Blackcoat Angel.
*・*・*
耳に差し込んだイヤホンから高く掠れるスティングの声が脳内に響く。
I'm an alien
I'm a legal alien
I'm an Englishman in New York...
声が途切れて間奏の啜り泣くようなサックスの音色に変わる。
それが不意に遠のいて,耳の奥,鈴が転がるような幼い声が響いた。
――おにいちゃん,天使さまみたいねぇ。
見上げてくる視線に媚びはなかった。
きらきらした目が,にこにこ笑う顔が,あまりにも眩しくて浦原は言葉もなく口の端を歪めて嗤った。
まだ若い母親は初見のときに感じた「幸薄そうな」という印象そのままの眉の下がった半泣きの顔で意味もなく「どうもすみません」と浦原に詫び,くしゃくしゃのハンカチを鼻先に当て,「本当に,すみません」と繰り返した。
場所は,市営の斎場の炉前ホールだった。
浦原と若い母親とその小さな娘の傍らには辛うじて白木を模しているものの一目で合板製と知れる粗末な棺に納められた遺体があった。
浦原は葬儀屋だ。
葬儀屋といっても白と黒の鯨幕を張り巡らせ祭壇を設え会葬者を向かえ,という誰もが思い浮かべる一般的な葬儀を取り仕切るのではなく,浦原が扱う故人はほとんどが身寄りもなく一人で死んでいった者たちだった。
生き馬の目を抜く,だとか,厳粛な顔の裏はまるでヤクザ,と云われるこの業界,一人細々とやっていくのならなるべく競合のないラインを狙うしかない。
都会の片隅で,たった一人息を引き取る人間は知られていないだけで結構な数になる。
安普請の集合住宅,近所の住人が異臭に気付いて大家に連絡し,発覚する孤独死。
大家は自治体に連絡し,連絡を受けた自治体の担当者から浦原の元へ連絡が入る。
連絡はもちろん公式のものではなく,連絡を受けた浦原は改めて大家の元へ営業をかけることになる。
話がまとまると浦原はまず麻雀仲間である搬送業者に電話をかけ,寝台車を一台都合する。
一般にはあまり知られていないが遺体を搬送する車を運転するには「霊柩車免許」というものが必要になる。
道路運送法では国土交通大臣並びに地域運輸局長より一般貨物自動車運送事業(霊柩限定)としての認可を受けた事業者が選任した一種免許を所持する運転者がこの事業者の霊柩車を運転できる。
浦原は車手配を依頼した馴染みの搬送業者に幽霊社員として登録し,この免許を取得していた。
業者に菓子折り持参で搬送業者の元に顔を出し車を借り受け,大家に連絡。
鍵を借り受け車に積んだ簡素な棺に遺体を納め斎場を目指す。
公営の斎場で火葬を済ませた後は市営の墓地の無縁者の集合墓地に納骨されることになる。
費用は全額大家が負担する。
それは法律上決められていることで,だから浦原が相対する大家は大概迷惑そうな苦い顔をしている。
必要最低限の費用で一切を納め,浦原は必要経費以外に五万ほどの収入を得る。
本来ならば業者を介さず大家が自ら行えば葬祭料として実費が自治体から支給されるが,ほとんどの大家は手間を惜しむ。
だからこそ浦原のような商売が成り立つのだった。
ただ,今回の場合は少し事情が違った。
自治体の福祉課の馴染みから連絡を受け,営業をかけたところ大家はひとつの連絡先を浦原に齎した。
11桁の番号は故人が倒れたその傍らに転がっていたくしゃくしゃのメモ用紙に書かれていたのだという。
「確か娘さんがいるって云ってたから,その番号じゃないのかね。もし連絡がついたら費用はそっちに請求して頂戴」
頭の上の蝿を追い払うような口調で云うと大家は浦原の返事も待たず電話を切った。
浦原はため息を吐くこともなく聞いたばかりの番号を携帯電話に打ち込み,通話釦を押した。
番号は携帯電話の番号だった。
「…もしもし?」
よほど耳を澄まさないと聞き取りにくい,か細い声だった。
浦原は釦を操作して受話音量を上げると自分の身分を明らかにし,故人の名と亡くなった旨を伝えた。
故人の元にこの番号が記されたメモが残されていたことを告げ,関係は,と尋ねるとしばらくの沈黙の後,「娘,です」と応対があった。
そしてそのやりとりの翌日,浦原は斎場で故人の娘である女と顔を合わせた。
「……お経のひとつも,上げてあげられないなんて」
嗚咽が滲む掠れた声で女が嘆く。
浦原はかける言葉もなく,震える女の肩の辺りをぼんやり眺めていた。
――ギゼンシャ。若イ男ノ前ダカラッテ猫被リヤガッテ。コノ売女。
左耳が耳障りな声を拾う。
――昨日ノ夜,ウチニ来テ,家中家探シシタクセニ。金目ノモノガ何モナイッテ,喚イテタジャナイカ!
