただっ広いホールのバーカウンタ横に設えられた柱時計がぼーん,と重い音でたった一度鳴る。
それが,戦闘開始の合図。
丸いものや四角いものが一見乱雑に――その実隣のテーブルとの距離が精密に計算されている――並べられたホール内に,ちいさなカウベルの音が響く。
からん,からん,というどこか滑稽なその音に,ホールのそここに居たウェイタたちが一斉に顔を挙げ「benvenuto!」と声をかける。
今日一組目の客はOLらしき若い女の二人連れだった。
レジ横に居たカーポ・カメリエーレ(ホール長)の浦原が優雅な足取りでさっと歩み寄りにこやかに席へと案内する。
その間にもドアはひっきりなしに開けられ,20程の席が設けられたホール内はあっという間に満席になっていた。
一護が仕切る厨房にも入れ替わり立ち代りカメリエーレたちがやってきて矢継ぎ早に請けたばかりのオーダを読み上げる。
黒いバンダナを頭に巻いた一護は「D'accordo!」とそのいちいちに答えながら迷いのない動作で料理を仕上ていく。
ランチのコースは値段によって三種類,そしてそれぞれが二種類ずつの合計六種類が設けられている。
カメリエーレが読み上げるオーダを耳で聞いて数手先までの手順を整えながら料理を仕上ていく様は,新人のカメリエーレに云わせると「まるでロボットみたい」だそうだがそんな戯言に文句を垂れる暇はない。
11時半からの一時間半はまさに戦争なのだった。
「一護サン,奥の個室に予約。四時からだけどランチは可能ですかって」
低く落ち着いた声は浦原のもの。
一護は鍋で煮立つソースの火を止めるタイミングを計りながらそちらを向くことなく「ンなの無理に決まってンだろうが!うちのランチは二時までだろ」と吐き捨てる。
無理が通る客でなければこんな風に浦原が尋ねてこないことは先刻承知だ。
しかし先に相手の名前を云わない浦原に非がある。
「わかってますけど…卯ノ花サンなんですよ。どうします?」
ようやく齎された名前に,一護はほんの一瞬手を止め,眇めるように浦原を見た。
「どうするもこうするもねぇだろ。その代わりオーダはこっちに任せてくれって伝えろ」
「了解」
ほんの一瞬向けられた眼差しは共犯者に向けるものによく似た色を帯びていた。
一護はその眼差しに同意を示すようにため息を吐くとくるりと踵を返し背後のレンジに向かった。
「6番,8番,14番セカンド出るぞ!」
手にした皿をカウンタに流すとあっという間に手の空いているカメリエーレがやってきて運んでいく。
一護は大股にレンジ前に戻ると次の皿に取り掛かった。
広さにして十五畳ほどのキッチンにはシェフの一護,パスタ担当の雨竜,そしてデザート担当のテッサイの三人を中心に八人のコックが忙しなく動き回っていた。
24歳の若さでこの店の厨房を任されることになった当初は一護の補佐をするコックたちの中に一護よりも年長で経験も長い者が何人も居て,見下されたり露骨に指示を無視されたり小さな諍いは日常茶飯事だった。
一護はそのイチイチに反論や文句を云ったりはしなかった。
ただ態度で相手の無能を突きつけ続けた。
結果,二年が経った今では一護に歯向かう者は一人としていない。
浦原の云う「一護サンは厨房の王様っスから」が厨房,ホール共に全員の共通認識となっていた。
時刻が十二時半を回ると十三時に昼休みを終える勤め人たちの客が引いていくため,少しずつ厨房も落ち着きを取り戻していく。
一護は緩やかになったオーダを捌く片手間に四時にやってくるという上得意のための仕込みを始めた。
ストゥッツィキーノには蓮根と慈姑を素揚げにしてハーブソルトを軽く振ったもの。
アンティパスとはフルーツトマトと仔兎のサラダ…とメニュを組み立てながら並行して夜のメニュで使う材料たちとの兼ね合いにも頭を巡らせる。
