azalea.





*・*・*



がたたん,がたたん。
電車が揺れる。
車体がカーヴに差し掛かったせいで,ゆっくりとかかるGをつり革にぶら下がってやり過ごす。


いつもより二本遅い電車。
これを逃したら遅刻になる,と乗り換えた二つ前の駅では構内を全力疾走までしたというのに,身体にへばりついた睡魔は馬鹿みたいに強力で,凶悪で,またぞろ瞼が重くなってくる。


――参ったな,ちくしょ。
込み上げた欠伸を噛み殺し,視線を窓の外に向ける。
眩しい朝日に照らされた街並み。
見慣れた景色に眠気を払拭してくれるような刺激はどこにも見当たらない。
仕方なしに視線を上げて,窓の上に貼られた広告をひとつひとつ読もうとする。
しかし眠気に撓んだ頭ではそれすらも覚束ない。


彷徨わせた視線がぴたりと止まったのは,つり革に掴まる一護から見て右手前方,ドアの横に立つ男の横顔の上だった。


――俺以上に眠そうなヤツがいる。…っつーか,ありゃ立ったまま寝てんじゃねぇの?
そう思うと笑えてきて,思わず口の端が緩んだ。
これから仕事へ行くにしては草臥れたスーツ姿のその男の横顔をまじまじと見つめた。


伸ばしっぱなしの淡い色の髪を無造作にひとつに括ったその男の年齢は定かじゃない。
30代そこそこ,といったところだろうか。
白いシャツに黒っぽいネクタイ。そして黒いスーツ。
鞄は持っていない。男の後方頭上にある網棚の上にアタッシェ・ケースがひとつ載っているが,それがもしかしてそうなんだろうか。
うすい瞼は半ば落ち,じっと見ているとときおりうすく開いて電車の現在地を確かめるものの,すぐにまた閉じられてしまう。
両手をずぼんのポケットにひっかけるようにして,ぐったりとドアに凭れていた。


――よっぽど疲れてンだな。
夜の仕事なんだろうか。でも水商売っぽくはない。
そういう嫌な匂いはしない。
何の仕事してんだろ。
ただの通学電車で行きあっただけの人間に,こんな風に興味を持つ自分に,一護は首を傾げた。
けれども眠気覚ましにはちょうどいい,と更に想像を膨らませる。


どんな声をしてるんだろう,だとか。
どんな瞳をしてるんだろう,だとか。


どこに住んでいるんだろう,だとか。
なんて名前なんだろう,だとか。


がたたん,がたたん,と不規則に身体を揺らす電車の揺れも気にならないほどに,一護はその遊びに没頭した。


一護が凝視する視線の先,伏せられていた男の目がぱちり,と開いたのは一護が電車に乗り込んで三駅目に差し掛かったときだった。
まもなく到着する駅名がアナウンスされ,「お降りの方は――」という敬語として問題のある定型文が間延びした声で車内に響く。
一護があ,と思うより早く,ぱちりと開いた男の目が,まっすぐに一護を見た。


――やばい,気付かれた!?
たとえ相手が寝ていたとしても,見知らぬ人間の顔をまじまじと見るというのは不躾な振る舞いだ。
いくら眠かったとはいえ,そんな一護の事情など相手には関係ないことだろう。
気まずくて,申し訳なくて,けれどもいきなりすみませんでした,と謝るのもどこか変な気がして,一護は俯いて深いため息を吐いた。


しばらくそのままでいると,今度は自分に向けられているかもしれない視線が気になった。
怒っていたら,謝ればいい。
どこか捨て鉢な気分でそろそろと顔を上げ,向けた視線の先,男は再びさっきと同じように眠る姿勢に入っていた。
さっき,一護の方を真っ直ぐに見たのなんて嘘みたいに。


一護はほっとする反面,どこかがっかりしている自分に首を傾げた。


がっかり?
なんで?


自分に問いかけても答えは浮かばない。
目が合った瞬間は心臓が口から飛び出るかと思った。
眠気なんかも一瞬にして吹き飛んだほど。
それが,面白かったのか…?


何にせよ,男が怒っていなかったのは悪いことじゃない。
ほっとすると,また吸い寄せられる視線が引き剥がせなくなった。


うすそうな瞼だな,だとか。
無精髭がはえてる,だとか。


不躾だ,また目が合ったらそうするんだ,と警告を発する理性の声は聞こえていた。
それなのに,どうしても――。


「―――ッ!」


また,だ。
不意に男が目を開け,そして一護の方を見た。
今回は間一髪,先に逸らすことができた,と思う。
それにしたって,なんでそんな不意打ちするんだ。性格悪いんじゃねーの?