声は傍らに置かれた粗末な棺に納められたまるで枯れ枝のような身体をした老婆のものだった。
つまりは,死者の声。
浦原の耳はそれを拾うが,浦原がそれについて何か思うことはない。
何か思えば聞こえていることに気付かれる。
気付かれるとソレは浦原に付きまとう。
――アンタ,聞コエテルンダロウ?
聞こえているからなんだって云うんだ。
仕事を始めたばかりの頃,苛立ち紛れにそう答えてしまったことがあった。
その後のことは思い出したくもない。
結果だけ云えば浦原は二週間寝込むことになった。
もう少しで自分が彼岸に渡りかけた。
あんな目に遭うのはもう二度と御免だった。
「……もしよかったら」
いつまでも途切れない嗚咽に,浦原は呟くように云った。
嗚咽に震えていた肩が止まり,くしゃくしゃのハンカチを顔に押し付けたまま女が顔を上げて浦原を見る。
「読経しましょっか」
「え」
「実家が寺なもんで,資格はいちおう持ってるんスよ。――頭こんなですし,アレですけど」
顔にかかる淡い色の髪を一筋摘んで上目に見ながらそういうと,女は小さく息を吐いた。
もしかしたら笑ったのかもしれなかった。
「お願い,できますか」
このままじゃあんまりにも不憫で。
女はそう云った。
浦原は頷くと,手首に下げていた数珠を手繰り寄せ,低い声で経を唱えた。
門前の小僧習わぬ経を読む,とはよく云ったもんだ。
胸の裡で嘆息する。
女に云ったのはもちろん嘘だ。
半分嘘で,半分は本当。
実家が寺というのは事実だったが,放蕩息子だった浦原は修行に出ることを拒んだので資格は持っていなかった。
けれどもそんなこと目の前の女は気にしないだろう。
相変わらず故人は浦原の左耳に呪詛じみた言葉を延々吐き散らしている。
自分がどれだけ苦労したと思ってるんだ。
お前がアタシを捨てたんだ。
恨んでやる。恨んでやる。
それが事実がどうかはどうでもいい。
完全な善人が存在しないように完全な悪人も存在しない。
善悪を色に譬えるのなら人間は誰も彼も斑模様だ。
見た人の目に触れる部分に白が多ければ善人となり,黒が多ければ悪人になる。
見る角度によって見える色は変わり,ある人にとっての善人が別のある人にとっては悪人になる,なんてことはよくあることだ。
テレビをつければ殺人事件の容疑者の近しい人間がこぞって云っている。「明るくて,やさしくて,とてもそんなことをするような人には――」と。
それに,そう云った事実をさて置いても世界は生きている人間のもので,浦原に金を払うのは耳障りな繰言を撒き散らす死者ではなく目の前で嗚咽を漏らす幸薄そうな女だ。
読経する声にほんの少し力をこめると,耳元で喚く声がわずかばかり遠のいた。
丸暗記した般若心境を唱え終えると,浦原は口を閉じ,小さく一礼した。
斎場の職員が頃合と声をかけてき,そのまま遺体は炉の中へと姿を消した。
女と,その娘と浦原とたった三人だけなので休憩室の利用は申し込まなかった。
火葬にかかる時間は概ね一時間から二時間ほど。
職員に尋ねると故人の体格が小さいため,一時間ほどで終わるだろう,とのことだった。
浦原は顧客である女に連絡がありますので,と一礼してロビィを出て駐車場へ向かった。
火葬済みの遺骨は女が引き取ることになっていたので市営の墓地への連絡は必要なかった。
女に云ったのは建前で,ただ,煙草が吸いたかっただけだった。
口の端に煙草を咥えて火を点すと,うす曇の空を見上げた。
今の斎場には煙突がない。
周囲の住民が嫌がるのだそうだ。
いずれは自分も世話になる場だろうに,どうして,と思わなくもないが,この国では死は穢れとされているから仕方ないのかもしれない。
血管を通って身体の隅々までニコチンが行き渡るのを感じながらぼんやりとそんなことを考えたが,結局のところはどうでもよかった。
耳の奥に啜り泣く女の声と,呪詛じみた死者の声が蘇る。
浦原はスーツのポケットからミュージックプレイヤを引き出すとイヤホンを耳に差込みスイッチを押した。
スチュアート・コープランドのドラムの音と同時に甲高いスティングの歌声が脳内一杯に広がる。
考えるな考えるな考えるな考えるな――。
澱んだ水溜りのように動かない雲の陰影を睨みつけるように見上げ,深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出す。
so lonly,とスティングが繰り返している。
孤独?