そうこうするうちに時刻は一時半を回り,一護は自分のテリトリの片づけをざっとした後,補佐するコックの一人に軽く手を上げ厨房の外に出た。
店の裏手に設えられた階段を昇って三階へ。
重たい鉄扉を力任せに引き,中へ入ると一番奥のドアへ向かった。
店がある建物は四階建てのビルで全てオーナの持ち物だった。
一階がメインホール,二階が予約用の個室と厨房,そして三階には倉庫や更衣室,そして一護が今入った一番奥の小部屋には古びたパイプベッドが一台置かれていた。
窓を開けると初夏の風がふわりとカーテンを揺らす。
一護はコックコートのポケットから煙草を咥えるとひをつけないまま咥え,ベッドにどさりと横になった。
朝五時に家を出て半時間かけて店にやってくる。
車もバイクも自転車も使わずに歩くのは偏にどうにもならない低血圧のためだった。
身についた習慣でベッドから出ていい加減な身支度を整えて家を出るまではするものの,とてもじゃないが乗り物を運転できるだけ頭が覚醒していないのだ。
近所に住む浦原が通りかかると「乗ってきます?」とクラクションを鳴らしてくれることもあったが,火のついていない煙草を咥え,ぼんやりとした目を向けるだけの一護に大概はそのまま走り去ってしまう。
雑多な匂いの入り混じる都会でも朝一番の空気は清涼と言えなくもない。その中を半時間かけて歩くことによりなんとか使い物になる程度まで目を覚ますのだった。
七時に店を開け,九時まで簡単な朝食のコースとコーヒーを出す。
パンは車で半時間ほどのところにある店から卸してもらっていた。
休みの日に一護が出かけ味に惚れこみ,オーナを口説いて契約を結んだ店だった。
いつかは自分でパンもデザートも作れるようになりたい,と野望は持っていたが今の店の規模ではとてもじゃないがそんなところまでは手が回らない。
また,いろいろなことに手を伸ばし他の仕事がおろそかになるような真似だけは死んでもしたくなかった。
それなりに入る朝食のオーダをこなしながらランチタイム用の仕込を済ませ九時から二時間,一護はこの部屋に篭る。
ベッドに寝転んで戦闘開始に備えて身体を休めるのだ。
持参した本を読むこともあるし,ただ寝転んで目を瞑っているだけのこともある。
眠ることはあんまりない。一度寝てしまうと起きるのに相当苦労するから。
そしてランチタイムが一段落した後も同じようにこの部屋に篭るのだった。
他の店員達にはコックが日替わりで賄いを作る。
賄いはコック達の腕の試験にもなるから必ず一護も一口ずつは味見をする。
しかしそれ以上口にすることはない。
一言二言感想を口にした後,厨房を出てしまうのが常だった。
ベッドに寝転んでいると,こんこんこん,とドアがノックされる。これもまたいつものこと。
一護が応答しなくともドアは勝手に空き,膝下までのギャルソンエプロンを外し,黒いパンツに黒いダブルのカマー・ベスト姿の浦原が姿を現した。
「一護サン,寝てる?」
「寝てねぇ」
「持ってきましたよ。今日のメニュは小夏とヴァニラのムースにライムのシャーベットですって」
その声にうっそりと目を開けると一護はベッドの上に身体を起こした。
浦原が銀のトレイに載せて運んできた皿を受け取り,フォークを手に持つ。
淡い黄色とやわらかな白のやさしい色合いのムースにそっとフォークを使い,一口切り分けて口へ運ぶ。
眉間がじん,とくる一瞬だ。
浦原が運んできた皿は,店のデザートを一人で仕切るテッサイが作った夜のコース用のデザートだった。
店で出すメニュは週に一度,日曜の夜に厨房の三人とホール担当から浦原,そしてバーカウンタ担当の藍染の五人で打合せをする。
昼に一護が口にするそれは,メニュのチェックでもなんでもなく,一護がテッサイに自ら頼み込んで作ってもらっているものだった。