自分勝手にもほどがある怒りが腹の底でぐつりと煮えるのを,一護は呆れた思いで自覚した。
そのままゆっくり二十数えて,不自然にならない様に顔を上げる。


男はもうこちらを見ていなかった。
けれども,もう眠ってはいなかった。


――気付かれた,かな。
もしそうだとしたら,悪いことをした。
素直にそう思う。


もしも男が仕事帰りだったとして,電車の中で立ったまま,うとうとしてしまうくらいに眠かったとする。
それなのに凝視する視線が鬱陶しくて目が覚めてしまったとしたら。
胸をざわめかせる罪悪感に,一護は顔を顰めた。


ちらり,視線を向けると,男はぼんやりと窓の外を見ていた。
伏せられていた瞼が開かれても,男の眠そうだという印象は変わらなかった。
一護は凝視こそ控えたが,ちらり,ちらりその横顔を盗み見た。


――また,こっち見ねぇかな。
ふと,そんなことを考えている自分に気付いてはっとなる。


何を,何を考えた,今?
他人を使ったゲームなんて悪趣味にも程がある。


わかってる,わかってるのに――。


男が小さく身じろいだ。
そして,また,一護を見た。


慌てて顔を背け,またしばらくやり過ごす。
次の到着駅名がアナウンスされ,一護が降りるまではもう二駅,というところに着ていた。


そのアナウンスが途切れるのを待って,また何気ない風を装って顔を上げる。
男は,窓の外を見ている。
もうこっちは見ていない。


安堵と,がっかりに半分ずつ心を攫われながら,一護は再び男の横顔を見つめた。
流れていく見慣れた景色を背景に,男の目が細められると,閉じられていた唇が,うすく開いた。
そして,そのまま。


拙い,と思ったときには引き摺られていた。
欠伸の連鎖。


くああああ,と男が漏らした欠伸は,ダイレクトに一護を直撃し,噛み殺す間もなく,一護も同じように堪えそこねた欠伸を放つ。
そして,男の目が,また一直線に一護を見た。


――完全に,バレた。
顔が赤くなっているのがわかる。
もう顔を上げられなかった。
できることならこの場を離れたかった。
けれども朝の通勤時間帯の環状線にそんなことができる余裕はどこにもなく,一護は相変わらず左右をサラリーマンらしき男に挟まれたまま,つり革にぶら下がり,懸命に顔を俯かせていた。


あと二駅。
あと二駅。
電車が減速し,やがて止まる。
ぷしゅー,と云う音。
男が寄りかかるドアが開いた。


もしかして,降りたりしないのかな。
そんな都合のいい期待を抱いて,ほんの少し顔を上げる。
しかしまだ男はそこにいた。
そしてまだ一護を見ていた。


顔が熱い。
耳も熱い。


あと一駅。
あと一駅の我慢。
ぶしゅー,と云う音。
男が寄りかかるドアが,再び閉じる。


ゆっくりと電車が動き出すのを感じ,一護は小さく息をつく。
都心を走る環状線は,一駅の感覚が凡そ二分ほど。
二分。
ゆっくりと百数えれば,もう,ゴールだ。


自分の靴の爪先を見下ろしながら,一護はじりじりと待った。
やがて,次の到着駅名を告げるアナウンスが車内に響く。
ほっとしたのも束の間,降りるにはどうしても男の寄りかかる方のドアを潜らなければならないことに気付いて愕然とした。


一護の立つ位置から逆のドアへは遠すぎる。
電車が停車するわずかな時間に,車内に犇く人を掻き分けて向こうのドアまで辿り着くのはどう考えても無理だった。


仕方ない。
なるべく俯いて。
絶対顔なんか見ないようにして。


ゴメン。知らない人。
もうあんなふざけた真似はしねぇから。
だから,許してくれ。
胸の裡だけですっかり瞼の裏に焼きついてしまった男の面影に詫びる。


電車が減速し,かかるGのせいで身体が揺れた。
足を踏ん張ってそれを堪え,完全に止まるのを待って足早にドアに向かった。


なるべく俯いて。
絶対顔なんか見ないようにして。


前を歩く人の踵を蹴り付けたくなるほど気が急いた。
早く。
早く。
急いでくれ。
早く。


俯いたままドアを潜る。
その刹那,一護はくすりと笑う声を聞いた。


え,と顔を上げる。
男が一護を見ていた。
目が,合う。


よかった。怒ってねーんだな。
横目だったが,正面からその顔を見て,場違いにもほっとした。


そんな安堵がまんま顔に出たのか,男は目元を綻ばせるように和らげた。


「イッテラッシャイ。――気をつけてね」


まさか,と思った。
幻聴?
いや,確かに聞いた。
でも,あれは。
自分に向けられた,言葉――?


電車を降りたところで立ち尽くし,そのままがばっと振り返ると,ちょうどドアが閉じるところだった。
これ以上ないほど見開いた一護の目に映ったのは,まるで「バイバイ」と云う風に手を振る男の姿。


勘違いなんかじゃなかった。
あれは,あの声は,あの言葉は,一護に向けられていた。


自覚するなり,ぼん!と音がしそうな勢いで顔が赤くなるのがわかった。
ホームを歩く人に肩を押されて身体がよろめく。
一護はよろめくままに屋根を支える鉄骨に寄りかかると,嘘だろ,と呆然とした思いで呟いた。


なんだこれ。
なんでこんなどきどきしてんだ。


制服のシャツの胸元を押さえる。
馬鹿みたいに騒ぎ立てる心臓をなんとかしたくて,何度も息を吐く。


急がないと遅刻なのに。
わかっているのに歩き出すこともできず,一護は次の電車が来るまでその場に立ち尽くしていた。
鳴り止まない心臓を押さえたまま,線路の向こう,フェンスを覆い隠す勢いで咲き誇る躑躅の花を睨むように見つめていた。












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