それがどうした。
ゆっくりと煙草を吸いつけ,携帯電話で麻雀ゲームをし,それから駐車場を後にした。
歩きながらミュージックプレイヤをポケットに仕舞い,代わりに取り出したフリスクを口に放り込んで噛み砕く。
手には白磁を模した安物の骨壷を提げていた。裏口から建物内に入り,職員にそれを預ける。
ロビィを出てから一時間ほどが経過していたが,まだ骨上げにはならないようだった。
女はベンチに座ることもなく,足元に子どもを纏わりつかせたまま窓際に佇んでいた。
浦原が声をかけると,やつれた顔がゆっくりと振り返る。
途端に左耳がまた死者の声を拾った。
交わす言葉も少なく,ぽつり,ぽつりと漏らす女の言葉を聞いているうちに職員が火葬の終了を告げにきた。
職員に続いて炉前ホールに向かい,ステンレス製の皿に広がった骨を女と小さな娘が拾うのを見守った。
娘は手が届かないので浦原が抱き上げる格好になった。
ひとつ,ふたつと拾い上げ,もう結構です,と蚊の鳴くような声で女が云うと,浦原は抱き上げていた子どもを床に降ろし,職員に小さく頷いた。
職員は慣れているのかてきぱきと骨を納め,「こちらがお舎利になります」と小さな骨を女に示した。
舎利,というのは喉仏の骨だという。仏教に倣った謂れがあったはずだが,忘れてしまった。
女が頷くと,職員は丁寧な手つきでそれを納め,皿に残った小さな欠片もひとつ残さず全て納めたがそれでも浦原が用意した骨壷の半分にも満たなかった。
壷は白木の箱に納められ,白布で包み,女に渡された。
一礼して職員が去っていき,その場に浦原と女だけが残された。
これで浦原の仕事は全て終わったことになる。
支払いの話をしなければ,と女に向き直ると,足元でスーツの裾がくん,と引かれた。
目を落とすと小さな娘がきらきらした目で浦原を見ていた。
「お兄ちゃん,天使さまみたいねえ」
死神だのハイエナだといわれたことは今までにも何度もあったが,天使に譬えられたのはこれが初めてだった。
それが,昨日のこと。
がたたん,がたたん。
寄りかかったドアから電車が揺れが身体に響く。
耳の奥に蘇った声は,あっという間に遠のいて,そして消えた。
再び戻ってきたスティングの歌声に耳を澄ませながら浦原は閉じていた目をうっそりと開いた。
朝の環状線は職場や学校に向かう客たちで犇いていた。
乗り込んだのがターミナル駅でなかったため座ることもできずドアに寄りかかって立っていたがもう身体は限界だった。
天使様に譬えられた後,浦原は使った車を返しに行き,その後副業で朝まで拘束された。
元から予定していたことではあったが,34歳の身体に徹夜はかなり堪える。
油断すると膝から崩れ落ちていきそうだった。
視線を感じたのは再び目を閉じてしばらくしたときだった。
目を開けて周囲を見回す。
気のせいか,と思ったが,慌てて目を逸らしたのが一人居た。
高校生だろう。半袖のシャツの上に白いベストを着込んでいる。
つり革に掴まり,思い切り俯いているが,耳の辺りがかすかに赤い。
――そんなにみっともないっスかね。
浦原は自分の身形を見下ろしてため息を吐いた。
ネクタイは緩めたままだし,顎先には無精髭も浮いている。
みっともいいとは云いかねるな,と自覚して再び目を上げ高校生を見る。
怪しんでくださいとばかりに俯けられた顔は頬からこめかみまでしか見えなかったが,それでも強張っているのがわかる。
気まずい思いさせちゃってますかね,と思い,浦原はそっと目を逸らした。
別に見られたくらいで減るもんじゃなし。
腹が立ったわけでもなし。
なんで?とは思うが,それだって別にどうしても知りたいわけじゃない。
再びイヤホンから流れる音楽に身を任せ,目を瞑るとしばらくしてまた視線を感じた。
顔を上げ,高校生の方を見る。
するとその顔は背けたように天井から下がる雑誌のつり広告の方を向いていた。