「ほーんと幸せそうな顔して」
一護が腰を下ろすベッドのすぐ横に置かれた事務用デスクに寄りかかって浦原が揶揄う。
一護はフォークを咥えたままじろりと睨みつけるとケッと鼻を鳴らした。
「るせ。もう用ねぇぞ。さっさとホールに戻れ馬鹿」
「うっわ酷い。わざわざ持ってきてあげたのに」
「礼の催促かよ。面倒くせえな」
そう云ってフォークを皿に置くと,タイミングを計ったように浦原が寄りかかったデスクから身を起こし,身体を折って一護に口付けた。
「…甘」
「美味いだろうが」
「不味くはないっスけど,ねぇ」
「テメェ,テッサイさんの作るドルチェにケチつけんならクビにすんぞ」
まだ鼻先が触れるほどの距離で凄まれ,浦原は小さくため息を吐く。
そしてもう一度口付けるとさっさと身を引いた。
「嫉妬しちゃうなァ,ほんと」
嘯くように云う浦原を完全無視し,一護は皿の菓子に夢中になっていた。
「小夏…筋取るの大変だろうな。云ってくれりゃ手伝うのに。あーでもウマい。微かに酒っぽい風味がすっけど,なんだろこれ…」
「日本酒」
「あ?」
「土佐の方の地酒でね,すごくフルーティなのがあるんスよ。使えるかなって一本渡したの使ってみたんですって」
「マジでか。って渡したってお前が?」
「えぇ」
頷く浦原を,一護はフォークを咥えたままじっと見つめる。
物言いたげなようでいて,尋ねても決して口を割らないことが窺い知れる,そんな目だった。
「飲みにくる?」
「今日か?」
「明日でもいいけど。でももう半分ナイから次の休みまではもたないかも」
「もたせろよ。ふざけんな」
「どうします?」
「…行く」
取引成立。
浦原は口の端をニィ,と引き上げて笑うと猫のような仕草で一護に歩み寄りこちらを見上げる一護の額にそっと口付けを落とした。
「じゃあ帰りはアタシの車で。大丈夫。明日の朝も起こしてあげますから」
笑みを孕んだ声に一護は仏頂面をふい,と背ける。
どうせ部屋に着くなり壁なりドアなりに押し付けられて口を塞がれ服を脱がされいい様に貪りつくされた後,眠気で味も何も分からなくなった頃漸く酒にありつけるとそんな寸法だろう。
似たようなことを幾度となく繰り返していれば嫌でも想像がつく。
それでも嫌だと思わないのはいったいどうしてなんだろう。
一護と浦原はセックスはするものの,決して恋人同士などではない。
厨房を仕切る一護とホールを仕切る浦原は店の二柱と云っても差支えがない。
謂わば相棒であり,戦友のようなものだった。
信用はないけど,信頼はしてる。
――というのは一護の一方的な考えて浦原がどう考えているかは知らなかったが,一護は知ろうとも思わなかった。
浦原とするセックスは極上で,ややシツコイのが鼻についたが日々仕事に終われ欲望を吐き出す暇があるならベッドに沈み込んで寝てしまうという一護の適度なガス抜きになっていた。
「…明日も早ぇんだから,さっさと終わらせろよ,エロオヤジ」
すっかりきれいになった皿とフォークを浦原に突き出しながら,一護は不機嫌な声で云った。
浦原は皿を差し出す一護の手首を掴むとぐい,と引き寄せ真上から覗き込むようにして唇を寄せる。
きつく寄せられた眉間の皺に,鼻先に,そして唇に,啄ばむようなキスを落としながら低く艶めいた剣呑な声で囁く。
「一護サンが一回で離してくれるなら,ね」
っざけんな!
怒声一発,一護の蹴りが浦原の脛を目掛けて繰り出される。
けれどもそれより一瞬早く浦原は飛びのいて,茶目っけたっぷりに投げキスひとつを放って部屋を出て行った。
>> to be continued.
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