奈落の花
小林 奈樹
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丑三つ時を過ぎたあの特有の静寂と夜の匂いを憶えている。
静まり返った廊下に床板を踏み軋る音が響く。
ああそうだ。
あの日は雨の前兆か、空気が水を孕んで肌に纏わりつくようだった。
その中で、庭に咲いた梔子の香りが甘く爛れてるように重くて。
感慨深かったわけじゃない。
けれど見納めになるかもしれないという思いが真夜中に足を家のそこかしこへと向かわせた。
家族が揃う居間、あまり使われていない客間、父の領域だった台所と狭いだけの仕事部屋、祖父の居室、末弟のそれ、今日限りで主を失う己の部屋。
その隣の、すぐ下の弟の部屋には視線すら向けなかった。
最後に、物心がついてからこれまで結界師として技を叩き込まれてきた道場の前に立った。
灯りをつけない暗闇の中で、がらんとした広い空洞を見据える。
この家に生を受けてからここで過ごす時間が尤も長かったように思う。
結界師としての自分はここから始まり、そして正統継承者である弟の襲名儀式を行ったあの夜、この家での自分の役割は終わったのだとそう思った。
渇望することに疲れたような、解放された安堵のような、そんな溜息が唇から零れる。
堪えきれずに逃げ出すように「家を出る」と告げた自分を、父も祖父も正統継承者である弟との確執だと思っていた。
それでいい。
それも嘘じゃない。
間流結界師の家に長男として生まれ、類稀な才能で将来を嘱望されていたけれど、たったひとつ、自分には欠けていたモノがあった。
掌の方印。
祖父の右手にあるそれが、自分には現れなかったのだ。
しかし正統継承者は必ずしも次代に出現してくるものなどではない。
何世代にも渡り不在だったときもあれば、同世代に何人も現れたりと実に気紛れなものだった。
正統継承者であった祖父はそのことを熟知していたため、方印が出なかったとはいえ長男である自分を墨村の後継者として育て始めた。家名に恥じぬようと躾けも修行も殊更厳しく施されたが、幼心にその意味も重責も十二分に理解していたし、また自分なりに背負って立つつもりでいた。
──七年も経ったころになって、正統継承者が生まれるまでは。
思えば、あれから自分を取り巻く世界は一変した。
良くも悪くも子供らしからぬ性質だった自分は、生まれたばかりの弟の掌にあるその四角の意味を瞬時に理解した。
ああこれで、自分はお払い箱なのだろうなと、そう思った。
思って、足元が揺らぐ感覚に慄いた。
生まれてからこれまでの年月を、その痣ひとつで全否定されたような心持ちになったからだ。
いくら墨村の長男に生まれたからといって、方印が出なければそれはなんの意味も持たない。
正統継承者である弟が生まれて初めて、本当の意味でそれを思い知った気がする。
父は方印があろうがなかろうが同じ息子に代わりはないのだからと言って分け隔てなく接したが、祖父の興味はそれから目に見えるほどあからさまに次男へと移っていった。
けれどこれまでの負い目もあるのだろう。
気を遣いもしてくれたし蔑ろにもされなかった。
今までと同じようにこの家の『長男』として接された。それがどれだけ自分を傷つけたか知らぬままに。
家督を継ぐのは弟だ。
正統継承者のみがこの家では意味を持つ。
同じ右手の方印に恵まれている祖父には思い及ばぬところだろう。
そして両親もまた、『決して正統継承者が欲しくて子供を作ったのではない』という証拠のように、それから何年かして小さな弟を誕生させたけれど、そのころにはもう次男に対する感情は澱のように胸を埋め尽くしてしまっていた。
それを、最初自分は憎しみだと思っていた。
その泥濘の中にうねる、あの滴るような色の炎を見てしまった、あの日までは。
「……にい…ちゃ……?」
突然背中に掛けられた声にぎくりとして振り返った。
自らの思考に沈み込んでいたせいか、弟の気配にまったく気付かなかった。
動揺を悟られないように瞬時に取り繕うと、寝惚け眼を擦りながら見上げてくる目線に合わせて膝を折る。
「良守…どうしたんだこんな時間に……」
「にいちゃん、どこか行くの?」
こんな夜半に装束姿の兄を見て、弟が寝起きの舌足らずな声でそう言った。
「いま、烏森から帰ってきたんだよ」
それに淋しく笑いながら嘘をついた。
今生の別れかもしれないのに、弟の部屋の前にすら立てないほど自分にはもう余裕がなかった。
血を吐くような思いで決断した別離を後悔してしまうのが怖くて、揺らいでしまうのが怖くて、そんな拙い嘘をついた。
夢現の弟の柔らかい髪を撫でながら、声に淋しさを滲ませる。
「俺ももう着替えて寝るから、お前も部屋に戻れ」
「…………」
「良守?」
「にいちゃん、一緒に寝て」
小さな背中を促そうとした手にいやいやと首を振ると、弟は装束の袂をきゅっと握り込んできた。
片手で掴んでいたそれをすぐに両手へと変えて、そのまま腰にしがみついてくる。
「にいちゃん」
その声に、嗚呼、と心の内で嘆いた。
右手に方印を宿して生まれてきたというだけで『すべて』を与えられ、そして『すべて』を奪っていく弟を心の底から憎いと思う。
どれだけ突き放してもどれだけ邪険にしても、親を慕う子のように際限なく懐いてくる弟を心の底から愛しいと思う。
愛情と憎悪、羨望と諦観。兄と弟、選ばれし者と選ばれなかった者。
皮膚の内側に降り積もるその澱が、たったそれだけの心情ならよかったのだ。
「ひとりで寝るんだ」
「やだ!」
「良守…」
「置いてっちゃやだ!」
小さな両腕が首に廻ってきた。
力いっぱいしがみついてきた弟に、そのときの自分はきっと泣きそうな顔をしていたと思う。
「ごめん、良守…」
いやいやと首を振るその背中をあやすよう撫でて、肺腑に凝り固まる溜息を苦い表情で吐き出した。
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