――面白いなァ。
わざとらしいにもほどがある。
くつり,喉を鳴らして浦原は高校生から目を逸らした。
目を瞑るのを止め,窓の外を流れる景色を見る振りで顔の向きを変えた。
時折ガラス越しに映る高校生の姿を盗み見る。
何が面白いのか知らないが,やっぱり高校生は浦原を見ていた。
ふ,と悪戯を思いついたのはそのとき。
窓から目を逸らすと,タイミングを図って噛み殺していた欠伸をそのまま漏らした。
じわり,涙の滲んだ目を向けると,視線の先で高校生が釣られて欠伸を漏らすのが見えた。
そして浦原の視線に気付くと,ぎくりと身体を強張らせつり革を掴む手を左から右に替え,その腕で顔を隠してしまった。
おやま,と思ったものの,浦原は少しだけ後悔した。
高校生は二度と浦原の方を見なかった。
もう少し遊んでくれたらよかったのに。そう思った。
ひとつ,ふたつ,と駅が過ぎ,ドアが開くと一斉にこっそり窺う視線の先で高校生が動いた。
ここで降りるのか,と駅名を確認し,高校生に視線を戻す。
高校生は俯いたまま浦原の方へやってくる。
本当ならば向こう側から降りたかったのだろうが,距離的に遠いのと車椅子の乗客が二人いるため出るのに難儀するのは目に見えていた。
俯いた頬も,耳も真っ赤だった。
距離が大分近づいて,浦原は彼の髪が鮮やかなオレンジ色をしていることに気付いた。
眩しい色,と思った。
きれいだな,とも。
思わずくすり,笑みが零れると,その声が聞こえたのか,え,という風に高校生が顔を上げた。
視線が間近でぶつかる。
驚いた顔に焦りが浮かび,それからどうしてかほっとした顔になった。
その変化が可笑しくて目を細めると,浦原は今はぽかん,とした顔で浦原を見上げる高校生に囁くように声をかけた。
「イッテラッシャイ。――気をつけてね」
ぽかん,とした顔に再び驚きが浮かぶ。
しかしそれは一瞬のことだった。
「――ドアが閉まります。ご注意ください」
天井のスピーカから響くその声に弾かれたように高校生の視線が逸れ,慌てて降りていく。
浦原は閉じたガラス越しにホームを見た。
電車を降りた高校生が振り返る。
そして,これ以上ないほど目を見開いた顔で浦原を見た。
バイバイ,と云う風に手を振ると,釣られたように手がのろのろと上がり,小さく振られる。
そして自分がしたことに気付いたのか,顔が真っ赤に染まった。
可愛いなァ。
くつくつ,喉が鳴る。
堪えるのが勿体なかった。だから周囲の不審がる視線を無視して浦原は笑みを零した。
耳に差し込んだイヤホンからは相変わらずスティングの声が響いている。
Every little thing she does is magic
Everything she do just turns me on
Even though my life before was tragic
Now I know my love for her goes on...
そういえばさっきの子も耳にイヤホンしてたけど,最近の子ってどんな音楽聴くんスかね?
ぼんやりとそんなことを考える。
部屋に戻ったら,うんざりするほど寝て,それからCD屋に出かけようと思った。
今のところ次の依頼は入っていない。
懐には本業副業と合わせて百七十万ほどの現金がある。
本業が三万で残りが副業という本末転倒な配分であったが,出所はともかくとして自分の稼ぎだ。
気の向くままに数枚CDを買ったところで誰に文句を云われる所以もなかった。
時計の短針がぐるりと3/4周した後,とあるCD屋の片隅で浦原はその高校生と再会することになる。
こちらは05/04配布の「azalea.」と繋がってます。
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からドウゾ。